ラビット・バーク


<3>

神田 良輔








 客が来る――僕は掃除をしようと思った。
 客を招くのだ、それなりの部屋にしなければならないし、しかも招く相手はノートをコピーするために来るわけでも、金を借りにくるわけでもない。まっとうに生活してる様子を見せなければならないし、僕の人格を疑われるようなことになってはいけない。
 と考えた。雑巾で床を拭く。
 じゃあなにをしに来るんだろう?と僕は思った。

 シミの一つを雑巾でこすりつける。きれいになった。
 もっとまともに考えないと、と僕は思った。僕は立ち上がり雑巾を流しに置いた。タバコに火をつけ、ソファに座る。
「僕は就職願いの手紙を出した。」僕は口にだした。
 その時点ではなにもおかしいことではない。僕は会社に向けて就職を願った。自己作品と履歴書とを送った。
 僕は就職できない、ということではなさそうだ。というか、相手はそのことについては婉曲にほのめかすのみで終わっている。相手は僕の申し出に対して返事をするためではなく、僕に伝えたいことがあって手紙を出したのだ。
 この段階で、話はおかしなことになる。ひどく現実感がなくなる。
 僕は手紙をもう一度開いた。すでに何度も読み返している。ディスプレイに表示し続けている。ひどくあいまいな手紙だ。良く意味がわからないところがあり、とても会社が公的に出した手紙とは思えない。
 全体として言えるのは、僕はこの会社ぐるみの興味をうけている、ということか、と思った。しかもそれはまれにないほどの好意のように思える。何度読みかえしてみても。
 責められたり追求されたりするために僕の家に来るわけではなくて、僕の力を借りに、僕に助けてもらいに、といった言葉のほうが適当に思える。そういう内容としか見えない。
 そこで僕は混乱する。



 これはひょっとしたら、形を変えた就職試験のようなものなのかもしれない。入社を願う人間に対してその人間がある申し出を受けたときにどう反応するかを確かめたうえで、入社を許可するのだ。家を点検し、安定した生活を営めるかを確認し、そしてそれらの情報から、その人間がどれだけ会社に貢献できるかを把握するのだ。
 でもそれもある面で――効率、という点で――間違っている。入社を願う人間すべての家宅を見に来る企業なんて考えられない。バカげてる。
 それとも、ひょっとしたらこれは誰かのいたずらとかだろうか。僕に把握できない手紙をだして、どこからかそれを眺めて――もしくはそれを想像して――満足してる人がどこかにいるのかもしれない。僕は出した手紙のアドレスが間違ってないか確かめた。企業検索、ホームページ、広告を見て、確かに同じアドレスであることも確認した。向こうから来た手紙について知るため、メールソフトも解体してみた。僕が入社願いを出した会社から返ってきたものとしか思えなかった。となると、かなり手の込んだいたずらということになる。
 効率、と思う。いたずらにしては無意味すぎるし、面倒にすぎる。だいたい、僕なんかをからかうなら、こんなに手の込んだことをする必要がない。

 やはり手紙の額面どおりなのだろうか。
 僕はこの会社に頼られている。この会社はなんらかの業務に、僕個人の資質を必要としている。出版社が小説家の資質を頼って小説を販売するように。芸術家がパトロンを捜す、というのとは違っていそうだ。手紙を見る限りでは、資金、のように一つ断られたら次をあたる、という感じではない。それはやはり僕個人の資質的なものを頼られているようにしか見えない。

 僕は苦笑する。







 呼び鈴がなった。10時26分だった。とても正確な時間だ。
「すみません、小川保様のお宅でしょうか?」
 女性の声だ。鍵をはずし、扉を開ける。スーツ姿の女が僕に頭をさげた。
「はじめまして」顔をあげる。僕とあまり年齢の変わらない女性だ。
「わたしは神田圏輔の代わりに参りました。神田に急用が入りまして、こちらに来ることが出来なくなったのです。神田から小川様にお伝えすることを携わっております」
 女性ということに驚いたが、話にスジは通っている。
「あ、どうも」僕は言った。「お入りください」
 僕は扉を開けた。「少し奇妙な家ですが、どうぞ。靴は脱いでいただけますか」
 内履き、と僕ははじめて気がついた。あわてて妹の内履きを渡す。僕は素足で、ほかの内履きはなかった。 「おじゃまいたします」
 女は躊躇しなかった。それを履き僕の脇を通って中に入った。

