ラビット・バーク


<8>

神田 良輔









10.

 私と小川清恵さんは古いつきあいだ。
 小学校の頃、通学班というものをくまされた。ごく近い近所の小学生たちが、一組になって通学するための地区のとりきめだ。誘拐事件や少女殺人などが流行っていた時期だというのもあって、しっかりと列をくんで学校まで歩くことを決められた。
 私が小学一年に入った時、小川保は6年で班長をやっていた。だから私は当時の彼の姿をよく覚えている。地区のおばさんたちがいるところでは、私たちの前を歩いているのだけど、その目が離れるとすぐに他の友達を見つけて、私たちをほったらかしてしまうのだった。彼は、当時から友達が多いように見えた。女の子も、強そうな男の子もそうでない男の子も、彼の友達だった。どんな友達たちとでも楽しそうだった。私はその話を聞こうとがんばっていたのだけど、私にわからない話ばかりだった。小学校6年と1年の差は大きい。すぐ後ろについて歩く私のことなんて、ほとんど気づかなかったんだろう。
 清恵さんは私の一つ上だった。私が5年生になると、清恵さんは6年生で、班長になった。清恵さんは小川保と違って、私たちをしっかり守ってくれていた。清恵さんがあまりにきっちりとしているので、私は副班長の立場、一番後ろにしっかりとついて、小さい子たちがはみ出さないように気を配っていなければならなかった。一番前と一番後ろで、私たちはほとんど話もしなかった。この間の私たちの関係は、それ以上のものでもなかった。
 清恵さんがものすごく頭がいい、というのは知っていた。知能テストの結果があまりによかったため、県の教育委員会の人が彼女と面接をした、という噂は父母の間を通して私たちにも広まっていた。清恵さんは児童会長の応援演説もしたし、朝会で何度も表彰されたりもした。悪いところのない、完璧な生徒だった。
 そういえば、小学校の頃に清恵さんと交わした会話があった。
 私は、清恵さんがあまりに頭がいいので感心した。すごいすごい、と騒いだ。
「あんまりすごくないよ」と彼女は言った。「恵美ちゃんはいちばん足が速いじゃない。そっちがすごいよ」
「でも頭がいいほうがすごい」と私は言った。「頭がよければ、間違いがあってもすぐに気がつくじゃん。足が速いのは、なにも役に立たないよ」
「ううん、足が速いのと同じことだよ。恵美ちゃんは100メートルを14秒で走れるでしょ。他の人よりも1秒とか2秒早いんだよね。私は1こ2こ多く問題がとけるだけだもん」

 私はその頃から清恵さんにはあこがれていたんだと思う。私は確かに足が速かったし、そちらで期待されなかったこともなかったと思う。ただ、私は頭がよくなりたかった。
 清恵さんが言ったことは今になるとよくわかる。頭がいいということは、決して「なにかわからないすごいことができる」人では決してない、ということだ。足が速いのは、単純だ。他の人より足が速く動き、1秒早くゴールを切ることができる、それだけだ。清恵さんは私たちがわからないことがわかる人ではなく、1つ2つの問題を多く解くことができるというだけだ。頭がよければなんでもできるようになるかもしれない、というのは、ただの幻想でしかない。
 でも私は当時はそれがわからなかった。私は、頭がいい自分になりたかった。足が速いだけだと、いろいろなことができない、と思った。常に私の意識はなにかを学び取ることにあった。私は今の自分以上になりたかった。
 だから中学校に入った時、私は陸上の先生の推薦を振り切って読書部に入った。清恵さんは私の一つ上の先輩だった。彼女はいろいろ期待されながら、普通の公立中学校に入った。彼女が公立の中学に入ることを望んだのだと思う。清恵さんは同じ読書部の先輩になっていた。
 私たちはそこの読書部で仲良くなった。私は彼女につきまとい、清恵さんも私を気に入ってくれたようだった。清恵さんの家に泊まってテスト勉強をさせてもらったとき、私は一人興奮してはしゃぎっぱなしだった。私は清恵さんと一緒にいることが、うれしくてたまらなかった。
 そういえば、そのころ小川保に会った覚えがほとんどない。
 13歳の少女に、18歳の青年が与えるはずの強い印象が、まったくない。





