宝物は何だっけ?

其の弐

上松 弘庸




『よう、俺の名前は聡ってんだ。サトシって読む。変な名前さ。同じサトシでも悟司とかの方が俺は好きだな。俺の友達に居たんだ、実際。悟司は俺と違って秀才で運動神経も良いんだ。でもまぁいいや。俺なんて何の取り柄のない人間だしな。そうなんだ。俺は何にも取り柄が無いんだ。俺は大して趣味なんてもんはないし、得意なものだってありゃしない。まぁ、強いて言うなら化学が得意かな。だから俺は大学でも化学科に入ったんだ。でも化学は兄貴の方が得意だな。実は俺が化学を得意になったのって兄貴の影響なんだ。だってさ、家の中は化学の本で一杯なんだよ。全部兄貴の本さ。今は兄貴の奴一人暮し始めたからいいけどさ、つい2年前まで一緒の家に住んでて、しかも同じ大学の同じ学科に通ってたんだよ。全く嫌になっちゃうんだ、兄貴の奴。朝から晩まで化学の勉強だよ。有機合成化学だの、無機分析化学だの、全く自分の研究テーマから外れた事もやっちまうんだよ。兄貴に言わせると化学ってのは「ジグソーパズルをはめていくようなもの」だってさ。何が言いたいんだかさっぱりだ。でもあんまり兄貴の悪口言わないようにしないとな。実は兄貴昨日から家に帰ってきてるんだ。卒研はどうしたって言うんだよ。またどうせ学校辞めるだのなんだのって言い始めるに決まってるんだから。そのくせ2,3日もすればまた学校に行くんだよ。辞める気なんてさらさらないんだ、アイツ。おっと、あんまり口を滑らせないようにしないとな。兄貴只でさえ怖いのに昨日から何だか機嫌が悪いんだ。なんでも財布を落としたらしいんだよ。兄貴は盗まれただのなんだのって言ってるけど、どうせどっかに落っことしたのさ。そうでなきゃどっかに置き忘れてるに決まってる。だって兄貴、昨日かなり酔っ払ってたんだぜ。昨日の兄貴ったらなかったな。電車賃が無いから自分の所の家に帰れないってウチに来たんだよ。夜中の1時だぜ?もうその時間は終電も終わってるっての。でも、兄貴がそんなに長い時間飲むなんて珍しいんだよな。精々2時間とか3時間とか位さ。いっつも一人で飲むんだよ。昨日は一人じゃなかったのかな?でも兄貴、人付き合い悪いからなぁ。大学時代だってほとんど恋愛なんてしなかったんだ。兄貴は大学に女が少ないからだって言ってたけどな。まぁ、確かにウチの学校は10人に9人は男ってむさい学校だけどさ。まぁ理系の大学なんて多かれ少なかれそんな感じだろう。他の大学から彼女作れってんだ。まぁ、兄貴も1回か2回位は女の子と付き合ってたみたいだけどな。まぁ兄貴には色々あるんで長くは続かなかったって訳さ。まぁ、色々あるんだ。誰だってそうだろ?』

 ドンドン!と乱暴にドアを叩く音がした。「おい!サトシ!うるせぇぞ!」
 ガチャガチャとドアを空けようとするが、ドアは空かない。「なんだこれ!鍵掛かってんじゃねぇか!」『あぁ…兄貴が来た…。兄貴が来たよ…』聡はドアの鍵を空けた。
 「おい!お前いつの間に自分の部屋に鍵なんか付けたんだ!」聡の兄は聡のベッドに腰掛けた。「お前の部屋に何か取られて都合の悪いもんがあるってのか?お前の部屋に鍵かけるなんてよく親父が許したな!」
 「お兄ちゃん、ボク、お父さんに頼んだんだ。良い子にしてるからって。そしたらお父さん良いよって、言ってくれたんだ。本当だよ」聡は俯き加減で呟いた。「ボク、嘘なんかつかないよ」
 「嘘つけ!お前は一日に何百回も嘘つきやがるんだ!お前みたいな嘘つきは、俺は見た事ねぇよ!」聡の兄は聡の頭を思いきり殴った。「お兄ちゃん、ボク、嘘なんかつかないよ。ホントだよ。嘘なんかつかないよ」聡は蹲り、消え入りそうな声で呟いた。「ホントだよ。ボクは嘘なんかつかないよ」
 「親父がお前の部屋に鍵なんか付ける訳ねぇだろうが!またお袋に頼んだんだろ!」
 「嘘じゃないよ。嘘じゃないよ。お兄ちゃん、嘘じゃないよ」
 「ふん!」聡の兄は見下すような一瞥をやり、部屋を出て行った。「兎に角サトシ、お前ブツブツ言ってるの止めろ。気持ち悪い。また大学落ちるぞ!」
 聡はビクっと全身を震わせた。顔色がどんどん蒼くなっていく。
 暫く沈黙が続いた。
 聡は突然甲高い笑いを押し殺すように小刻みに体を震わせていたが、我慢しきれなくなって笑い出した。
 『ははっ、あはははは。見苦しい所見せちゃったな。いつも兄貴ああなんだ。それも昨日財布落としたからなんだ。まぁ兄貴が偉そうにしていられるのも今のうちさ。今日、親父が帰ってきた時の兄貴は見物だぜ。アイツ、蛇に睨まれた蛙状態なんだ。ホントだよ。まぁ今に見てなって。でも兄貴の奴一体何を言い出すんだろう。大学にまた落ちるぞ、なんて。俺は大学2年生なのにな。あれ?2年前に兄貴と同じ大学だったから今は3年生か。そういやそうだ。3年生だ。間違い無い。思い出した。俺は3年生だ』
 「サトシ!いつまでもブツブツ言ってんじゃねぇ!」隣の部屋から聡の部屋に聞こえるくらいの大声で聡の兄は叫んだ。
 『そうだ。3年生だ。間違い無い。3年生だ。そうだ。間違いない…』
 バタン!と大きな音をたててドアが開いた。「サトシ、煩せぇぞ!」
 『お姉ちゃん、早く帰ってきてくれないかなぁ』急に聡はふと思った。聡の姉は兄の良き理解者で、2人はとても気が合った。自意識過剰な兄は自分の事を最大限に評価してくれる人間を何より大事にしていた。そして妹はその点で兄を常に満足させていた。聡の姉のそういった性質は母親の影響を強く受けていると言ってまず間違いはないだろう。彼らの母親は何より慈愛に富んでいる、彼らの良き理解者で、彼ら兄弟は―特に兄の方は―何よりも母親を大切にしていた。だから母も姉も不在の今、兄が話し相手に事欠いているのは事実であった。兄は、自分の努力を評価してもらう事に至上の喜びを見出す性質を持った人間であるし、加えて今聡の兄は自分のこれから発表する事が誰しもが喜ばずにはいられないような重大な事だと信じて疑わないので、一刻も早く母や妹に発表させ、喜ばせたいのであった。その実、彼が真に望んでいる事は言うまでもなく彼自身の自尊心を満足させる事であった。しかし、聡の姉は昨日も家に帰らなかった。

