ラビット・バーク


<10>

神田 良輔









14.


 一人、私には友人がいる。彼は別の大学に通う学生で、共通の友人を通して知り合った。
 時々彼は私を呼び出し、お酒に誘う。嫌らしさはなかったし、喋ることに慣れている人だった。純粋におしゃべりを楽しむことができる、数少ない友人だ。
 私は彼に呼び出された。
 学校とバイトを往復する生活を続けていた私は、すぐにそれに飛びついた。
 いつもようにお酒を飲み始めた。



 ――最近はどう?変わったことでもあった?
 そうですね、特に、ないかもしれない。
 ――なんだか微妙だね。なにかあった?
 いや、うーん、話すようなことはないです。ていうかさ、久しぶりにあったんだからおしゃべりしましょうよ。いろんなことを話そう、ね!どう?最近、なにか楽しいことでもありました?……


 話題は千々に乱れる。彼はソースが豊富だ。私はスプラッシュする彼の話の整理をしながら、場当たり的に接ぎ穂しなければならない。頭も使うし労力もかかる。でも、うまくいけば、とても心地いい。ゲームをする快感がある。
 そして私は、そうやって話をする友人がいることに感謝した。


 ――アイドル・コラージュって、知ってる?
 彼は言った。私は、知っていた。ヌード写真に、清純なアイドルの顔を張り付けて、あたかもそのアイドルが裸になったような写真を作ること。私は答えた。
 ――いや、あれはすごいよ。友人の家で、大量に……そいつは大量に集めてたんだけどさ、それを見たんだ。もう、ものすごいショックだった。この一件だけを見ても、今がとてつもない時代だってことがわかるよね。
 とてつもない?
 ――そうだよ。第二次大戦なんか比べものにならないくらい、大変な時代だ。死にものぐるいで戦わなきゃならない。わかってる?戦場よりも血なまぐさいんだよ?実際には血も流れない。誰も”――真剣じゃないと死ぬぞ!――”とか教えてくれない。第一なにと戦ってるのかもはっきりしない。
 平坦な戦場?
 ――そう、よく知ってるね。ボブ・ディラン。
 私は岡崎サンです。
 ――岡崎京子だよね……彼や彼女の時代からさらに10年20年がすぎた。そして状況はより悪くなったよ。キミは危険を感じないか?”――ああ、私はとてもヤバい!――”って思ったことはない?
 あなたと会ってるときは、思わないですよ。
 ――安心されるのはいいことなのかな?……まあいいや。とにかく、コラージュを見たとき、なにかが終わりだ、と思った。
 なんですか?
 時間がすぎてから考えてみた。なにがあれほどの驚異だったのか?……それはね、たぶん、それが普通に存在する、ということだと思ったよ。俺の目の前で若いアイドルがセックスしてたり、してた。友人は本当にたくさん持っていてね、いろいろなものがあった。アイドルが下着姿でテニスをしてる写真とか、板チョコとバナナ・チョコを両手に持って口周りをチョコだらけにしてるとか……そしてそれらはとても精巧だった。それはもう、現実の一つとしか思えなかった。
