ラビット・バーク


<5>

神田 良輔






 僕は生活を続けた。

 古沼静香、神田圏輔は、あれから僕になにも言ってこなかった。
 はじめのうち、それはものすごく不自然なことのように思えた。漠然と想像してたのは、こういうことだ。神田圏輔の秘書(と、想像力の乏しい僕は彼女の立場を想像した)をしている古沼静香はボスの神田圏輔の元に戻り、状況説明をして、神田圏輔の小言をもらい、そしてまたすぐ僕に連絡を返すだろう、と思った。圏輔が僕になにかの頼み事をしたいのは間違いないのだろうし、僕らの間には連絡を交換できるパイプが――しかし、なんてパイプだろう?――出来たのだ。後は、僕に、なにをどうしてくれ、ということを言ってもらうだけだ。僕はそう考えた。
 そうやって彼らの連絡を待って一週間が過ぎた。二週間が過ぎ、三週間が過ぎた。僕の元にはなにも連絡がなかった。
 僕は待っていた。時間があればメールボックスを覗き、ついでに神田圏輔からの手紙を読み、時間は過ぎていった。メールボックスは、カエルにとっての水面と同じことになった。僕は水中から息を吸うために水面にあがるように、メールボックスをチェックしなければならなかった。
 そんな自分の姿を思い浮かべると、憂鬱になった。
 彼らのよくわからない話は、僕にとって大事なものになりつつあるのを感じたからだ。
 
 僕の睡眠時間は、また異様にふくらんだ。ほとんどまる1日、眠り続ける日もあった。
 
 一月が過ぎようとした頃、僕は彼らに手紙を書いた。
 それまでにも何度も手紙は書こうとしていたのだが、途中まで書いては、破棄する、それを何度も繰り返していた。
 神田圏輔にはなにも言うことはなかった。彼は僕に話を聞かせることを選んだ。彼の話に対してなにかを言えるほど、話を聞いてはいなかった。どんなことを書いても、まるで見当違いのことを喋ってるような気がした。
 古沼静香にもなにも言えなかった。彼女の顔を思い浮かべるたびに、古い知人の顔をすることはできない気がした。彼女は神田圏輔を通してのみ、僕に対して窓口を開いたのだ。それ以外のことを僕が言っても、彼女はなにも言い返してこないことがわかった。僕の手紙をダイレクト・メールのように無作為に廃棄する古沼静香の姿が思い浮かんだ。彼女は、そういう人間なのだ。
 結局僕はこんな手紙を書かざるをえなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-


 この手紙は神田圏輔様、古沼静香様のお二人に見てもらうことを望みます。お二人の個人的な配信先がわからないので会社に送らせていただきますが、ぜひ、そのお二人の目に触れるように、配信して頂きたいと思います。よろしくお願いします。


 こんにちは。小川保です。
 古沼さんの来宅を受けたのは一月ほど前になります。僕は今更のように、そのことをよく思い返しています。
 とても謎の多い訪問で、僕はこのことを思い返さないわけにはいきませんでした。そこから、神田さん、古沼さんのお二人のメッセージを、なにか引き出せないか、考えないわけにはいかなかったのです。
 しかし、それはうまくいきませんでした。僕は古沼さんのメッセージも、古沼さんを通した神田さんのメッセージも、上手く受け取ることができませんでした。僕はお二人に対してなにか言うべきことを、思いつかなかったのです。
 
 あるいは、あなたたちお二人は僕に対して、メッセージを送ることを放棄してしまったのでしょうか?
 僕はそれを思うととても残念に思います。古沼さんが僕に伝えたメッセージ――そのかけら――は、僕を強烈にひきつけたからです。こうも言えるかもしれない、僕はあなたたちともう少し話がしたい、と。

