ラビット・バーク


<7>

神田 良輔









8.

 薄暗い光が古沼の輪郭を形作った。表情は陰になって見えない。
 光は一瞬で止んだ。僕の視界はまた闇一色に染められた。
 靴下が床を滑る。服の生地と生地が擦れあう。やがて音は止んだ。腰を下ろすか、寝転がるか、それとも壁に寄りかかるかしたのだと思う。どんな格好をしてるかはわからない。暗闇があり、音も止んだというだけだ。
 呼吸の音が気になった。僕の呼吸の音だ。落ち着かせようとした。なかなか落ち着かなかった。腕の中にいる人形は全く動かなかった。古沼の様子もまったく解らない。古沼は音をまったく立てなかった。呼吸の音も衣擦れの音もしない。ぴくりとも動かないのは古沼と人形だけだった。僕は呼吸をし、胸が鼓動を打っていた。止まなかった。僕一人が、完全な沈黙の邪魔をしていた。自分も沈黙に貢献したかった。僕だけがこの沈黙の邪魔者でいたくなかった。
 とても自然に古沼は沈黙を保っていた。自分の呼吸に意識を向けていると、古沼がいることを忘れる瞬間があった。それに気がつき、少しあわてた。それでも古沼は音をたてなかったし、姿も現さなかった。彼女に喋ってもらおう、と思った。でもできなかった。喋ってもらうのは無礼な気がした。彼女は暗闇の中にいるんだから、当然喋りたくないのだ、と思った。たとえば、この部屋にずっと居続けたウサギの耳をつけた人形が黙り続けているように。そう思うと、こちらから喋りかけるわけにはいかないような気がした。
 
 この部屋には三人がいた。僕と古沼静香とウサギの耳をつけた彼女だ。小さい部屋に僕らはいる。ウサギの耳の彼女は僕の腕の中にいる。姿かたちは僕の腕が捉えていた。僕は手を伸ばしきって、彼女を離れさせた。これで僕ら三人は対等になった。僕らはどんなふうにこの部屋にいるか、お互いがお互いを把握できない。僕が左手を動かせば古沼に触れるかもしれない。まったく触れないのかもしれない。動かしてみればわかるのだろう。でもそうしたら次に僕は右足を動かして彼女を捜すことになる。次は左足を動かすことになる。次は頭を動かすことに。次は鼻を。次は指……。
 気がつけば僕の呼吸は静かになっていた。耳には届く。鼓膜はリズムをつけてけいれんしている。ただそれは無音の中に紛れていた。それは音として捉えられなかった。
「音を無くすというのはね――音の振動を空気の振動に一致させることなんだ。なぜなら、この世界のすべての物質は振動している。あらゆる物が。その振動を止めることはできない。だからすべての音を消すためにはすべてのものの振動を一定にする。そうすれば、それは音として誰も理解できない。つまり無音になる」
 神田良輔はかつて言った。ろくにものも知らない僕に神田はいろいろ話してくれた。神田の言うことは全部正しいように思えた。神田がいなければ僕は何一つ正しいことを知らないように思えた。
「すごく自由だね」声がした。「うん」と僕は言った。



 子供みたいな声だった。<う>、と、<ん>、ははっきりした有声音だった。意識しなかった。そうやって喋られた僕の言葉は、僕が喋った言葉じゃないように聞こえた。ウサギの耳をつけた人形が喋った声を、僕の耳が聞いているようにも聞こえた。
「はじめからこうすればよかったね」僕は言った。
「私セックスはキライ。とても怖いから。でも暗闇は好き。大好き」声がした。
「僕も」
「神田も好きだったよ」
「だいたい神田が教えてくれたよね」
「そうだね」
「こういうことはね」
「うん」
「神田はラング・コードになっちゃったんだ」
「なにそれ?」
「こういうところに神田はいる。こういうところにしか神田はいない」
「ラング・コードってなに?」
「ひどく曖昧なもの。でも見えないんだ」
「ふうん」
「でもそれは計算機みたいに正確なの」
「実在?」
「実在してるものなんてなにもないよ。でも正確で、見えない」
「時間?」
「全然違うよ」
「神様?」
「はは、19世紀に死んじゃったよ」
「わかんねーよ」
「だから時間的なものじゃなくて、正確なものだよ」
「わかんない」
「関係性のバイブル、使用価値の完成、パーフェクトな言語形態、イッツ・ソー・パーフェクト!」
「それで時間的じゃなくて正しいの?」
「そう、時間的じゃなくて正しいの」
「混沌?」
「だからちげーって。バーカバーカ」
「秩序?」
「混沌の対になる秩序じゃなくて、混沌の内にある秩序という意味ならそう」
「だからそんな言葉は神田は教えてくれなかったよ」
「教えてくれたよ」
「そうだっけ?」
「そう。でも圏輔になってからは教えてくれない。もうおまえに興味ないって」
「圏輔は神田?」
「神田圏輔でしょ」
「なぁるほど」
「そうだよ」
「じゃあ圏輔はなにに興味があるの?」
「圏輔はある人が好きなのよ。あれはアイだね、コイだね」
「いぃやらし」
「だれだってコイするのだ」
「どんなコイ?いけのコイ?」
「夢で希望でエロスで愛でレゾォン・デェートゥール」
「レゾォン・デェートゥール?」
「無限の理解の強要だね」
「それは不可能?」
「誰だって無理だね。ラング・コードで不可能なんだから」
「神田は圏輔でラング・コードで不可能なの?」
「そうだよ。もちろんじゃん」
「そうだよ。もちろんじゃん」