 チョコとチョコバナナ両手に持つくらい、なんてことないじゃないですか。
 ――そう、なんてことない。でも、それはおかしい絵だろう?僕はぱっと見て、笑った。そうしたら、これもコラージュだと言われたよ。もうコラージュは、エロだけの世界の話じゃない。全裸にされるだけじゃなくて、ありとあらゆる姿にされてしまうんだよ。……話しを聞いてみたら、それはさほど難しい技術ではない、と言われた。全くの素人でもソフトを手に入れさえすればすぐにできる、手慣れれば一つ作るのに数十分もかからないだろう、とね。そういうのはコンピュータのおかげで手軽で簡単になった。イメージさえすれば、それを絵として表すのは本当に簡単な、おしゃべりのついでにできるものになった――これがたぶん、僕の感じたことだと思うね。ありとあらゆる姿にされる、しかもものすごく簡単に……ねえ、昔のアイドル映画とか、見たことがあるかい?西城秀樹とか堀ちえみとかの時代のだよ。
 ほりちえみ?だれ?
 ――まあいいや。とにかく、昔のアイドルの映画があったんだよ。ストーリーとか、そういうのはクズだった、あれはストーリーを見たりするものじゃなかった。あれは、アイドルが怒られたりとか、ヘコんでたりとか、泣いてたりとか、そういうのを見て喜ぶものだった。昔のアイドルはそういうものをコントロールすることで商品価値をつけてたんだよ。でも、今はそうじゃないんだ。彼らは人間だ。人間だったら、こんな姿をとることもありうる、と思われるんだ。だから今のテレビ・タレントとかはほとんどなにも隠さない。隠したところで、意味がないからだ。人前にでる以上、どんな姿に想像されることもある、と思ってるんだよ。
 アイドル好きなんですね。
 ――いや、そういうだけの話じゃない。もう、自分で自分のイメージをコントロールできる時代は終わったんだ。思想とか流行とかじゃなくて、テクノロジーが可能にさせた。コラージュはとても手軽だ。だから目の前でどんなに清楚にした女性が現れたとしても、簡単にそのイメージを崩す絵を想像させる。これはイメージの優れた人だけとかそういう話じゃない、とても普通の話でだ。誰だって、どんなふうにされうる、人前に現れる限りは。――どうだい?ものすごくマジメな人がいたとしよう。めがねをかけて、きちんとした言葉を喋ってとても上品に笑う。下品な話になったらとても上品にそれを避わす。人前で全裸になることは、絶対にない、なんて誰も思わない。それはもう、ものすごく不自然なことのように思えるだろう?でもかつては、そうではなかったんだ。決定的にパラダイムが異なっていた。その場所では絶対に現れない言葉っていうのがあった。格とか、禁とか、聖域、そういうものが、かつては存在したんだよ。疑問を持つことが不可能な領域。どうだい?想像できないだろう?
 ……私は答えなかった。
 ――そんなのに守られている領域は、どれだけ安定した、落ち着いた世界だったと思うだろう?でも今はそれを作りだすことは不可能になったんだ。もうそれは暴かれ、なんでもない場所になってしまったんだ――

