Smoke gets in my eyes

<前編>


佐藤 由香里







 真夜中に煙草が切れた。
 まだ買い置きがあると思っていたから油断していた。私はヘビースモーカーなので、いつも煙草をカートン単位で購入する。だから、あとどのくらい残っているのかたまに解らなくなる。いつも煙草をストックしている棚を覗いてみても、そこにはティッシュやトイレットペーパー、生理用品のストックや、パンの点数を貯めて引き換えた未開封のお皿なんかが占領していて、煙草はワンカートンどころか一箱さえも見当たらなかった。さっきのあの彼に買ってもらえば良かったなあと、私はちょっぴり後悔していた。

 今日は合コンに行ってきた。相手はバンドを組んでる大学生と聞いて行ったのに、男のレベルは大したことないわ全然盛り上げてくれないわでもう最悪。せっかくの週末の夜を台無しにされて腹が立った私は、二次会の店に向かう途中に一人で抜けてきた。はずだったんだけど。
 名前は確か西原くん、だったと思う。ヘラヘラ笑ってて、お調子者を絵に描いたような人。

「麻里子ちゃん、もう帰っちゃうの?」
 こっそり帰ろうとして、煙草を買ってくるから先に行っててと嘘をつくと、自分も行くと言って西原くんも着いてきてしまった。自販機の前で急用ができたから帰ると言うと、彼は哀しそうな表情で私にそう言ってきた。
「俺も煙草買うからついでに麻里子ちゃんのも買ってあげるよ。銘柄なんだっけ。」
「え、いいよ別に。家にたくさんあるし。もう帰るし。」
「帰るっていっても、麻里子ちゃんの家って緑ヶ丘だろ? 一人で帰るのは危ないよ。」
「平気だよ。」
 確かにうちの近所は治安が悪い。つい最近もひったくり事件があった。でも、まだ9時にもなっていないし、全然問題ない。一次会であまり盛り上がらなかったから、一番おしゃべりな私が帰れば二次会ではもっと盛り下がるから言うんだろう。それに、何の下心もないなんてことはないと思う。少なくとも今日会ったのは合コンなのだ。自惚れかもしれないけれど、お互い恋人がいないのはお互いが知ってることなんだから、彼にも「あわよくば」という気持ちが多少でもあるんじゃないか。
 心配する振りなんてしないでよと、私は心の中で毒づいた。
「じゃあ俺ももう帰るから、送るよ。」
「だから、平気だってば!」
 私が怒鳴ると、二人の間には妙な沈黙が流れた。ちょっと言い過ぎたかも。
「わかった。じゃあさ、家に着いたら電話してよ。」
 そう言って西原くんは予め準備してあったらしいメモを渡してきた。その用意周到ぶりに呆れたというよりも、今日初めて合コンで会った、しかも居酒屋で席が隣同士になっただけの男にどうして帰宅の報告をしなければいけないんだろうという不満で、私の表情は露骨に曇った。
「悪いけど、みんなには上手く言っておいて。」
 私は早口でそう言うと、勢いよく彼の手からメモを取って小走りに駆けた。後ろから西原くんの声が聞こえたような気がしたけど、私は振り返らなかった。
 帰り道、危険なことはこれといって何もなかった。時間が早かったから開いてる店もあったし、私の他にも何人か近所を歩いていた。