 彼女はひどく奇妙に見えた。まるで気圧される感じもなく、僕の部屋に入り、喋る。
 でも会社の看板を背負って僕の部屋に入ってきた人なんていないから、これは普通なのかもしれない。
 僕はソファを薦めた。彼女は「失礼します」とはっきりとした声で喋り、座る。僕は流し台に立ち、インスタントのコーヒーを作った。
 まずは話を聞こう、と僕は思った。二つのマグカップを出し、向かいに置いたソファに座った。
「ありがとうございます」女は言った。声にメリハリがある。「とても変わった住居ですね」
「ええ、でも、慣れればそれなりに住みやすいですよ」
「長く暮らしていらっしゃるのですか?」
「もう5年になります」
「お一人ですか?」
「いえ、妹と一緒です。今はいないようですが」
「小川清恵様、でよろしいでしょうか?」
「はい。そうです」
「慶応大学に籍をおいていらっしゃいますよね」
「はい」
 しばらく僕らはそんな話をし続けた。
 それらは僕のこと、妹のこと、家のことだった。訊ね、僕が答える。そして新しくでてきた名詞を、彼女が重ねて訊ねる。その繰り返しだ。それを生真面目に、一つ一つ確認するように質問されたので、話にオチをつけることもできない。
 だまっていればいつまでも女はそれを続けるようだった。
「埼玉は気に入っていますか?」
「はい。まあ」
「都内に住むこととかはお考えになられました?」
「いや、ええと、あのですね」僕は言った。「逆におたずねしますが、あなたはどういった方ですか?」
「私は**(僕が入社願いを出した会社名)で、取締役秘書をしております」女ははっきりした声で喋った。  その喋りもあまりにきちんとしすぎていた。僕は頷いた。
 僕らはそろってコーヒーに口をつけた。
 会話がまったく進まなかった。子供の頃、教師に説教をうけたのをなんとなく思い出した。僕は話を終わらせることもできず、頷くことしかできない。
「神田から手紙を預かっております」女は言った。「どうぞごらんになってください」
 女は黒いオフィシャル・バックから封筒を取り出した。
「拝見します」
 ベージュの、かわいらしい封筒だった。封を解くと便箋が数枚入っていた。それらは数回折られて、ひどく厚みをもっていた。「かなりありますね」
「とても大事な手紙です」
 それを取り出す。小さい、雑な字で、幼稚な子供っぽくも見える。授業中に回ってきた小さな手紙を思い出した。
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 やあ、どうも。はじめまして、神田圏輔です。

 どうも突然の話で驚かせていると思いますが、どうでしょう?すみませんね、ほんとうに。

 こちらから小川君を訪問しなければいけないことだったのですが、思いもかけずそちらからアプローチがあって、僕もすごく驚いたのです。
 まさか僕の会社に、君が就職願いを出すとは。
 というわけで、話はこちらから一方的に、まず、することになると思います。これはこちらからあなたにお願いをするという話なんです。僕にあなたの力をお貸しいただけたらうれしい、という種類の話です。

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「どうぞリラックスしてください。私のことは気になさらずに」
 女は言った。
「読むのに時間がかかりそうですね」
 僕は言った。
「ええ。時間をかけて読んでくれればうれしいです」
 彼女は笑った。初めて笑顔を見た。僕も笑いかけた。
「失礼します」と僕は言った。そしてソファにもたれた。

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 時間がなくて、こういう手紙を書くことになり――しかも、書く時間もあまりないというていたらく――本当におわびします。
 いや、あなたに喋ることがいっぱいあるのですよ。
 ありすぎて、なにから喋ったらいいのか。