 私はビールを頼み、話を聞きながら飲んだ。
 もうその手の話はイヤだ、と私は思った。どうして会話のゲームがこんなふうになってしまうのだろう、と思った。
 それでも、話は聞けた。彼の話は、ほとんど齟齬なく私に理解されてしまった。
 私は聞きたくなんかなかった。




15.




 ある時。
 私は一人で部屋にいた。お風呂から出て、ご飯を食べ、早く寝ようと思いながらもぐずぐずとテレビをつけ雑誌を開いたりしていた。
 電話がなった。
 それをとるとなかなか寝付けなくなるだろうとわかっていた。だいたいもとから眠くはないのだ、ちっとも。だから私は電話をとった。
 もしもし。
「あなた、向田恵美さん?」
 知らない声だった。誰かはわからなかった。はい。と私は言った。もう夜も遅く、友人以外だとは思っていなかったので、少し驚いた。
「つながって良かった。少し話をしたいのだけど、いい?」
 どなたですか、と私は言った。
「古沼。古沼静香」
 ふるぬまさん?と言いながら、その名前を思い出した。名前とともにいくつか思い出したものがあった。考えれば引き込まれてしまう、とてもイヤな感覚が広がった。


 ――ああ、思い出しました。私は言った。すみません、もう寝ようと思っていたのですが、と私は言った。
「寝るの?うそぉ、まだ早いじゃない。(そういって古沼静香は笑った。とてもいやな感じだった)こんな時間に眠る人なんかいないよ」
 すいません、明日早いんです。努めて私は冷静に言った。声に抑揚をつけない、私はそれを得意にしている。
「そんなこと言わないでよ(とても不機嫌そうに、古沼は言った)。なに?もう私とは喋りたくもないの?私、あなたは私の電話を喜んでくれると思ってたんだけど、検討違い?」
 私は少し考えた。はい、もうかかわりたくありません、と私は言った。言いながら、なぜか緊張した。イヤな汗が流れた。
「うわ、なにそれ。え?じゃあもう小川兄弟にも関わらないの?もうあの二人ほおっておくつもりだったんだ?それって最低じゃん」
 一瞬かっとなった。かつての私ならいろいろ言い返していたところだ。でも、私はなにも喋らなかった。言葉を思いつかなかったのだ。
 私は不抜けたのだ。
「まあいいんだけど。あなた、どんな位置にいるか知らないの?清恵さんがあなたをどれだけ頼りにしてるか、保さんがどれだけあなたを求めてるか――まあ小川保は絶対にそんなことは言わないけどさ。でもそういうことわかってるんでしょ?それでもなにもしないの?」
 関係ないでしょ、と私は言った。
「関係ない?――そう、まあそうかもしれないけどさ」
 電話切ります。失礼します。
「わかったよ、ちょっと待ってよ。言いたいことがあるんだけど、それくらい言わせてよ。あのさ、とにかく私は小川保の加害者みたいになっちゃったじゃない?直接的にはそんな感じだしさ。ねえ、あなたもそう思ってる?とにかくそれを聞きたいのよ」
 だってあなたが妙な世界に引き込んだんじゃない。
「なに、その妙な世界って?そんなんじゃないのよ。違うの。私一人で小川保をどうにかさせようとしてたっていうの?そんなわけないじゃない。なんなのその意志は?どこから来てるのよ?――いい?私の意志はね、向田さん、あなたも含めて、みんなで友達になることなのよ。私と、あなたと、小川さんと、神田で。それで私は、しばらく連絡がなかった小川さんに連絡を取ろうと思ったら、小川さんがショックだったみたい。それだけの話なんだよ。謝れるものなら謝りたい。でも、謝るだけじゃどうしようもない。私はどうにか、小川さんにまともになってもらいたいと思っているのよ。だから、恵美ちゃんにも協力してもらいたいのよ」
 なんなの?あんたはなんなの?恵美ちゃんって誰のことよ?ていうかバカじゃないの?
「わかったよ、とにかくごめん。私あなたをあんまり怒らせたくないのよ。謝るから――とにかく、今日はもう切るから。もう少し冷静になって、ね」
 なによ、私はあんたなんかと仲良くなりたくもないわよもう2度と電話なんかしないでよ。私は言った。その間に電話は切れていたが、言い切った。
 押さえられない気持ちがまだ残っていた。私は受話器を置き、その周りを意味もなく歩いた。



16.




 その数日後。
 フィルタで分類されずにメイン・ボックスに入り込んだメールが来ていた。メインボックスは大きいウィンドゥが開くようになっていて、差出人の欄がよく見える。小川保、とあった。私はすぐにマウスを重ね、ダブルクリックする。


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 こんにちは、小川保です。

 学校のページからあなたのアドレスを見つけました。いきなりのお手紙で、驚かれたらすみません。
 いかがお過ごしですか?

 僕のことからお話します。
 僕はきわめて日常的な生活を送っています。
 ――僕の場合は世間では日常とは言わないのかもしれない。補足します。
 会社に就職依頼の手紙を出しながら、毎日絵を描いたり本を読んだり街を歩いたりしてます。ようやく、一枚の絵を描くことが決まり、それの完成が、今の僕の目標です。