 ――で、今に至る訳だけれど。
 家に帰ってテレビをつけると、週末ということもあってバラエティー番組の特集をやっていた。退屈だったし、意外に面白そうだったので、私はソファーに寝転んで煙草を吸いながらテレビを見ていた。途中で友達から電話がかかってきて誘われたけど、今夜は予定があるからと早々に切り上げた。一人で過ごす週末の夜。たまには悪くない。そう思ってだらだらとテレビを見続けていたらいつの間にか眠ってしまっていたようで、目が覚めたら深夜の1時を過ぎていた。付けっぱなしになっていたテレビには、聞いたことのないタイトルの洋画が映し出されていた。霊に取り憑かれた男が家族を殺そうとする、コロラドのホテルを舞台にしたホラー映画。ネットで検索したら、かなり有名な映画のようだった。
 眠気覚ましに一服しようと煙草に手を伸ばすと、箱はくしゃっという虚しい音を立てて潰れた。からっぽ。私はソファーから降りてダイニングキッチンに向かった。いつもの場所に煙草は常備してある――と思っていたら、その場所には煙草はもうなかった。もうないと解かると、無性に煙草が吸いたくなってきた。ヘビースモーカーの私は30分以上煙草を吸えないと苛々してしまうのに、最後に煙草を吸ってから三時間以上も経っている。
 どうしよう。煙草が吸いたい。煙草が吸いたい。煙草が吸いたい。
 頭に浮かぶ言葉はそれだけ。とにかくこの衝動を抑えたくて、私は灰皿に残っていた長めの煙草を手に取り、軽く灰を掃って火を点けた。肺の中に煙が満たされていく。とても惨めだけれど、それ以上の満足感が一時的に得られた。煙草は合法のドラッグだという。違法のドラッグを止めた人間は、禁断症状の末再びドラッグに手を出す時、同じような思いをするんだろう。と、なんとなくそんなことを考えた。

 さて、どうしようか。近くに煙草の自販機はあるけれど、稼動しているのは11時まで。もうとっくに時間は過ぎてる。最寄りのコンビニエンスストアまでは徒歩で片道20分。だけどこんな真夜中に出歩きたくない。本当に危ないんだもの。
 去年の夏、この辺りで通り魔事件があった。被害に遭ったのは同じ大学の同級生。不幸中の幸いと言うと不謹慎だけれど、彼女は凶器を手にした犯人と揉み合ったにも関わらず、首筋に刃物の先端がかすっただけで、多少の出血で済んだ。それでも、そんなに親しい間柄じゃなかったとはいえ、当時首に包帯をぐるぐる巻いて授業に出ている彼女を見るのはやはり痛々しかった。その時の犯人は結局捕まらなかった。しばらくは警察がうろうろしていて、私も事情聴取を受けたけれど、なかなか手がかりが見つからず捜査が難航したため、結局切り上げられた。
 ブラウン管の中では、取り憑かれた主人公の男が、必死の形相で逃げる妻や子供を追い回していた。通り魔に襲われた彼女もあんな表情で逃げ回ったんだろうか。目を瞑り、ソファーにうずくまって、私は彼女の悲痛な表情を思い浮かべてみた。私の頭の中では、通り魔から逃れようとする彼女が甲高い声で泣き喚いている。その時スピーカーから聞えてくる女優が同じタイミングで悲鳴を上げた。

 しばらく映画を見ていたけれど、やっぱり煙草が吸いたくなる。灰皿の中には、まだ吸えるような長い煙草の吸殻はもう残っていなかった。時計を見ると真夜中の3時半。夜道を歩くのは怖いけれど、煙草を吸えない方がもっと嫌などうしようもない私は、意を決してコンビニエンスストアまで出掛けることにした。
 インディコブルーのブーツカットジーンズとグレーのキャミソール。今日の合コンで着ていた服をそのまま身に着け、ポケットの中に財布と携帯電話を入れて出かけた。


 真夜中。住宅街にサンダルの音が響き渡る。誰もいない。何の音もしない。とてもとても静かな夜。数メートルおきに目に止まる『痴漢に注意』の貼り紙。でも、何の心配もなかったみたい。こんなことなら煙草が無いと気付いた時点で買いに行ってれば良かったなあと思いながら、コンビニエンスストアまでの道を急いだ。空を見上げると、真夜中とは思えないほどに眩しい月明かりが私を照らしていた。

 家を出て数分経って気付いた。私のサンダルの高い音以外に、遠くの方から別の足音が聞こえてくる。ちょっと重量感のある、低い音。私は段々怖くなってきた。少し小走りになると、聞えてくる足音も速くなる。私が立ち止まると、足音が消える。
 まさか。まさか。
 私は自分に大丈夫だと言い聞かせていた。それでも足音は背後から徐々に近づいてくる。私は怖くて振り向けないまま、とにかく明るい方へと逃げるように走った。