可能性の波の一つの粒子
序曲


上松 弘庸





バァ!!!!








反転、暴落。

  人々は何が起きたのか理解できませんでした。土地は上がり続けるのもであり、経済は成長し続けるものであり、物価は上がり続けるものでした。収入は増え続けるものでしたし、昨日より今日、今日より明日の方が豊かな日でした。

暴落。

  人々は逃げ惑いました。しかし、逃げても逃げても暴落の波は押し寄せてきました。

暴落。

  当然、結果的に彼らの財産を毟り取る人もいました。誰かが損をしているという事は、誰かが利益を享受しているという事になるのです。誰かが利益を得る為には、誰かが損失を被らなくてはならないのです。

暴落。暴落。暴落。

  何百人、何千人の死人が出ました。なけなしの財産を持っていかれ、借金まで背負わされた為に、そして夢や希望を全て奪われた為に、彼らの多くは死んでいったのです。
「日経ダウ平均は、いつになったら上昇しますか」逃げ行く人々は行く先々でこう質問していました。

反転、上昇。暴騰。反転、暴落。続落。続落。反転、暴騰。暴騰。暴騰。反転、暴落。反転、上昇。

  そんな、冷酷な世界―人間のありとあらゆる感情、喜怒哀楽では表現できない程のあらゆる歓喜と苦悩―が、この日経ダウ平均のチャートに潜んでいます。私は、私はこのチャートよりも哲学的、芸術的に優れたものを知りません。この、高められた究極の世界。無限の可能性が、このチャートの未来を示しています。




  ある人は言いました。
  過去に興味は無い。我々が知りたいのは今だ。我々はチャートの示す過去に興味はないし、過去が予言する未来にも興味は無い。ただ、現実が示す業績に従うだけだ。
  我々は暴落に動じないだろう。何故なら、暴落によって業績が変わる事は無いからだ。我々は暴騰にも動じないだろう。なぜなら、暴騰によって業績が変わることも無いからだ。我々が動じる時は、業績が修正された時のみだ。我々は、業績が修正され、株価がそれに見合った変動をしない時にのみ、動揺するだろう。我々は瞬時に将来展望を修正し、直ちに現状を改善する必要に見舞われるだろう―。


  また、ある人は言いました。
  業績で我々が動じる事はない。我々は、過去から未来を導き出すだろう。過去のあらゆる情報を駆使して、自ら未来を作り上げる事も可能だろう。我々は未来を予言する。多くの力が集まれば、予言は現実となるだろう。暴落によって業績を悪化させる事も、暴騰によって業績を改善させる事も可能だろう。
  我々の力を甘く見てはいけない。短期的にも、長期的にも我々が世の中を動かしているのだ。我々の力を甘く見てはいけない。我々が撤退すれば、ありとあらゆるものが滅びるだろう。我々の力を甘く見てはいけない。あらゆる流れに最も貢献しているのは我々なのだから―。


  また、ある人は言いました。
  泣いてはいけない。笑ってもいけない。泣いても損は返って来ないし、笑っても得は増えないのだから。
  暴落を喜ばなければいけない。自分の代わりに誰かが損をしたのだから。
  暴騰を悲しまなければいけない。誰かの変わりに自分が得をしたのだから。
  総悲観の中で買わなければいけない。売りたい人が皆売ってしまっているのだから。それとは全く逆の理由で、総楽観の中で売らなければいけない。既に皆買いたいだけ買ってしまっているのだから。
  余分な技術と同じくらい、一切の感情は要らない。ただひたすら逆に進めば良い。誰かの損は誰かの得。自分が得する為には誰かが損をしている所に突き進めばいい。


  売り方と買い方の鬩ぎ合い。それがチャートだ。
  チャーチスト達は言う。流れを読む事。流れに乗る事。
  ファンダメンタルズ達はいう。流れに逆らう事。決意する事。
  売り方と買い方は共存できない。
  幾つもの相場が、悲観の中に生まれ、楽観の中で消えていった。純張り屋はこう言う。例えそれが売り方であれ、買い方であれ、苦しめられたり追い詰められたりするような事があってはならない。皆が同じ考えになると、相場は反転する。一つの相場を長持ちさせる事が我々の役目だ、と。逆張り屋はこう言う。我々は常に弱者の味方だ。窮地に立たされた売り方、或いは買い方を救っている。相場を反転させるのが我々の役目だ、と。
  活気が無くなれば、閑古鳥が鳴いてしまう。閑古鳥が鳴けば、売り方も買い方もいなくなってしまう。誰もいなくなった世界で誰かが来るのをじっと待つ、孤独な戦いをしている人々もいる。彼らは活気という餌が来るのを、身動きをせずじっと待っている。彼らは、多少の事では動じない。どんなに周辺が騒ごうと我関せずで、物陰から獲物が来るのをじっと待っているのだ。


  ストップ安だの、追証だの、破綻だの、そういった類の単語が毎日新聞の小さな記事に並んでいました。そういった文字列は、人々に言葉の意味を認識させる事はできましたが、しかし、奥底に隠されている阿鼻叫喚を理解させる事はできませんでした。投資家の悲鳴や絶望を表現しているものは唯一つ、このローソク足のチャートのみでした。このチャートが、時間と株価の2次元で、資本主義の冷酷さを完璧に表しているのです。資本の意思を如実に表しているのです。
  上方修正に狂喜し、下方修正に絶望する個人投資家。彼らは気が付いていませんでした。自分達が、ただチャートの中の極々微小な一部であると。落ちてくるナイフに手を伸ばし、終わりの見えない空売りに恐怖し、資本の意志に翻弄されるだけの、力の弱い存在であると。
  しかし、それらの小さな可能性の中の僅かな一部が、少しずつ大きな力を持ち、巨大な力を得る事もあるのです。そして、その可能性は平等に与えられているのです。そしてまた一番肝心な事に、力を失う可能性もまた平等に与えられているのです。この可能性に魅力を感じてしまう事が、一体どんな罪なのでしょうか。その結果、何もかも全てを失ってしまったとしても、それが一体なんだというのでしょうか?



  今回はそんなお話。退屈でなければいいのですが…。

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