 これは会社という公的な機関を通して始まった話で、いささかプライベートな面をもった話、と僕は認識します。個人的な情報をほとんどまだ知らない、とてもプライベートとは言えないような話ですが、しかし、これはそういう話だと思います。僕はまだ、明確にオフィシャルとプライベートを使いわけるような洗練された生活をしていないため、その区分については神田さん、古沼さんのお二人にお任せせざるをえないのですが。
 しかし、プライベートな話なら、僕のほうから個人的になにかを言うこともできるはずです。
 ぜひ、またお話を聞かせていただけませんか?
 神田さん、古沼さんのお二人、さもなければどちらかだけでも、話がしたいです。

   これは就職願いを出したこととはまた別件として考えていただきたい、と思います。僕は個人的に、神田さん古沼さんとお話がしたいのです。

 前回の連絡より一月が過ぎてしまいました。僕はこの間、あなたたちからの連絡を待ち続けていました。
 ぜひ、連絡をいただきたいと思います。
 どうかよろしくお願いします。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-
 書いていて思った。
 僕は二人の個人的なことをなにも知らないのだ。手紙の配信先さえ。
 僕はなにがしたいんだろう、と真剣に悩んだ。





 手紙を出した勢いで、もう一つ、心に留めてあったことをしようと思った。
 神田良輔を訪ねるのだ。
 
 電話を前にして、僕は神田の番号を思い出した。苦労はしなかった。数年前の記憶だが、身体が覚えているのだ。なかなか忘れるものじゃない。
 やはり僕と神田はあんなふうに別れるべきではなかったのだ、と今更のように思う。まるで中学生のカップルみたいだ。どちらからともなく自然消滅する関係というのは、二十過ぎると強烈に後悔することになる。 僕らの間に開いてしまった距離がどれくらいか、まるで見当がつかないのだ。

 僕らはお互いがお互いに興味を失い続けたのだ。時間を割きあって会うことが苦痛になったのをお互いが認めあった――まるで恋人同士だな、と僕は苦笑する。ただ酒を飲みあう仲ではあったのだが、僕らはお互いを肴にしすぎた。神田の冗談も僕の無駄話も、決して喋ることだけが目的ではなかった。僕らはそれをお互いが受け取り、発展させることを望んだのだ。僕らはそうやって目的的に話をし、そしてそれは飽和した。そういう関係はいつか終わるのだ、と当時は考えもしなかった。僕らは互いに、今後の僕らのための話し合いを続けていたのだ。
 こんな距離が空く前になにかできなかったのだろうか。クリスマス・カードを送りあったり、誕生日プレゼントを贈りあったり、そういうことでよかった。それをしてさえいれば、僕らはお互いを傍らに、それぞれやっていくことができたのだ。
 でもまあ、と僕は思う。僕が宅配便に神田へのプレゼントを詰めて、玄関に送る姿は想像できなかった。僕が、急に、誕生日プレゼントを、宅急便を使って送る――当時の僕にはやはり無理だった。あまりに儀式的で、形式的に過ぎる、バカげたことのように思える。今なら、そういうことも出来る。でも当時はまだ無理だ。「酒を飲まないか?」と誘い合う以外に、お互いの時間を合わせる言葉を知らなかった。そういうテクニックを知る前に、僕はもっといろんなことを知る必要があったのだ。おそらく神田も。

 神田はなにをしているのだろうか、と思った。僕には想像できなかった。
 酒を飲み寝暮らす生活をしている神田も想像できた。コンピュータを前に、傍らに積んだハンバーガーを二時間に一つ消費する姿も想像できた。スーツを着込み名刺を持ち、急に振られたゴルフの話題を軽くいなす姿も想像できた。エプロンをつけヒゲをたくわえ、コーヒーを作りシェーカーを振る姿も想像できた。どれも似合う気がした。なにをしてたって、それなりに様になる男なのだ。
 それを想像すると僕の気は萎える。僕の電話を神田がとってくれないような気がする。使い古した玩具のように、暖かみのある視線で眺められながら、しかしそれは二度とふれることがなくガラス・ケースにしまわれているように。僕からの呼び出し音は、そういう玩具となんの違いがあるだろう?
 僕はなにも考えずに電話をかけた。
 使用されていなかった。



6.