 僕は小川君をある事情において知りました。
 僕はかなり小川君について調査をしました。多くのお金と労力を使って出来うる限りの小川君の情報を手にしてしまいました――たぶん、キミの気を悪くするくらい。これは、ある目的を果たすためのステップのひとつとして、キミの情報を集めることが必要だったのです。小川君がそれを迷惑に思おうがイヤがろうが、関係ないこととして、僕がやらなきゃいけないことだったんです。
 これはヒドイことだと思うでしょう?僕もそう思ってます。
 でも僕がしてることは、たいていこういうことです――僕の仕事は主にコンピュータ・ネットワークの中の広告を請け負い、それを作り、そして企業に売り込む仕事です――まあ、これは、僕の会社に手紙を書いた小川君ならわかってることですね。
 広告産業は気持ちとかそういうことを考えてはいけないんですよ。それはある経済の法則です。資本主義というルールです。考えちゃいけない、物事を効率的にやらなきゃいけない。まったく、ほとほとイヤ気がさすのですが、慣れるとイヤなことでも出来るんですよね。毎朝歯を磨くのがイヤでしかたなかったのが、大人になると無意識でするみたいに。
 なので僕はキミの気持ちなんかまるで考えずにキミの情報を集めることにしました。
 本当にヒラ謝りすることです。すみません、本当に。


 こうしてキミの情報を集めてそれを活かして行動を行う、そして目的に近づく、というのがまあ段階です。キミの情報から僕の行為を計画し、そしてそれに乗っ取って行動する。目的を手に入れるためにはそういう方針で動いていれば間違いないですね。
 でも往々にして目的は果たされないように――僕も目的を果たす、という一義的な行為を忘れることをしてしまいました。それは小川君の持つ情報がとても魅力的だった、という一言につきます。あなたの魅力で僕は仕事を忘れてしまった、なんてね。
 まあ、ともかく、ひとまずこの目的は置いておこう、新しい目的に向かってみよう、という気になったのです。
 それがまあ――一言で言ってみれば、小川君の力を借りてみよう、ということです。
 そして幸いにして小川君も僕に関わりを持とうとしてくれた(と言っちゃっていいですよね)。だから僕らもキミのためにしてやれることがある。だから僕らはお互いにお互いのための行動がとれるかもしれない。
 つまりは言ってみれば僕らはお互いのために行動する、ともだちになることが出来るかもしれない、と思ったわけです。


 さて、まあともかく、僕の話を聞いてください。僕はキミのことをとてもよく知っている。だから次は僕のことを聞いてもらう番です。本当は僕の情報をまとめて圧縮してキミの元に届けたいと思うくらいですが、まあ僕らはお互いのペースで仲良くしていかなければならないです。焦るとロクなことにならないですからね。
 僕はキミに話しかける。そしてキミは好きな時に僕の話を聞く。ぜひリラックスしてください。読みたいときに、この手紙を読んでください。そうでないときには読む必要なんてありません。ともだちの話なんていうのは、自分に余裕があるとき、ヒマな時に蜜柑でも食べながら聞くモノですからね。

 ――とか言って、たぶんキミの脇にいる女性が、キミに読むことを強要しますけどね。
 これはトラップです。女の子の言うことは聞き、ちゃんと読んでくれるだろうという、ね。
 おそらく、引っかかってくれているでしょう?


 じゃ、まずはなんの話をしようか、と考えたのですが。
 絵の話をします。ともかく、僕とキミの共通の興味です。


 絵を描くというのはどういうことだと思いますか?
 キミがある種の情熱を持って絵を描くことは、まあ、ある芸術的な行為、といっていいと思います。偏執がかってて、ある興奮を感じながら描いてる、線の一本色のバランスひとつに本気になったりする。
 これはあまり経済的な行為ではありません。芸術的な行為といっていいでしょう。

