バーキング・オン,ラビット


<2>

神田 良輔












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「キミは学生の頃、国語は好きだったか?」
 ゆっくりした、低い声でお客様は喋った。丁寧な喋りかたではないが、威厳があり、その風格が想像できる。
 彼は大学の教授だった。僕が担当を持ち始めた頃からの付き合いだ。彼は通常の秘書業務を任せるよりも、私語を交わすことを好むお客様だった。
『ある種の反応が期待できてね、好きなときに話が出来、こちらが切りたい時に電話を切れるっていうのがすごく便利なんだよ……こういう言われ方は不愉快かな?』
と以前に言われたことがある。もちろん僕は不愉快ではないし、それにそのように話し相手として求められることも、僕らは慣れている。そういうのを含み、僕らは雇われているのだ。彼は特に難しい話もしないし、僕にいくつか興味を持たせる話し方でもある。好感が持てるお客様だ。
 今日もお客様は僕と私語をするつもりのようだった。僕は少しリラックスして身体を椅子に沈ませ、ヘッドセットの位置を直した。
「『国語』の授業だよ。どうだった?」 「国語、ですか?そうですね、あまり好きではなかったです」僕は言った。
「ほう。全体の成績と比べて国語の成績はどうだったかね?」
「良くなかったと思います。あまり先生が好きでなかったですし」
「ふうん……いや、僕の娘もね、国語の成績だけ良くないんだよ。その他の科目は決して悪くはないのだが、国語の教科だけはむしろ悪い、小学2年生なんだが……。漢字は普通以上に読める、私と話していてもはっとするような鋭いことを言うこともある娘なんだが、しかし国語の成績がよくないんだよ。どうやって勉強したら良いか、僕も聞かれたんだけどね……僕も小学校の国語的なことを勉強しているわけで、困ってしまったんだ。どうしたらよいかね?」
「お客様はなにを専門にしてらしてるんですか?」
 長いつきあいだったが、僕はそれを知らなかった。学校関係者のする話題だけでは、その専門は想像しづらい。
「そうだね……なんとなく言いたくないなあ。うん、当ててみてくれよ」
「哲学とか、そういう種類ですか?」
「うん……まあ当たり、かな」彼は言った。「まあどうでもいいよ、そういうことは。でも正直、僕にはどうしたらいいか、娘にはっきり言えなかったんだな。どうしたら良いと、キミは思うかい?」
「わかっていたら、もっといい大学に入ってますよ」僕は笑って言った。「逆に、あんまり心配しないほうがいいと思いますよ」
「そうかな」
「ええ。娘さんには、『新聞を毎日読みなさい』とか言っておくくらいでいいと思います」
「ふーむ」
「それで実際にも点数がよくなるかも」
「――まあそうだね。いくつか情報を集めてみたが、ものすごく曖昧なんだ。有名予備校講師のテクストにも――『現代国語』だがね――ろくでもないことしか書いてない」
「僕もそんな感じだったように思います」僕は言った。
 僕らは電話を挟んで少し黙る。そういう時には、僕は喋らなければならない。「しかし、どうしてやはりなんらかの答えを返せないんでしょうね?国語の教科ですよね。日本人全員が経験している、関わっているくちつなですよね?それだけの人間が関わっていることが、どうして解法が修得されないんでしょう?」
「単純な物事なんて存在しないよ」彼は言った。研究家らしい威厳がこもっている。「その他の領域に比較しても、言語というジャンルはまだまだ解明されていない点が多い」
「僕にはたぶん、死ぬまで解らないでしょうね」僕は言った。
「たぶん、僕にもね」彼は言った。
 また僕らの間に沈黙が流れる。僕が言葉を考えていると、彼が口を開いた。
「では、また電話するよ」
「はい。わかりました」僕は言った。「本日はお電話ありがとうございました」
「しかしキミは――こちらは常々思うのだが、なかなかいいことをいうね」
 会話が終わっていないのに気づいて、僕は慌てて言った。「ありがとうございます」
「おそらく高い学問を修め深い人間性を身につけているのだろう」
「いえ、全然そんなことないです」
「では」
 電話は切れた。