 清恵さんは私が中学三年になると同時に、進学した。
 彼女がどこの高校に入るかは、学校のみんなが注目していた。私に、彼女がどこに進学するのか、聞かれたこともあった。
 確かに、私は彼女に一番近い立場だったと思う。清恵さんは同級生の友達と遊んだりすることがあまりなかったようだし、男の子と噂が立つこともなかった。きれいな顔立ちをしていたし、なによりものすごい能力があったので、敬遠されていたのかもしれない。
 清恵さんは中学校の生活に終わりが見えてくると、目に見えて喋らなくなっていった。いつもは私の話に上手に聞き入ってくれるのだけど、その相づちさえ上手く打てなかった。私は彼女の話を注意深く聞き、喋らせればよかったんだ、と今でも少し後悔している。私は彼女の気持ちを考えることができなかった。私に相づちを打ってくれないことを、私の問題だと考えた。私がうるさいのが悪いんだ、と、逆に私が彼女を遠ざけてしまった。


 これは推測でしかない。大人になった今でも、その話を聞くことはできないから。
 たぶん彼女が悩んでいたことは、このままでは普通にしてることができなくなる、ということだったと思う。私は清恵さんになりたかった。ものすごい能力を見せつけて、いろんな人に差をつけたかった。でも彼女はそういうことを最後まで望まない人のようだった。私にも、偉ぶったところはまるでなかったし、そういう目で見られることに最後まで慣れなかったんだと思う。
 高校に進学することで、彼女はもう普通にしていることができなくなった。普通の女の子として見られるためには、ここから先に進んではいけないんだ、と思った。飛び級が法律で認められたばかりで、いろいろな人たちに差をつけて生きていくことができるようになるはずだった。決して先に立ちたいとは思わなかった。ただ、世間が彼女ほどのスピードでついてこないだけだった。
 結局彼女は東京の私立高校に入学した。そこは全国でも有数の進学校で、私たちの中学からその学校に入ったのは初めてだった。先生方は期待し、両親は手放しで彼女を扱った。彼女は、自分のスピードのままに、成長することを選んだのだった。それがどんな気持ちか、私にはわからない。どんな物語があって、葛藤があったのか、私は知ろうとも思えない。とても私の及ぶところではないように思えるから。
 私は結局、ただ清恵さんの人格を愛し、尊敬しただけだ。
 それ以上のことは、私にはできなかった。

 清恵さんはその学校の中でも優れた成績をとり続けた。2年で高校のカリキュラムを終え、東京大学に進み、そしてそこでもさらに優れた成績を残した。大学に入ると、スピードはスピードと見なされなくなった。大学時代の清恵さんは、好きなことを好きにやって、それが評価された。彼女の能力は、ある位置に落ち着き、騒いだりされることがなくなった。彼女はやっと、普通に振る舞うことができるようになった。
 ――これは推測でしかない。




11.

 こうして清恵さんを前にしたとき、時々私は考える。私は彼女をスポイルしていたのではないかということを。
 私と彼女は喧嘩をしたりなにか言い合いになったことが一度もない。彼女が喋ることは私には100%正しかったし、私は口を挟むことなんて考えもしなかった。私が違うと思ったこととかは、それは私が間違っているからだ、と思った。もっと単純に、怒らせたりするだけでも良いと思う。
 とにかく、私は目の前から離れず、何かを言うべきで、それは決して尊敬し、その意志の正しさを認める以上のことをするべきだ。

 今、清恵さんは私の前に座っている。いつもなにかを楽しんでそうに見える目が、コーヒーがゆっくりと波をうつのを見ているだけだ。なにも動きがない。
 中学生の頃の私なら、こんな清恵さんの前にいることはなかったのだろうと思う。何か用事があるから、というのは、わざわざ作り出すまでもないことだった。中学生というのはそういうものだ。自分勝手な理屈があり、それは自分で疑えないほど正しく見える。でも今はそうではない。
 私にはなにも言えなかった。適当なことを言おう、と思った。
 「アニキがオカしくなったのがそんなに悲しいの?ブラコン?」
 とか思いついた。でも、それを口に出して言うことはできなかった。それは期待通りに、相手を苦笑させたり怒らせたりはできないだろう。それに第一、質の悪い台本を棒読みするようにしか、私は言えないと思う。それは空気を漂って、どこかに消えてゆくのをゆっくり待つだけの言葉にしかならないのだ。
 空気は重かった。清恵さんはなにも口にしないし、動きさえしなかった。私はたばこに何本も火をつけ、すぐに消した。そうしてると、なにか喋ってくれる、と私は身体が覚えているのだろう。しかし、彼女はなにも言ってくれなかった。私もしゃべれなかった。