 僕は理系の大学を出てて、少しばかり記号と数字で表現する、ということも経験しました。
 理系の大学は――あれ、見たことないひとにはあまり想像できないのですが、独特の雰囲気があるんです。個性とか表現において、数字で表される物事のみに特権的な権威が与えられる世界です。
 だから絵を上手に描けたりすることとか、冗談が上手いとか、髪の毛にいい匂いがする、っていうのはあまり表現としては上級と見なされません。権威的である、とは見なされないのです。あくまで数字と数学的な明晰さでないと「まともなこと」とは見なされないんです。まあ「まともでない」なりに、認められてるところはあるんですがね。
 僕はそんな中にいて、息が詰まっちゃいました。数字で表現することも確かに大事なことだ、でも、もっと抽象的で曖昧ななかにもすばらしい表現があるんじゃないか、って考えてました。だから絵を描くこととかに興味を持ちました。
 そんななかで思ったことは、この二つの行為は極端な行為だ、ということです。僕の欲求は数字だけをみつめてる時にはない快感がありました。それらは全く別のものみたいに感じられました。右脳と左脳とかいいますけど、そんなものです。殴る気持ちよさと殴られる気持ちよさというくらい、まったく違うものだと思いました。
 僕はしばらく理系の大学に籍を置き、そして絵を描くということを続けました。それらは両方をやっていないと、バランスがとれないものでした。絵ばかり描いてると数字を見たくなるし、数字の羅列を見てると、色と形のシャワーを浴びたくなる、という感じで。


 下手な絵を載せますが。(こういうのって味があると思わない?)
 人間は原点Oからスタートし、表現の欲求に従って、右上の方向に拡大していく。方法的にはx軸に沿った手段、数、もしくは数的な表現に拡大する人もいるし、y軸に沿った手段、絵、もしくは絵的な表現に拡大する人もいる。そして、これらの中間の存在として、文字という記号を使った表現がある、と。
 表現とはいかに原点0から遠ざかるかということにつきます。0からの無限遠点は「非現実」という名前で呼ばれることになるでしょう。僕らはいかに「非現実」へ、肉体を持った僕らから遠ざかるか、ということを望まざるをえないんです――と僕は思います。
 そしてこの絵で示唆できるのは、0からの距離、と考えたときに、一番適当な手段として存在するのは「文字」だ、ということです。たとえば、数字で6表現する、というのは原点からの距離は6です。絵で6表現する、というのも距離は6。でも、絵で6と数字で6表現する(僕はこれを文字で6の表現をする、と言おうと思ってるんですが)というのは原点から約8.4離れた手段になるんです。もっとも「遠くまでいける」表現だと思いませんか?

 まあ、これは僕の遊びみたいなものです。できれば話に乗ってもらえるとうれしいんですが、そうでなかったら聞き流してください。
 まあともかく、僕は表現という手段――それは一言で言えば、記号を作り出す喜びです。それにおいて、最大の喜びはコトバ、文字の表現と思いつきました。そして僕の興味はそっちへと向かったんです。


 ええと、まだ喋りたりないと思ってますが、まあひとまずこのヘンにしておこうと思います。
 ともかく今日のところは文字という手段についての僕の興味だけを喋っておきます。
 また今度――というか、僕はとても緊張してるのですが。

 ぜひ、小川君ともっと喋りたいと思ってます。できれば、こんなことを。
 僕が集めた情報をまとめた結果――キミはこういう目的に必要ななにかを知っているかもしれない、と思ったんです。


 じゃあ、また。またすぐにでも、連絡すると思います。よろしく。


 神田圏輔

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 僕はゆっくりと手紙を封筒の中に戻した。

 この手紙は僕のある部分を刺激した。
 それは手紙の内容とはまた別のことだった。内容は上手く頭に入っていなかった。その刺激があまりに強すぎて、手紙の内容まで思いを巡らせることができなかった。

 こういう喋り方をする人間を、僕は知っている。

 それらは記憶の連鎖を呼び起こした。まったく忘れていたことや、全然意味がないように思えていたことを、再び照り返させた。僕は疲労を感じた。状況が上手く整理できない、知っていることと知らないことが上手く見えないためだった。
 僕はかなり混乱してしまっている。

 目の前の女性はコーヒーカップを持ちながら僕を見ていた。手紙を読んでいる間、彼女は僕を見つめ続けていた。僕は彼女の目を見つめ返した。
 なにから喋ったらいいのかよくわからず、僕はしばらく彼女の目を見つめた。
 彼女の顔と僕の知ってる情報はどこかでつながっている。鈍く、かすかな線で。
「あのですね」と僕は言った。
「はい」と彼女は言った。
「あなたはひょっとしたら、古沼静香さんではありませんか?」
 僕は言った。