宝物は何だっけ?

其の壱

上松 弘庸



 私はいささか疲れてしまった。私が心から真実を伝えようとすればするほど、真実を真実として伝えようと苦しめば苦しむほど、私の書いたものは真実から遠ざかってしまう。しかし驚いた事に、その私の文章に僅かばかりの嘘を混ぜるだけで、それは実に真実として輝き出す。私は真実を伝える為に、嘘を伝えようと努力しなければいけない。

 例えば「苦悩」を描写する時。

 私はまず「幸福」から描写しなければならない。何故ならば「不幸」なき「幸福」がありえないように、「幸福」なき「不幸」はありえないからだ。「幸福」と「不幸」は相反するものであろうはずがない。私は信ずる。大きな不幸の中にこそ、大きな苦悩の中にこそ、真の幸せが存在するという事を。


 11月のとある日の夜の7時頃、福島県郡山市は雪が降っていた。降り積もる雪の中、郡山駅の方向に歩いている若い男が一人。青年は茶色い、薄汚れたコートを着ていた。青年は決して背が低い方ではなかったが、青年が着ているコートは地面につきそうなくらい長く、下の方が随分と汚れていた。雪の中青年はコートのポケットに両の手を突っ込み、寒さに身を屈める様にして歩いている。静かに、静かに歩いている。青年の顔は一見して意思の強い顔をしている様に見えるが、よく見ると何処かしら常に不安に慄いている感がある。一体何に対しての不安なのかは今のところ読者に説明のしようがない。よしんば今説明できたとしてもそれは私が伝えたい事にはならないだろう。であるから、私はこの不安についてここでは触れようとは思わない。この小説を読んでいくうちに我が尊敬すべき読者諸氏に伝える事が出来るかもしれない。或いは出来ないかもしれない。しかし私は、この青年を今回の小説の主人公にしようと思う。そしてまた、この青年が抱いている不安をこの小説のテーマとしようと思う。
 青年は立ち止まり、なんでこんなに寒いのだろうと思った。そもそも寒くなり始めたのは一昨日あたりからだ。時期的にはまだ雪が降るには早い。寒いのは苦手だ、と青年は心の中で愚痴った。吐く息は白く、そしてその白い息が寒さをより一層強く感じさせる。雪は積もってはいないが、この分だと明日の朝には積もっているかもしれない。雪で白くなったコートを手で払いのける。そういえば手袋をしていなかったな、と悴んだ右手を白い息で暖めながら青年は今頃になって気が付いた。家からずっとコートの中に手を突っ込んで歩いていたので気が付かなかったのだ。冷たい手に意識を集中させると寒気がより一層強く襲ってきた。少年時代、福岡に住んでいた頃は雪なんてめったに降らなかったのに、福岡に住んでいた頃はこんなに寒い思いはしなくて住んだのに、と青年は思う。寒いのは苦手だ。
 駅前のBARに入なり青年は後悔した。店の中に珍しく先客が居たからだ。先客、といっても一番奥のカウンターに一人居るだけだが。この先客については少々説明する必要があると私は考える。私は或る種の義務感からこの男の説明に少々紙面を割くことを切に望むが、しかし正直、この男の事を説明する為には、或いはこの小説以上に膨大な量の文章を書かなければならないであろう。従って、せめて簡単に外見のみの描写に留めておこうと思う。この先客は青年と同じ位の歳で、如何にも人の良さそうな感じのする綺麗な顔立ちのした男だった。高級そうなスーツと、やはり高級そうなネクタイをしていた。ただ、靴だけは履き潰しているらしく酷くボロで、安そうな感じのした代物だった。そして実際その靴はとても安物だった。実は青年がこの客に会ったのはこれが初めてではなく、これまでに何回か顔を合わせていた。しかし、青年がこの客と会うのはこれが最後となる。この客は、この日の夜、自殺してしまうからだ。私はこの客をこの小説の単なるエキストラの一人としてではなく、場合によると、我が哀れむべき主人公よりも重要な一人として感じているし、また、この上ない憐憫を感じている。
 青年はマスターにビールを頼んだ。青年はコートを脱いだが店の中は少し嫌気が差す位寒かったので、また着なおした。
 「外は寒いかい?」
 数秒の後に客が自分に聞いていると分かった時、青年は吃驚した。先客とは今まで何回か会っていた事には気が付いていたが、今までに話し掛けられた事はなかったのだ。それに青年は先客と随分と離れた所に座っていた。
 「まだ雪が降ってる?」
 「ええ」