 僕は勃起していることに気がついた。服の上から僕の性器を触りはじめる。勃起は硬さをまし、動きはだんだん早くなった。
 声は依然と続いていた。僕は喋らなくなり、声は意味を成さない音として空気を響かせた。高い声になったり低い声になったり、長く続いたり短く途切れたりした。僕の手は時折動きをとめたり、急に早く動いたりした。だんだん疲れてきて、僕は性器から手を放した。声の音は僕の耳に聞こえ続けた。僕の喋る言葉もなくなったし、動きも止まった。勃起もおさまった。音はずっと続いた。僕はそれをぼおっと聞いた。眠りに落ちようとしていた。
 眠りに落ちているのかよくわからなくなった。
 音は未だに聞こえる。









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小川→向田
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 9.

 ドアに耳を当てている私は嫌な気分でたまらなかった。嫉妬していたのかもしれないし、不気味だったのかもしれない。でもとにかく聞いてられない声であることは確かだった。汚らわしかったし、恥ずかしくてトリハダもたったし、胃がすぼまって吐き気にもなった。ただ、飽きなかったし、耳を離す気にもなれなかった。清恵さんが私の袖を引っ張らなければ、私は固まったままドアの前から動けなかっただろう。私は耳を離すことに気がつき、ダイニングまで行ってソファに座った。私が黙っていると、清恵さんはコーヒーを作り始めた。私は黙ってそれを待っていた。
 ぐつぐつ煮たったコーヒーが私の前に置かれた。カップの柄をなんとか持ちながら、私は黙っていた。清恵さんも黙っていた。
 私は小さな頃を思い出していた。アニキが私が見てる前でセックスした時のことだ。私はまだ小学生で、目の前で行われることを注意深く見つめていた。それとほとんど同じだった。私は自分が小さな少女のままだと思った。
 コーヒーは熱くて唇に触れただけだった。何度か繰り返して、少しづつ冷まし、少しづつ胃の中に流した。身体を熱い液体が流れる。

 私はもう子供じゃない。
 私は、いろんなことに関わりを持つことができるはずだ。

 だんだんそんなふうに考えるようになってきた。怒りと羞恥が私を喋らせた。
「清恵さん、ライトある?あかり。持ち運びできるやつ」
 清恵さんはすっと立ち上がった。カーテンを開け、バスルームに片足を入れ、こちらに戻る。大きなペンライトのような懐中電灯を私の前に置いた。
 ちょっとでも思いついたことは行動しなければいけない、と私はある時期から気がついた。そうすれば、私は上手く行くことが多いタイプの人なのだ。私はよくそうするように、ある人間たちに影響を与えることができたことを思い出す。私が私の力で、ぐい、っと彼ら、彼女らの人生を掴み、かたちを変えたことを思い出す。それで私は動くことに身体を慣れさせる。

 私が喋れば、誰も無視しない。

 懐中電灯を持ち、スイッチを入れてみる。部屋の灯りがついていながら、それでもはっきりとした光が壁に形作られる。光の強さに問題はない。私はたちあがり、清恵さんを見ずに部屋の前に向かった。ドアの前に立った。
 かすかに声が聞こえた。私は取っ手に手をかけた。ドアは開く、とわかっていた。一息に開けた。大きな音がした。

 灯りが床を這い、人間の足下を照らすと、私はその足下から上半身に向かって照らしてみた。ジーンズが映り、黄色のコートが映り、そして女の顔が現れた。こちらは見ずに、灯りに眩しそうに目を細めている。光源を傾け、まるい灯りをまた滑らせる。一瞬女の姿が浮かび上がり、私を驚かせた。行き過ぎた灯りを、再び戻らせて照らすと、遠近感の狂った女の全体像が、灯り全体に包まれた。ウサギの耳をつけ、ショート・パンツを履いた女の子。それは人形だった。また光を滑らせると、男の顔が浮かんだ。男はぼんやりとこちらを見つめ返していた。
 小川保だった。私はその真っ暗な部屋に入り、彼の手首を掴んだ。彼の身体から甘い匂いが一瞬伝わった。振り払うように強く手を引くと、彼は立ち上がった。身体の向きを変えてダイニングに誘導する。彼のほうに注意を向けないようにすると、甘い匂いが気になった。強い匂いだった。どことなく人間的で下卑ていて、それでいて人工的だった。似た匂いを思いつくことが出来なかった。
 彼をソファに座らせて、私も向かい合うように座った。彼の目ははっきりと私を見つめていた。明晰だった。私は彼になんて言ったらいいか、しばらく思いつかなかった。間の抜けたことしか思いつかなかったが、それもいいか、と私は意を決した。
「はじめまして。向田恵美といいます」私は言った。
「どうも。小川です。はじめまして」
 彼は言って、私の顔を見て笑った。私も笑い返した。
 遠くで大きく息を吸う音が聞こえた。吐いている人間がたてる音だったが、泣いてる時にもたてる音だった。彼女は向こうで泣いているのだ、と思った。でも、私の知ったことではなかった。彼女は私の知らない人だった。
「小川さん、外で食事でもしませんか?」私は言った。「清恵さんも一緒に。私、なんだかお腹が空いて来ちゃった」
「そうだね。そうしようよ」
 清恵さんは言った。「兄さんも着替えて」
 小川さんは笑顔を引っ込め、私たちから視線を逸らした。