Smoke gets in my eyes

<後編>


佐藤 由香里







 走っても走っても追いかけてくる足音から、私はひたすら逃げていた。
 角を曲がるとすぐに作業途中の工事現場があったので、私はそこに隠れることにした。青いビニールシートの陰で息を殺して、足音が通り過ぎるのを待つ。耳を澄ませると、辺りは残酷なほど静かで、誰一人歩いている気配はなかった。私の姿が見えなくなって足音の主も立ち止まったのだろう。何も聞こえない。心臓の音がこの静かな住宅街に響くんじゃないかと思うくらいバクバクしている。
 その時だった。
「見ぃつけた。」
 顔を上げると、ビニールシートの小さな隙間の向こうから目が覗いていた。「ひっ」と軽く叫ぶと、次の瞬間シートが全て剥がされて、目の前に体の大きな中年の男が現れた。男は恐怖に震える私を見てニタアッと笑った。私が助けを呼ぼうと口を開くと、男はすかさず私の背後に回り、口元を手で塞いで、首に何か冷たいものを当ててきた。このひんやりとした金属的な感触。それが何であるか、私はすぐに解かった。
「騒がない方がいいよ。」
 男は吐息混じりに私の耳元でそう囁いた。私はふと去年の夏の通り魔事件を思い出した。あの時は結局犯人は捕まらなかった。まさか、犯人は…。
 男は私を乱暴に押し倒してきた。必死に抵抗してもすぐに力で押さえつけられ、逃げようとしても男は手を離さなかった。お願い。誰か助けて。
「おいお前! 何やってるんだよ! 麻里子ちゃんから手ぇ離せ!」
 そう聞こえて振り向くと、そこには西原くんが立っていた。どうしてここにいるの。私は訳が解からくなった。それでも知っている人間が目の前に現れた安堵感と、極限の恐怖で、私はぼろぼろ泣き出していた。
 男は西原くんの体当たりで体勢を崩し、よろよろと倒れた。次の瞬間、甲高い金属音が聞こえて視線を落とすと、地面には血の付いたナイフが転がっていた。西原くんが崩れ落ちる。
「いやあ!」
 犯人が逃げたのは、私が悲鳴を上げたのと同時だった。でもそんなことはもうどうでもいい。私は目の前で倒れている西原くんに駆け寄って肩を叩いた。
「西原くん!」
「麻里…子ちゃん、…無事? 怪我は、して、ない…?」
 西原くんは血まみれの腹部を押さえて力無く笑った。
「西原くん! ねえ! 西原くん!」
 そう言って体を揺さぶってみたけれど、彼の反応はもうなかった。私は彼を抱き起こすと、血を吸い込んだグレーのキャミソールはみるみる黒く変色していき、私を暗闇に同化させていった。

 私が彼を殺したのかもしれない。
 私が出掛けなければ彼は死ななかったのかもしれない。
 私が彼と出会わなければ彼には素敵な未来が待っていたのかもしれない。
 私が、私が…。


* * *



 はっと目が覚めて辺りを見回した。デジタル時計の示す数字は「4:55」となっている。テレビの画面にはカラフルな色の帯が並び、スピーカーからは緩やかな音楽が流れている。私はソファーの上で横になってクッションを抱きしめていた。体を起こすと、目の前には昨夜の合コンに着て行った服が脱ぎ散らかしてある。手にとってみると、服には血も何もついていなかった。
 …夢?
 両手で頬を押さえると私の顔は大量の汗と涙でぐしゃぐしゃになっていた。思考回路が上手く回らない。目を覚ますために煙草を吸おうと思って手を伸ばすと、テーブルの上にはからっぽになったマイルドセブンの箱が握り潰されていた。
 …なんだ。夢、か。
 きっと、昨夜合コンに行ったからいけない。去年の夏の通り魔事件のことを思い出したからいけない。夜中にホラー映画なんて見たからいけない。そして何より、煙草が切れたのがいけない。私は全ての責任を私以外の何かに擦り付けて、まだものすごい速さで動いている心臓の動きを和らげようとした。
 そういえば煙草の買い置きがなかったんだった。もうすぐ近所にある煙草の自販機が稼動する。私はさっきまで見ていた夢と同じようにジーンズとキャミソールを身につけて、財布と携帯電話をお尻のポケットに突っ込んだ。


