雨が止む前にあなたの部屋へ




織る子






 仕事が終わり、疲れきった体を引きずるように帰途につく。
 夕方から振り出した雨はまだ止まない。タクシーで帰ろうと道路まで出てみたが、数日前のあなたとの会話を思い出したら歩いてみるのも悪くないと思った。
「梅雨に入る前に梅雨のような雨が降ること、なんていうか知ってる?」
「春雨?」
「んーん。それは春の雨だろ?菜種梅雨って言うんだよ。菜の花の菜に種で梅雨。なたねつゆ。」
「菜の花が咲く頃の雨?」
「そう。だから、本当は春にさしかかるくらいの季節にしとしと降る雨のことだなあ。」
「へーー。なんかいい事知った。ありがとう。」
「ん。どういたしまして。」
 その時の空を見つめるあなたの横顔はどこか悲しげだった。

 銀色のポストを開けると、ピザの折込チラシや電話代の請求書、カード明細の封書それに私宛への手紙が数通。一通ずつ差出人を確認していると、宛先の書かれていない青い封筒があった。
 ざわつく胸とは裏腹に溜息がでる。

 バッグから鍵を探し当てドアを開ける。雨に濡れて少し汚れたヒールを脱ぎ捨て部屋に入る。指輪やピアスをすぐに外すのは私の癖だ。煩わしいものからは早く解放されたい。
 観葉植物に水をあげながら化粧を落とし素顔に戻す。
 シャワーを浴びて今日一日を洗えば、乾いた笑いも強がりも全部流せるような気がするこの時間が一番好きだ。

 青い封筒の差出人が誰なのか私は知っている。硬い感触が指先に伝わった事で全てを察知した。切手が貼られていない事から見てもあなたしかいない。
 この雨の中ここまで車を運転し、ポストに落としていったのだろう。
 何時頃に来たのだろうか。彼の仕事が終わる時間を考えて逆算すると数十分前の事で、私に会わないよう急いでこれを落として帰ったのかもしれない。それとも暫く私の帰りを待っていたのだろうか。  そんな事を考えていたらあなたの顔よりもあなたの車を鮮明に思い出した。あの助手席は私のもので、ドライブした帰りのキスや喧嘩して泣いた涙をあの席はみんな知っている。手紙の内容によっては、もうあの助手席に乗る事もなくなるのかもしれない。

 冷蔵庫を開けてバドワイザーを取り出し、さっきの封筒とはさみを持ちながらベッドへ向かう。煙草に火を点け、ゆっくり煙を吐き出してから瓶のまま苦い炭酸を流し込んだ。
 封筒の上の部分を丁寧に切っていく。大切な手紙というのは一生残るものだ。そしてこの手紙はその類で机の引き出しにずっとしまわれるであろう。
 便箋には少し右上がりの生真面目な文字が並んでいた。あなたからの手紙はこれで5回目。いつも書かれていた「愛してる」という文字はどこか恥ずかしそうで私に笑顔を作らせたけど、この手紙にはどこを探してもその文字は見つからない。
 これを書くのに、一体どれぐらいの時間を費やしたのだろう。どれぐらい悩んで何度書き直したことだろう。
 そんなあなたの姿を想像したら愛しくてたまらなくなった。

 あの日からあなたはいつもこう聞いた。
「何を見ているの? どうして具体的に話してくれないの?」
 最近、特にあなたは悩んでいたようで、私といてもなんだか寂しそうだった。
 気まずいような、それでいて本心を探るような目で私を見つめる。
 もちろん私はそれに気付いていた。「あの日の事?」と聞こうとしたけれど、そうなればお互い気まずい時間を共有しなくてはいけなくなる。知らない振りをしていた方がうまくいく事だってある事を私は知っている。面倒とか、どうでもいいとか思っていたわけではない。核心に迫られるのが怖かっただけだ。
 あの夜の電話が発端な事に間違いない。

 深夜に鳴るベルの音で、あなたと乱れたベッドからずるずると這い出し受話器をあげた。思いも寄らなかった男の懐かしい声に今しがたの余韻を忘れてしまう。
「もしもし。」
「はい。」
「久しぶり。元気にしてた?」
 2年前に別れた男のその声は私をあの時へ引きずり込んでゆく。
 好きで好きでどうしようもなかった。男だけが全てで、その男と付き合えるのなら何を犠牲にしてもいいと思えた。僅かな時間しか過ごせなかったけれど、私の胸に男はまだひっそり息づいている。
 隣の部屋で眠るあなたに気付かれないよう、小さな声で話した。受話器を握る手が震える。
「うん。元気。あなたは?」
「うん。まぁまぁかな。」
「こんな時間にどうしたの?」
「いや。ちょっと声が聞きたくなって。」
「そう…。何かあった?」
「ううん。何も。なんか急に君を思い出したからさ。」
「そう…。」
「なぁ、声小さいね。隣に誰かいるの?」
「…うん。」
「そうか。そうだよなぁ。2年も経っているんじゃ彼氏がいてもおかしくないな。じゃぁ、切るわ。良かった。幸せそうで。ごめんな。こんな遅くに。」
「待って。何か言いたい事があったんじゃないの?」
「……。何もないよ。声聞けたし…。じゃぁな。」
 そこで電話は切れた。掌が薄っすら汗ばんでいる。
 リダイヤルを押せばまた男と話ができる。少し悩んだけれど、私はそれを止めた。押す理由がない。
 私には今ベッドで小さな寝息をたてているあなたがいるし、男とのこれからを考える事がどうしても出来なかった。
 あの時の別れは辛すぎる。修復できる別れと修復できない別れがあったとするなら男とは後者のほうだ。あんな惨めな別れ方をしたふたりが、この先を歩んでいけるわけがない。

 気がつくとあなたが後ろに立っていた。
「誰から?」
「うん?あ。まゆみ。眠れなかったみたい。」
「ふーん。」
 疑ったあなたの顔は見ないようにして抱きついた。抱きしめ返すあなたの腕がさっきより弱くなっているのを気付かない振りでキスをする。このまま、またシーツに溺れれば、今の電話も私の嘘も全てなかった事に出来ると信じて。

 忘れられない過去のひとつやふたつ誰にだってある。誰にも触れられたくない思いもひとつやふたつ。私が特別捕らわれすぎていたわけではない。
 実際、あなたの誕生日には2時間もかけてプレゼントを選んだし、眠る前に聞きたかった声は、他の誰でもなくあなただった。
 ただふと、心が振り返る時間があっただけ。きっと誰にでもある時間が私にもあっただけ。

 スペアキーを指ではじくと、所在なさげに床へ落ちた。
 残ったバドワイザーを一気に飲み干し、窓の外を見つめた。まだ雨は降っている。
 この雨が止まないうちにあなたの部屋へ行こう。そして私はこう言う。
「今夜の雨は菜種梅雨かな…。」
 私達はまだ修復できる位置にいる。 そう、私はまだあなたを愛しているし、この手紙の内容を見てもふたりにはこれからがある。

「君の視線に僕はいた? 他に好きな人がいるならその人のもとへ行くといい。それで君が幸せになるのなら引き止めたりしない。さよならは言わないよ。きっと僕らは友達になれるから。」


(了)