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 彼女に、夜の9時頃に電話をしてみた。呼び出し音が数回鳴った後、電話は切れてしまった。それから一日置いて、同じ時間にもう一度かけてみたが、やはり同じだった。でも今度は切れた後すぐに、彼女は電話をかけてきた。
 彼女はこちらの電話に出られなかったことをまず詫びた。昨日は仕事が長引き、電話を鞄の中にいれたままにして早い時間から眠ってしまった、今日早々に気が付いてこちらからかけようと思っていたら電話がかかってきた、やはり鞄の中にいれていたためすぐに出られなかった。彼女は言った。
 僕は全然悪い気分ではないことをまず言った。タイミングが悪くてすまない、今は大丈夫かということを念のため確認してから、次の週末にまた2人で会わないかと誘った。喜んで、と彼女は言った。特になにをしようというのは決めていないのだが、見たい映画もいくつかあるし、そろそろ冬物も買おうと思っているので、街を歩きながら適当に決めよう。彼女は、私はショッピングは大好きだし、映画も良く見に行く、またお酒を飲みながらいろいろな話もしたい、と言った。僕も同じようなことを考えていた。僕は頷き、どこかお店を探しておく、と応えた。
 電話を切る前に、電話は何時頃が良いか、たびたび電話をしてかまわないか、ということを確認した。平日の夜ならば大抵電話に出られると思う、もちろん全然かまわない、と彼女は答えた。僕はありがとうと言って、挨拶をして電話を切った。



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 僕らは新宿駅で待ち合わせた。時間よりも早く来てしまったが、彼女はすでにそこにいた。
 顔を見てみると、先日会ったことを思い出し、その時の空気をより強く思い出した。こうして待ち合わせをすることは久しぶりだったし、僕はどことなく緊張した。それと同時に、時間よりも早く来てくれる彼女の律儀さに感心した。そうしてくれることはもちろんうれしかった。
 主にそれぞれお互いの服装についての話をしながら、僕らは歩いた。彼女はとりたてて僕の服装に不満はないように見えた。僕のほうも同じだった。ロングスカートの柄が派手で、彼女はかわいらしい高校生のようにも見えた。とてもよく似合っている、と僕は思った。僕は駅前のデパートで前もって決めていた型のコートを買った。彼女も短いコートを見たい、と言ったので一緒に見た。僕はいくつかコメントをし、彼女はもうちょっと寒くなったら買うかも、と言った。
 それから僕らは映画館に入った。誰かと映画館に入ったのはすごく久しぶりだったので、はじめのうちは気になって映画に集中できなかった。中盤以降、僕の知っている俳優が活躍し始めたころから、僕も映画を楽しむことができた。最後にはすっかり身体が軽くなったような気分で映画館を出ることができた。僕らは良い映画だったね、と言い合った。
 陽がすっかり落ちていたため、僕らはタクシーを使って、あらかじめ決めていたバーに入った。アルコールを飲みながら、僕らは少しづつお互いに慣れていった。彼女は自分のことを話すのが得意なようでもなかったが、僕は彼女の話を聞きたかった。彼女の家族のこと、仕事のこと、友達のこと。彼女は27歳、両親、兄夫婦と同居しており、それぞれには特に不満はない、が外に出て暮らしたいと思わないこともない、仕事も順調で今後も続けていくだろう、だが出世することもないだろう、昔から中の良い友人が居て、毎年どこか2人で旅行するのだ、と言った。
 そう話す彼女の仕草は可愛らしかった。僕はもっと話させようとし、それにとまどいながら(あんまり聞かないでよ!と彼女は何度も言った。)話す様子は僕に親しみを感じさせた。
 彼女と寝たい、と僕は思った。普通に誘えば彼女も断ることはないだろう、と僕は想像した。でも結局、僕らはバーから駅まで歩き、電車に乗って別れた。僕が上手く誘えなかったのだった。少し自分が酔いすぎてしまったようで、それも原因だったと思った。
 僕は一人で電車に乗りながら、彼女のことを考えた。可愛い子だ、と僕は思った。僕らは今後も付き合っていけるかもしれない、と思った。ぼんやりしながらつり革に捕まっていると、とりとめのない想像が広がっていった。電車はあっという間に僕の使う駅まで着いた。
 なんだか初めてデートをしたみたいだな、と僕は思った。親密さの感覚が上手くつかめない。
 たぶん歳をとったせいだろう。それ以外の理由は、はっきりしない。



