バーキング・オン,ラビット


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神田 良輔












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(――――閑話――――)



 小川清恵は朝9時に目を覚ました。彼女は目が覚めるたびに枕もとの時計を見る。9時02分、とあった。それでやっと、今が午前9時だということを把握するのだ。
 体を起こして時計を見るまで、彼女は時間のあいまいさに不安になる。眠っている間、どれだけの時間が過ぎているかなんて、誰にもわからない。ひょっとしたら3日間――時間にして72時間――が過ぎているかもしれないのだ。睡眠ていうのは、時間の概念を混乱させるためにあるのだと思う。そうでもなければ、これほど不可解なシステムもない。生きていることを、強制的に中断させられるのだから。
 ――今の生活になり、睡眠時間はほぼ6時間前後に落ち着いた。だから時計に日付が入っていなくても、前日からひとつ数字を足した日付を思い浮かべればよい、と思えるようになった。とにかく今は9時2分――3分だ。私はこの日の9時2分には覚醒した、と世界に向かって宣言することができる。
 もう少し時代が下れば脳に直接時計を埋め込むことができるかもしれないな、と彼女は思う。それはとても好ましい科学の進歩のように思える。


 ベッドを直し簡単に身支度を整えると、彼女は自分の部屋を出た。
 ウレタンを貼られた廊下には朝の日差しがまぶしかった。彼女は目をこすりながらロビーを抜け、食堂に向かう。
 食堂は広い。おそらくこの建物の中で一番大きく作られているのだろう、彼女が通っていた小学校の体育館ほどの広さがあった。とても端まで見通すことができず、朝の混雑するころでも雑駁とした感じはなかった。彼女はここが気に入っている。
 いくつか見知った顔があった。お互いに挨拶をしない、という不文律があり、それは彼女にとっても楽だった。目があい認識し合うのだが、それ以上のことは望まれない。お互いとも動いていることを認識しあうだけで、それ以上には興味の持ちようがないためだ。だから挨拶することは教えられなかったし、教えられないことはしなくてもよかった。
 トレイにカップを載せ、それにポットからコーヒーを注ぐ。迷ったが、ミートソーススパゲティを取ることにした。この食堂は時間でメニューが変化することがない。彼女は毎食炭水化物を中心に食事をとっている。おかげで、5kgほど体重は増えた。特に不健康でもない、不自然でもないと彼女は思っている。
 窓際は人気があり、席は微妙な空間を残すだけだった。壁際、モニターの前のテーブルは誰も座っていない。今はなにも映っていないが、やはりみんな注目されるのがいやなのだろう。むろん彼女も同じだった。
 しかし広いスペースは望ましい。モニターのすぐ目の前、いちばん近い位置に彼女は座った。思った以上に視線は集まらないことを感じて、彼女は食事をはじめた。


 今日は詩作をする日だった。
 夜8時に当番が部屋に来る。そのときまでに用紙を埋めさえすれば良いのだ。今日書くのであれば――昨日書いたものは認められない――いつ書いたってかまわない。時間には余裕がある。
 食事を終えトレイをかたし、彼女は部屋に戻った。携帯型のプレイヤーからイヤホンをはずし、小型のスピーカー接続しなおして再生させた。聞きなれた曲なので集中しては聞かない。時間の合間のために、そうした行動が必要なだけだ。
 椅子に座り、漠然と音楽に耳を傾けながら彼女はいろいろなことを考える。今日のこと、日記のこと、詩作のテーマ、昨日のこと、知人のこと、自分のこと――。
 今の生活はあまり彼女に影響を与えなかった。当然だ。影響をうけないための時間なのだから。身近なことのほうが存在は小さく、時間的には遠くに去ってしまったものと大きさでは変わりがなかった。この生活をはじめて以来、そうした心の中にある物事のそれぞれの大きさが同じサイズになってくような気がしていた。まるで空高くから眺めているようで、そういうことは大事なことなのだな、と彼女は思う。どれに近づこうが、どれを手に取ろうが、こちらが思うままなのだ。より望ましいことであるのは間違いなかった。
 そうやって彼女は思うがままに対象を選ぶ。それを手に取り、眺めると、ごくたまに思ってもみない形を発見することがある。もとからその形であったのは当然なのだが(無論、彼女には新しい情報はないのだ)、「ああそうか、これはこういう形をしていたのだ」と思い直して驚くのだ。一度驚かれたものは、心の中で形を変える。また新たなものになって存在しなおすのだ。
 そうした遊びを、彼女は音楽を聞きながら続ける。――「これに飽き、疲れたらまず図書館に行こう」と頭の脇で考えながらだ。いつともなく続きそうな遊びに根拠のないあせりを感じることもあるのだけど(ひょっとして私は死ぬまでこの遊びを続けるんじゃないか?)、それでも遊びを無理に止めることはしない。
 今日の詩作をすることよりも、私にはとって大切なことだ。詩作なんて物事の1/100も表現できない――せいぜい1/1000。そう彼女は思う。

(――――以上――――)