 僕の生活はまた秩序を失い始めた。
 神田圏輔、古沼静香に手紙を出してから一週間が過ぎた。返事はなかった。手紙というのは、あるか、ないかのどちらかでしかないんだな、と思った。その中間は僕には見えない。神様でも見えないに違いない。
 おそらく、僕はあの二人に見捨てられたのだろう、と思った。ひょっとしたら古沼は、僕が今でも神田良輔とつきあいがあり、そのツテを頼もうとしただけなのかもしれない、と思い始めた。そう考えると、まあ、納得できるような気もした。神田圏輔の手紙は、神田良輔を示唆するためだけのことで、圏輔が実在するとかしないとかは関係なく、ただ使われただけだ、というふうに。相当ねじくれてるが、そもそも神田良輔がねじくれてたのだ。古沼もそういうところがあるかもしれない。
 でも僕は彼女が僕の生活に落とした陰を振り払うことが出来なかった。就職活動は再開する気になれず、日課にしていた絵を描くこともできなかった。僕はあてもなくぼんやりし、そして時間があれば眠った。聴いてたCDをケースに戻さずに、また次のCDを入れた。酒を飲み、テレビを眺め、ゲームをした。そしてきっかけがあれば、すぐに眠った。
 昔は神田良輔が一緒にいた。でも今回は一人だ。喋ることはできないが、支障はない。一人だって十分にそれができる。
 僕がそうしてソファ・ベッドに横になり、音楽を聴いている時、妹が帰ってきた。ずいぶん長い間、顔を見なかった気がする。妹は長く家に帰ってこないことも多いのだ。
「部屋汚くなったね」
妹は言った。僕はなにも応えずに寝たままタバコを口に入れた。
「なにか食べた?作ろうか?」
「ラーメン食った。いいよ」
「私も食べよ」
 妹は薬缶に火をかけ、キッチン周りをかたし始めた。僕はそれを黙ってみていた。
「なにしてた?」僕は言ってみた。
「学校にこもりっぱなしで論文書いてた。やっと終わったよ」
 耳にうるさかった。僕は相づちをうたなかった。
「兄さんはなにしてたの?」
「人生の模索」
僕は言った。
「古沼さんって人はまた来たの?」
「あれ以来会ってない」
「ひょっとして、機嫌悪い?」
「そうでもない」僕は言った。「と、思う」
 ループしすぎて音楽はなにも感じなくなっていた。
「なに書いた?」
「なにって?」
「論文。話聞かせてよ」
 とくに論文の話も聞きたくなかったが、話をすること自体を続けたくて、僕は言った。
 ガウス以降続いてる問題があってね、と妹は続けてくれた。明らかに専門的な話でも、妹は僕に話すのは苦ではないのだ。僕はずっとそれを聞いていた。聞いてるだけなので、僕だって嫌じゃなかった。
「ああ、そういえば」妹は急に言った。「向田が今日、家に来るって。兄さんにも会いたいってさ」
「いやだよ。会いたくない」僕は言った。僕のことを好きな女の子だ、とすぐに気がついた。
「いいじゃない、会ってよ」
「新宿にでも行って来るかな」僕は身体を起こした。
「別に気を遣うこともないって。そのままでいいからさ。あ、でも顔洗ってヒゲは剃ってね」
 僕は立ち上がり、コートを探した。このまま出ていくか、と思ったが、眠気が頭のすみにぼんやりと残っていた。僕はそれもあきらめた。
「おまえ、ベッド使う?そこで寝てるよ」
「起きててよ」
「寝てるよ」
 電話が急になった。僕のではない。僕は電源を切っている。妹のだ。
 妹は電話をとった。僕は寝室に向かいかけた。
「ちょっと待って」妹は言った。僕に言ったのだ。
「兄さんに電話だって。古沼さんだよ」
妹は言った。