 言葉少なく青年は答えた。青年はあまり他人と―特に飲みの場では―話をするのを好まないのである。先客はビールを全部のみ干し、またビールを注文した。「俺はね、もう今日で酒を飲むのを止めるんだ。だからたらふく飲むのさ」青年はこの煩い客を疎ましく思っていたが、特にする事もないので黙って聞いていた。
 「酒ってのは悩み事からの逃避には結構有効な手段だな。人は皆悩み事を抱えてるのさ。だから酒を飲む。違うかい?(客は歪んだ笑いを見せた)例えば仕事がうまくいかないとか、恋人とうまくいかないとか、そういった事に悩む奴って多いだろう?ところがどっこい、俺は違うんだ。俺はさ、悩みがない事に悩むんだ。だから俺は自分から悩み事を作っちまうのさ。それも意識しないうちに本能的にな。なぁ、アンタこの世に一番必要なものって何だか分かるかい?」青年は店を出ようかと思った。そしてタイミング悪くビールを持ってきたマスターに殴りかかりたい欲求が心の底に湧き上がってきたのを感じた。
 「この世に一番必要なものってのはな、俺は苦悩だと思うんだ。俺さ、幸せを得る為には絶対に苦悩が必要だと思ってるんだ。だって幸せばかりじゃ退屈だもんな!」青年は立ち上がった。そして千円札を一枚カウンターの上に置きドアの方へ向かった。
 「待ちな!」客は荒々しく叫んだ。
 「待ってくれって。俺は今日話し相手が欲しいんだ。今日は俺が奢るからさ、もう少し付き合ってくれよ。それにアンタ、勘定だって千円じゃ足りないぜ」青年は真っ赤になった。そして心の中で『もうどうにでもなれ!』と叫んだ。今日だけでも16回目の事である。
 「そうそう。まぁ座んな。アンタ俺が世の中の事を分かっちゃいないって思ってるのかい?ところがどっこい、俺は分かっちまったのさ。この世は幸せと不幸せで成り立ってるんじゃない。そんなものは自分の考え一つでころっと変わっちまうもんなのさ。アンタは信じないかもしれないが、俺はこの世のどんな苦悩だって喜びに変える事ができるのさ」
 青年は心の底からこの男を軽蔑した。そしてカウンターの上にもう一枚の千円札を出し、店を出た。男は今度は止めなかった。ただ一人、空になったビールグラスを眺めていた。青年は思った。何も知らないくせに。何も分かっていないくせに。
 しかし、悲しいかな!この男が青年の苦悩を知らないように、青年もまたこの男のとてつもない苦悩を知らなかったのだ!そして実際、この男はそのとてつもない苦悩を幸福に変える事が出来たのだ!そして、その苦悩は青年の抱えている苦悩と同じくらい、いやそれ以上に大きな苦悩だったのだ!
 『恵まれているが不幸だ。』青年は歩きながら思った。『俺はこうして平和な時代の平和な国にいる。毎日食事に困らないだけの生活は送れるし、好きな時に酒も飲める。それなのになんでこんなに不幸なんだろう。なんでこんなに満たされないんだろう。』降ってくる雪は心なしか先程よりも心地よかった。駅前通りの人々は誰も彼もが楽しそうだった。青年は世界で只一人何処か皆と違う所に取り残されているような感じがした。酷く孤独だった。
 『雪…か。』青年は一年前の事を思う。一年前の雪の日の事を思う。一年前の世界は此れほどまでに色あせていただろうか。一年前の自分は此れほどまでに色あせていただろうか。
 刹那、青年は酷い恐怖に駆られた。思考が真っ白になる。『あああああああ!』青年は激しく鳴り響く鼓動を強く、強く感じていた。『ベルリンの壁に色を塗らなくちゃいけない!イソがなくちゃ!ねぇ!ボクは、ボクはココにいるよ!だれカ、きズいてッ…!はヤく!イそがナクちゃ…!』青年は意識を失った。願わくばこの青年に幸有れ。

 青年は自分が見た事もない場所にいる事に気が付いた。視界は天井を映し出している。酷く汚い天井だった。青年は自分が蜘蛛の巣の中で一生懸命にもがいている蝿を無意識のうちに見ていた事に気が付いた。蝿はとても生命力に溢れていた。『あの蝿は何を思い、何を感じているのだろう』青年はふと思った。そしてまた深い眠りについた。

 「気が付いたかい?」中年の男はとても優しげな声で青年に声をかけた。
 「蝿は?」
 「蝿?」
 「いや、なんでもないです。ありがとう」青年は礼を言い、店を出た。「可哀想に。気でも違っているのか」中年男は青年を見送りながら呟いた。そして自分にもあれくらいの息子がいればなぁ、と思った。中年男は勘定を払い、店を出た。勘定は17680円だった。そして、男が内ポケットに仕舞い込んだ財布、たった今勘定を払った財布はつい先程まで青年が持っていた財布と全く同じだった。
 時計は9時10分を指していた。青年は煙草に火をつけ、どんより重い頭を抱えて目的もなく歩き出した。白い煙は音も立てずに風に溶けていった。