 結局夕方まで妹も母親も帰ってこなかったので、聡の兄は仕方なくテレビを見るともなく見ていた。彼は借りている下宿の自分の部屋にはテレビがない為、普段は全くテレビを見ない。多くのテレビを見ない人がそうであるように、彼もまたテレビを見るという事が下らない、何の実益も得られない愚劣極まりない行為として認識していた。それは彼の父親から受け継いだ思想であろう。が、彼の母親と妹はその逆で、多くの女性がそうであるように「下らないドラマ」を殆ど毎日欠かす事無く見ているのであった。彼の弟はというと、普段ずっと自分の部屋に篭りっきりの為に一体中で何をしているのか全く見当がつかないのであった。ただ、「いつもブツブツ煩い」とは2年前まで隣の部屋で過ごしてきた彼の言葉である。ところで彼は全く気が付いていないが、彼と父親はかなり似通った所が多かった。彼らは実際、頑固で努力家で要領が悪く、自意識過剰で向上心に富むが結果の得られない努力は一切しないという性質であった。この愛すべき性質によって彼らはこれからどんなに素晴らしい毎日を送れる事が可能だろうか!しかし読者諸氏よ、これほど可能性に満ちたこの青年でさえ、一体どんなに辛い日々を送っているか!彼は楽しい時や辛い時、嬉しい時や悲しい時、どんな時でさえも不安や恐怖を忘れることはできないであろう!そして実際、彼は常に不安や恐怖と共に生きているのだ!
 天気予報が終わり、クイズ番組に入ろうかという時に彼らの母親が帰って来た。「お帰り、母さん」彼は玄関に駆け寄った。「今日は遅かったんだね」
 「ゴメンゴメン。今日はパートの人が一人風邪で休んじゃってたから仕事が多かったの。はいこれ。お土産」母親はスーパーの買い物袋から鰻の蒲焼を取りだし、彼に渡した。「おっ、今日は鰻か!」彼は子供のように嬉しそうな顔をして聡を呼び寄せた。「おいサトシ、お前鰻食べるか?」「いや、お兄ちゃん全部食べていいよ」兄の嬉しそうな顔を見て聡も何だか嬉しくなってきた。
 「伸一のだけじゃなくて聡の分もちゃんとあるわよ。規子の分は買ってないけど…」母親はもう一つ鰻の蒲焼を買い物袋から取り出した。「規子は?」伸一が尋ねた。「さあ…何処に行ってるのかしら。昨日からお父さん怒ってるわよ。伸一が帰ってくる前大変だったんだから。お父さん、伸一が帰ってくるちょっと前にやっと眠ったのよ。規子が帰ってくるまで待ってるって。頑固なのよね、あの人も。ホント、規子も連絡ぐらい入れればいいのに」母親はテーブルに買い物袋をドサッと置き、夕食の準備に取り掛かった。「あ、悪いけどお風呂にお湯入れといてもらえる?」母親はキャベツをみじん切りしながら伸一に声をかけた。伸一は動く気配のない聡に文句を言いながらフロ場に向かった。

 彼らの父親が会社から帰ってきたのはその時だった。