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 兄さんへ。

 もう兄さんへは何度も手紙を書いているのだけど、やはり手紙の書き出しには悩みます。「これを書こう」と思っていたことも、手紙に書くためには、書きだしから始めなければいけないですよね。そういうのが少しうっとおしかったりします。即時性のある通信媒介って、私らはいつ手に入れることができるんだろ?――とか言うとSFですね。

 私は最近本とかばかり読んでいます。
 「本」ていうと、難しいイメージあるでしょ?でも私が読んでるのは、コミックとか推理ものとか、なんていうか、こちらを楽しませてくれようとしてるものばかりです。そういうのを、溢れるように毎日読んでます。
 私がそうやって多くの本を読んでいると、ともだちは不思議そうに訊ねてきます。「よくそんな難しいものを読んでいられるね」って。
 ――いや、全然難しくないよ、楽しいんだよ、って言おうとしたけど、例のようにそういうことは上手に言えないので、ただ私は誉められた子供みたいに笑っていました。
 でもそういえば、私たちは確かに難しい、といえるくらいのものを読んでいますよね。そう言われて、ふと我に返っただけなんだけど。
 昨日は名探偵になっていたと思えば、今日はサナトリウムで療養、明日は借金で身を持ち崩した老人、とかね。これらって、難しいっていうくらいの、量だよね。よくそんな生活していて、私の頭もおかしくならないものだわ――とか思ったりしてね。
 はは……

 今の時代、私みたいなヒトが増えているんですよね。なんだかヘンな名前で呼ばれてるみたいだけど、そんな言葉覚えたくもないので覚えませんでした。
 たぶんそれは――

 あ。
 ええと――急にだけど、話をとめるね。なんだか、そういうこと喋るのがひどく莫迦らしいことみたいにおもえたから。
 やっぱり私は、読んだ本がおもしろかったとか、今日はどこまで散歩をしたとか、そういうことだけ喋ってるほうがいいような気がする。
 こういうのもやっぱり、ありきたりだけどね。

 ……こうやっていつも兄さんに手紙を書いてるわけだけど、なにを書いたらいいか、時々わからなくなります。
 ある偉いヒトが言うには――いつも本当のことを言おうとしてるヒトが、こういう感じになるみたいですね。それは私にはよくわかります。
 私はいつか兄さんに、本当のことを言えるようになりたいな、といつも思っているからかもしれないですね。

 今私は音楽を聴きながらこれを書いてます。90年代の流行曲。
 とても良い音楽です。「ああ、たぶんこの音楽は本当のことを言おうとしてでもそれができないから諦めて、それで歌を歌うようになったようなヒトが作ったんだろうなあ」とか思いながら聞いています。
 瞬間、とても美しい気分になったりもするんですよ。
 兄さんもこういう気分を探して、音楽を聴いたり本を読んだりビデオを見たりしていたのかな、と思いました。兄さんの現代文化への成熟のレベルはかなり高かったものね。
 とにかく――私も、これを聞きながら、ペンを置きます。
 
 ……たまには会って喋りたいな、と今思いました。
 遠くにいるから面倒だな、と思って諦めちゃうんだけどね。



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