 玄関を出るといつもと何一つ変わらない風景が目の前に広がっていた。角を曲がったらやっぱり作業途中の工事現場があったけど、青いビニールシートなんて掛かってなかった。
 自販機の前。財布から千円札を取り出そうとすると、中に小さな紙切れが入っていることに気付いた。あまりきれいとは言えない男の字で走り書きがしてある。

 俺の声を聞きたくなったらいつでも電話して
 西原裕之 090-xxxx-xxxx

 家に帰ったら電話してくれって言ってたし。ちょっと電話してみようかな。
 私は番号をダイアルし発信ボタンを押した。コールが鳴っている隙に煙草を吸おうと思ったけれど、火が無いのに気付いてジーンズのポケットを弄った。中からは、昨夜の合コンで行った居酒屋のマッチが出てきた。マッチを擦ったらリンが発火するいい香りがして、薄紫色の空の下で暖かな光を発しながら小さく燃えた。
 
『かかってくるの遅いよ! 心配してたのに! ちゃんと無事に帰れた?』
 電話に出た西原くんの素っ頓狂な声に私は驚いた。
「電話しろって、まさか用ってそれなの?」
『だってほら、女の子が夜に一人で歩くのは危ないだろ?』
「何で西原くんがそんな心配するのよ。」
 そう言うと、彼は黙ってしまった。ちょっと言い過ぎたかなと思ったけど、どんな言葉を口にしていいのか解からなくて、私もつられて黙った。少しの沈黙が流れた後、彼の方から沈黙を破った。
『今日会ったばかりなのにこんなことを言うのはおかしいけど、ちょっと前まで付き合ってた子、麻里子ちゃんと同じ緑ヶ丘に以前住んでたんだけど、夜道で襲われたことがあってさ。』
「それってまさか、去年のちょうど今頃の?」
 彼は私の言葉には返事を返さずに話し始めた。
『あの日俺は彼女の家に行ってた。夜中に帰ろうとしたら、途中まで送ると言ってきたよ。危ないから駄目だって言ってもどうしても送ると言い張って、結局俺達は一緒に部屋を出た。その後だよ。一人で歩いている彼女を、犯人は…。彼女はあの事件のあとすぐに引っ越した。思い出したくなかったんだろうな。』
「そんな、ことが?」
『彼女と別れた今でもまだ後悔は消えないよ。怒ってでも彼女をあんな時間に出させるべきじゃなかったんだ。』
「……」
『ああ、ごめん。重い話しちゃった。柄じゃないよな。』
「別に、いいよ。」
 そのまま話をしながら来た道を戻る。サンダルの踵がアスファルトを蹴る音が静寂に包まれた夜明けの住宅街に響く。
「ねえ。」
『ん?』
「もしも私が今ピンチで、今すぐ来てって電話してきたらどうする?」
『もちろん飛んで行くよ。電話ボックスの中でスーパーマンに変身してさ。』
「…」
『あれ、つまんなかった?』
「…ていうか、古い。」
 西原くんは「やっぱり?」と言ってけらけら笑った。私もつられて笑う。数時間前に見た彼の笑顔が思い浮かんだ。
 なんだ。軽薄で嫌なやつだと思ってたけど、結構いいやつじゃん。
 彼のイメージを頭の中で修正しながら再び煙草を口にすると、吐き出した煙が朝靄と混ざって私の視界を白い世界に変えた。
『あのさ、冗談抜きで、麻里子ちゃんが俺の助けを必要としてるんなら、今からすぐに行ったっていいよ。』
 とても真剣な西原くんの声が私の不意を突いた。私はもう笑うことは出来なかった。
「…うん。」
 目の前の景色が滲んで見えたのは、きっと煙草の煙が目に染みたせいだと思う。


 何かが始まる予感がした。それと同時に、東の空からは、まだ生まれたばかりの太陽の光が今日の始まりを告げていた。