 私たちはあの部屋に残っていたほうが良かったかもしれなかった。
 小川保は私に笑顔を向けることができた。初対面の挨拶もすることができた。でも、それ以上のことはできなかった。私たちは外に出そうとした。小川保は、それを無視した。清恵さんは少し大きな声を出した。私が聴いたことのない声だったので、私は緊張した。清恵さんが喋り続けたが、小川はもう一言も口を利かなかった。清恵さんはひとしきり喋ると、なにかに気がついたように、黙った。今度は単純に、「兄さん?」と呼びかけた。小川はぴくりとも動かなかった。それで、小川は無視していたのではなく、話を聞いていないのがわかった。肩をゆすって顔を起こすと、小川の目の焦点があっていないのを発見した。私も、それを見た。



 小川の顔を黙って見ていた清恵さんを、連れ出したのは私だった。単純に言って、そんな清恵さんを見ていたくなかっただけなのだ。小川はもう、私たちがどうすることもできなくなった、と思った。お尻をつけて座り、ただ小川の顔を見ているだけの清恵さんを見てると、清恵さんまでそうなってしまうような気がした。私は清恵さんを、そんなふうにしたくはなかった。だから連れ出したい、と思った。
 清恵さんは私が促すと靴を履いてくれたし、私が手を引くと歩くこともできた。
 清恵さんはまだこっち側にいる。




「私のアニキの話ってしたことなかったよね」
 私は言った。喋ってみた。
「私たちはあんまり仲が良くなかったんだよね。本当に、一時期まったく話をしなかったんだよ。私が中学生くらいの時かな。アニキが話しかけてきたりするのを、いっさい無視してた。用事とか、しなきゃいけないこととか言われても、私は無視するの。テレビのCMが終わって、番組がまた始まって、司会者が喋って、VTRが新しくスタートするくらいになって、初めて動き出すの。そこまで時間をおいて、アニキに言われたからじゃないんだ、ってアピールしてから、私はお風呂入れたり郵便を思い出したりするの。逆に、よくそんなかわいげのない妹に話しかけ続けてくれたな、って、今じゃ少し尊敬もしてるんだけどね」  清恵さんは、少し笑ってくれた。
「ていうかさ、あのヒトと私は、もう完全に別の世界の人間なんだ、ってわかったのが、高校生くらいに入ってからなんだよね。それまでは私が言っても全然話聞いてくれないし、理解できないようなこともするし、本当に、近くにいるだけでもイヤだった」
 思いがけず、話が飛んでいくのを私は察知した。一瞬、躊躇した。でも、勢いに任せた。
「ほら、そういうのは、当然っぽい兄妹なんだよね。ほとんどのことは見捨てて、頼れるとことか、余裕がある時とかを見計れる時だけなんか喋ったりするのはさ。私、友達の兄弟とかでそういうのを学んだな。平気で陰で悪口言うし、それをほったらかすし、ね。そういうふうに考えていったら、私もアニキに喋ったりできるようになったよ。ビデオ貸して、とかね。でも、もう私はアニキのいろんなところを知らないし、知りたいとも思わない。金で困ってようがフラれて悩んでようが――まあ、話くらいは聞く気になるかもしれないけどさ、私は見たいテレビあったりしたら、無視してテレビ見るよ。自分の部屋で」
 清恵さんに偉そうな口を利いてる、そう思ったら、急に私の心臓が高鳴った。ばくばく音が響いた。たばこを持つ手がふるえた。なんでこんなに緊張するんだろう、と思った。でも私は黙った。もう続けることはできなかった。
「私と兄さんもほとんど同じだよ。私は兄さんがなにしてるかも知らないし、私も話さないし」
 清恵さんは言った。
「ごめんね、なんかあたふたして」清恵さんは言って、笑った。私も笑った。
「私は兄さんに、なにか期待してたんだと思った。ほら、あの人、働かないし、ロクなことしないし、誰からも認められそうもないヒトじゃない?でも、それほど低脳なヒトだと思わないし、いつか私が――ほら、なんか落ち込んだりとかしたらさ、まあ、頼れるヒトだと思ってたんだと思う。うん、わたしの中では決まってたのよね、壊れるなら私が先、あのヒトが後、ってね」
 初めてこんな話をされてる、と思ったら、また私の心臓が高鳴っていた。たばこを落としそうになったし、私は返事することもできなかった。