バーキング・オン,ラビット


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神田 良輔












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「モラルの話をしてもいいかい?」
 電話の向こうでお客様が言った。僕は頷く。
「モラルの整備は古代ヨーロッパにおいてはすでに完成していた。モラルを逸脱する為には非常な権力が必要だったし、その権力は、市民の暗黙の蔑視を受けざるをえなかった。成文の文化だと言われるけど、その厳密性は文にならない範囲にまで及んでいるはずだよ、そういう意味では、より高い厳密性を持ったモラルというのは、やはりアジアよりもヨーロッパをあげるべきだろうな。いや、僕はとてもおおまかに話してるんだけどさ……まだこの知識は足りないからね。
 とにかく、中世における魔女狩りは、その反動と見るのが既されているんだよね。魔女狩りにおいて初めて、モラルにおいて明確性の欠く時代がやってきたわけだ。この時代のみ、人々は周囲の人間たちが自分を裁いてしまうことを知ったわけだよね。それまで、彼らを裁くのは神のみだった。教会が作り出した法――と言っても、文ではなく教会神父たちの言説が大半ではあったけど――を守ることによって、個人の権利は守られ、安定していたというわけだ。アジアでは農村が常に支配階級からの圧迫を受けていたのに対して、個人的な力が強かったのはこの性だろう。市民たちの細やかで流動的な視線ではなくて、各個人の中に神はいたわけだ。周りのみんなにさげすまれても、神様だけは見守っていてくれた、というわけか。これはアジアでは考えづらいよね。
 モラルはヨーロッパにおいてはそうしたものだった。ヨーロッパ人たちの個人的な強さは――乞食でさえ愛想笑いを覚えなかったという事実は――これはなによりも文章が持つ力だった。たぶんまあそんなふうに考えられると思う。文章、言葉、言説――たとえ識字率が低くても、やはりこれらにもっとも力があった、と言えると思う――どうかな」
「そうですね」僕は言った。
「ヨーロッパ史は苦手だから、穴があったら補足して欲しいんだけども――ルネサンス以降においても、この傾向は弱まることはなかった。ダンテ、セルバンテス、モリエールから――もちろんルターも。パスカル、デカルト、カント――それからディケンズ、バルザック。彼らはモラルを裏返すのではなく、その隙間を埋めてきたと見るべきだな。彼らにおいて共通するのは――まあ大まかではあるけれども――モラルに関して言うと、宇宙の理を前提にしている、と言っていいと思うんだ。うん、ヘーゲルまで間違いなく、その正しさの根拠を揺るがすのではなく、組み立てていくことにあったはずだ。カントの批判なんて、今の時代においては批判にも思えない。
 それからとにかく――ダーウィンという徹底的な批判者。マルクス、ゲーデルから――アインシュタイン。彼らにおいて、言説の力――つまり明確な努力、科学的思考の権力は弱められた。現在はその言説が薄まった時代だ。反論のできない正しさは存在しない。すべてはテーマでしかありえない、という――アジア的モラルの時代、社会的集団的な曖昧さの時代が現代なのかもしれない。むろん、近代法政家たちをさげすんでいるわけではなく、むしろ法でさえ一つのテーマでしかありえないという時代なんだろうね。
 だからこの時代においては――現代国語というのは科学を学んでいく、という初等教育全般に対して、社会秩序的なルールを教え込むという運転免許所的な役割において、必要不可欠なものであるわけだ。それに対して疑問を呈することはできない、これが守らなければいけないルールなんですよ、とでもいうように。
「はあ」
「うん――その方向で娘には教えていくとしようかな。しかし、あの子は機械作業が苦手でね、獲得していくものにしか興味を示さないんだよね」
 少し話が身近になったようだった。
「――しかし、さすが教育者ですね」と僕は言った。
「ああ一言言っておくけど――僕は学究の徒ではあるけど、この分野に関しては専門じゃないから、あんまり当てにしないでくれよ。セルバンテスって何書いた人だっけ?」
「ドン・キホーテじゃなかったかな?」
「はは、君のほうが詳しいみたいだ」



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 古沼から送られて来たものをとにかく開いてみると 画面いっぱいに数字が並んだ。ウィンドゥの隅々までとぎれなく並んだ数字を見るのは初めてで、ふつうの人間が手に取るものだとは思えなかった。画面をスクロールさせることはできたので、とにかくすべてに目を通してみた。英語かなにかで記載されてるところでもないかと思ったが、それだけでも十数分かかったうえ、最後まで数字しか出てこなかった。
 神田は読み込ませない為にある種の変換をした、ということだった。それはつまり暗号化のことだろう。この数字の羅列はおそらく誰が見ても理解できないに違いなく、この暗号を解読して、はじめて専門家が見て理解できるものになるはずだった。
 僕はその画面を消した。端末のある椅子から立ち上がってベッドの上に倒れ込んだ。

 神田が僕にこのソースコードを残した、と古沼静香は言った。直接そういったわけではなかったが、言ったも同じだった。少なくとも、僕はそう解釈した。つまり、神田は僕にこれを読みとって欲しいと望んだ、と古沼は思っていることになる。どちらにせよ、古沼か神田の期待はかかっているわけだった。
 それでも、今更になってコンピュータを勉強することは難しかった。
 具体的に想像してみると――僕は本屋に行き、参考書を選ぶ。プログラムを読めるようになるためには――おそらく、外国の言葉を覚えるのと同じ程度の手間がかかることだろう。文法書、辞典、文例集が必要だ。それに言語と平行して、暗号の問題も解かなければならない。そちらはより、才能とか運とか不確定な要素が多く含まれるだろう。
 古沼に指図してもらうこともできるかもしれない。まず僕に必要な書籍やソフトやものを尋ね、集める。そして古沼が指導する通りの順に物事を身につけていく。彼女自身と密に連絡をとりあってやっていけば、足手まといに感じられることはないだろうし、また古沼も、僕にそんな態度で望んでいてくれれば問題はないはずだ。
 ただ――問題は僕のことだった。
 僕には仕事があるし、それには多くの時間を使わなければならない。仕事をした後、参考書を開き、数字とアルファベットでかかれた参考書を開く。それらの意味のひとつひとつを読みとっていき、また自分の手で数字を順に書き続けていく、新しい秩序と文法を身につけて――
 だめだ、と僕は思った。
 僕にはできない、と思った。



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 彼女から電話がかかってきた。もちろん仕事中ではなかった。彼女にはだいたいの僕の仕事時間を伝えてあるのだ。
「もしもし」
「や。電話大丈夫?」
「平気だよ」
「なにしてた?」
「ヒマだからテレビ見てた」
「私はね、今駅から出て、家まで歩いてるとこ」
「お疲れさまでした」
「おつかれさまあ――」

 僕らは平和な会話をした。
 職場の同僚が旅行に行くらしかった。
 ――もちろん行きたいよ、うん、一緒にいこうよ、暖かくなってきたから寒いとこもいけるね、温泉だけでもいいね、スキーとかスノボとか動かなくてもさただいくだけの旅行も悪くないよね――

 と、僕らは話をした。



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 そういえば、妹からのメールが来なくなって久しい。



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