 絵を描くことが決まったのも、あなたと会った一日がきっかけだと思います。
 あの後、いつものように絵を描こうとすると、モチーフがはっきりしていることに気がつきました。それまでは曖昧な線が浮かぶこととかとにかく一本の線を引いてみることとか、そういうことはあっても、長く続くものではありませんでした。それらは維持できないという点で、まったく意味のないただの感情にすぎない、と気づいたんです。
 でもそれ以降はまったく別の、純粋な意味でのモチーフが、僕には明確に現れるようになった、と僕は思いました。
 大事なことは、なにかを伝える意志でした。それに僕は気がついた。それをもとに、すべての芸術は造られるべきだった。それに気がつかないと、絵描きとは呼べない、そう思った。
 だから今僕は絵を描くことを中心に生活をしています。
 あまり熱心ではないけどね。

 僕の話ばかりしていても仕方がない。
 話は変わります。
 とにかく、一度、あなたとお会いできませんか?

 僕は妹とあなたの間でなにが話されていたのかを知りません。どんなことが話されているか、どんなふうに僕のことを思っているか、それを僕は知らない。
 妹は最近、僕と一緒にいることが多くなりました。
 妹は僕のことを心配しているようです。
 おそらくあなたも同じではないでしょうか?

 妹とはあなたの話が一度もでてこなくなりました。
 もう最近は古沼さん、神田の話もしません。僕らの間には以前にはなかった緊張感が張りつめています。
 正直に言って、妹が少し――我を失っているようにも見えます。
 そのへんのあたりのお話も、聞いてみたい。そしてできれば、妹の助けになって欲しいのです。

 時間がとれたときにでも、お返事をくださればうれしいです。いつでも、お待ちしています。
 それでは。

 小川保




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 私は素早くその手紙に目を通した。文字通り目の動きを早めて、文章をなぞったのだった。

 私の心の中に、一つの堰があった。
 私はタバコに火をつけ、その堰を意識した。
 そこからあふれ出そうとしているのは、紛れもない感情だった。いつのまにかあふれ出そうとしているのが自分には驚きだった。私が意識していないものだった。私は無意識的にそれを押さえ込んでいたのだ。気がつかないものではない。
 現代はそういう時代なのだ。私はそう思った。それが意識できるようになった時点で、その堰は崩れることになっていたのかもしれない。
 タバコを灰皿に押し消し、続けてもう一本のタバコに火をつける。その火が消えたところで、その堰を崩そう、と私は決意した。
 すぐにタバコは手元まで灰になった。
 ものすごいスピード、予想外のタイミングだった。私は驚きながらそれを見ていた。そしてすぐに灰皿に捨てた。決意を固めるための時間だと思い出したのだ。
 私は手紙を書き始めた。




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 はじめにもうしあげますが、私はあなたと会いたくありません。

 私には、あなた、そして清恵さん、どちらもまともではないように思えます。

 あなたたちとは古くからの知り合いでした。私の生活に染みこんでいた私にいなくてはならない人たちでした。それは間違いありません。

 しかし、私は、もうあなたたちと関わらない、と決めました。

 本当に申し訳ありません。

 最近、なにか私の中で崩れていくように思えます。

 それを見つめるのに疲れました。もう私には手に負えない、と私は思いました。

 私はもう崩れていく私を維持することにしか関心が持てません。

 本当に申し訳ありません。

 向田


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 書いた後、私はすぐにそれを送信した。それはケーブルを通して、すぐに送られた。私の手元からどこかのメールサーバまで移るのに、数秒もかからなかった。本当に一瞬、なにも考えることができない時間しかなかった。


 私の心にあった堰は完全に崩れていた。それはもう元にはもどらないことがすぐにわかった。残骸しか残っていない。
 私はそれを見つめた。悲しかった。
 失恋を思い出した。それと悲しさを比較した。

 今の私のほうが救いようがない、と思った。結局、私はなにもできなかった。しかも手紙まで書いてしまった。また顔を出さないように、蓋をしてしまった。墓に埋め、二度と復活しないように、と告げてしまった。まだ曖昧な返事を出すほうがよかったのかもしれない、そう思った。
 そして、私は泣いた。