 「よう、また逢えて嬉しいよ」声がした方向に青年が振り向くと、先程BARであった男と目が合った。時間にすると2時間くらいだが、青年はこの男と会うのが凄く久しぶりのように感じた。
 「さっきマスターにこれアンタに渡してくれって言われてるんだ」男はそういうと千円札2枚を青年に渡した。
 「アンタ結局ビールもお通しも全く手を付けてなかっただろ?」
 青年は暫く考えていた。
 「あぁ、アンタはもしかして俺を疑ってるのかい?そうか、そうだよな。俺がアンタに会ったのは全くの偶然だし、俺がアンタに会う事をマスターが知ってる訳はないもんな。じゃあしょうがないな。正直に言うしかねぇか。気を悪くしないでくれよ。実は全くの所、あの金は俺が使っちまったのさ。あの後俺はマスターに言ったんだ。『アイツ何にも手ぇ付けてねぇじゃねぇか』ってね。そうしたら奴さんこうきやがった。『捨てちまいな。最近の若い奴は礼儀も知らねぇ』とさ。礼儀!これには流石の俺も参ったね。なに!勘定払うのに礼儀なんてありゃしねぇさ!まぁマスターは何にも手を付けないくせに金だけ払って出てっちゃったのが癪に障ったのさ。あれで結構プライドが高い男だからな。まぁ気にすんな、マスターだって明日になりゃ忘れてるさ。俺はよくあそこに行くからな。あの店の出来事を色々見てきたよ。なに!店から追い出された奴だって次の日には知らん顔して飲んでるさ!まぁ、そんな事はどうでもいいや。そういう訳で俺が有難く使わせてもらったって訳さ。だから今アンタに返すんだ。でも俺はなんだか知らないけどまたアンタに逢えるような気がしてたよ」
 青年はこの時初めて自分の財布が無くなっている事に気が付いた。
 「なんだ!アンタ財布でも落としたのか?しょうがねぇな。俺に付いて来い。今日は俺の奢りでたらふく飲み食いさせてやる!」

 「だからさ、大きな不幸の後には、小さな小さな幸せも、場合によっちゃあ小さな不幸でさえも、大きな幸せに変わっちゃうってんだ。俺はね、そう思ってんだ。大きな幸せの後には小さな幸せってぇのは場合によっちゃあ退屈なだけなのさ。いや、俺はそんなに酔っ払っちゃいねぇよ。まぁ少しは酔っ払ってるがな。ふん!俺が酔っ払ってようが酔っ払っていまいが誰に迷惑掛けるってんだ!」男は3杯目のビールを飲み干し、4杯目を注文した。青年もビールを注文した。
 「アンタ、結構酒強ぇじゃねぇか!気に入った!今日は俺の奢りだ!たらふく飲め!」
 「その台詞もこれで3回目ですよ。いや、4回目かな?」
 「ははは、まぁ兎に角飲め!この世は天国さ!俺達ゃ天国の住人だ!」
 その男もかなり酔っていたが、青年もかなり酔っていた。「なぁ、俺達は完全な至福の中にいるんだぜ?全くの虚空の中でさえ俺達は完全に満たされているんだ。なぁ、そうだろ?俺達は(男は「俺達」という言葉を何度も強調していた)全くの所、これ以上無い位満たされているんだ」

 そんな風にして青年は男と別れ、男はそれからまもなく自宅のマンションの屋上から飛び降りた。ただ、青年はこの男が死んだ事は知らない。多分これからもずっと知らないだろう。
 
 そのようにして、この物語は始まった。


 しかし、先程青年が見た蜘蛛の巣、それに絡まっている蝿、それらは一体本当に存在したのだろうか?何故この雪が降る時期に蝿が?まぁ、何れにしろそれはあまり重要な事ではない。
 私は、蜘蛛の巣について語りたいと思う。
 そして、蜘蛛の巣で必死にもがいている、時期外れのあの蝿について語りたいとも思う。

 蜘蛛の巣が何を意味しているのか、蝿が何を意味しているのかは私には分からない。が、あの蝿こそが、永遠の時間をの中を生きているのではないだろうか。あの蝿こそが、たった1分の時間をも永遠に変え、そしてその永遠を生きているのではないだろうか。

 兎に角、今回私が選んでしまったテーマは、酷く込み入った、複雑なものであったらしい。