宝物は何だっけ?

其の五

上松 弘庸





 
 最近だいぶ暇になってきたなぁ、と伸一は思った。というのも所属していた部活も半分引退のようなものだし、学校の卒業必要単位も随分前に取っている。就職も決まった。これで彼は念願の「暇な大学生」になれたと言えるだろう。睡眠時間を極限まで削って授業に出たり、部活に参加したり、夜間バイトに従事したりといった過酷な日々も随分と過去の出来事になりつつある。彼は自分で自分を努力家だと思っていて、その事に並々ならぬプライドを持っていた。彼が一番大切にしているものは向上心で、努力しない人間に対しては侮蔑の念を抱く性分である。こういった性格の持ち主は往々にして他人の努力を認めないものであるが、彼も例外に漏れず自分の努力を最大限に評価するくせに他人の努力は全く評価しない人物であった。加えて、彼は本来「労働こそが思想を決定する唯一無二の行動」という信念に基づいた考えを持っていたのだが、時間に余裕ができ、一日に何時間も本を読むようになってきた現在は、読書がさも高尚な行いであるかのような考えを無意識のうちに持つようになってきているのであった。しかし我が愛すべき青年よ、世間を見渡してみるがいい。お前が何時間も掛けてその「高尚な行い」をしている間に、なんと多くの人間があくせく労働に貢献している事であろうか。なんと多くの人間が実に様々な事を経験し、実感し、自分の思想に取り入れていることだろうか。お前が大事に抱えているプライドのなんと脆い事よ!お前が得ている知識は彼らの労働に比べて幾分の価値があるというのだ!しかし私は彼を責める事はできない。何故なら彼は実際実に多くの困難を乗り越えているのだし、そしてまたこれからも実に多くの不安や恐怖と戦いながらでしか生きていく事のできない人間なのだから。 彼の困難は、いや、止めよう。またしても私は先を急ぎ過ぎていたようだ。


 夢を見ている。いや、これは夢なのだろうか。


 お前は誰だ?

 鏡の中の俺が尋ねた。

 お前こそ誰だ!俺は、お前なんか知らない!認めないぞ!俺は生まれ変わったんだ!

 お前は誰だ?

 俺は橋本伸一だ。

 橋本伸一であるお前は誰だ?

 俺は、俺は橋本伸一だ。

 お前は透明な存在。俺の世界にお前は存在し得ない。俺は、お前の所に2冊のノートを持って行った。1冊目には大切なものを書き、2冊目には要らないものを書くように言った。なのにお前は両方のノートに要らないものを書いている。

 俺は、俺は橋本伸一だ。お前こそ誰だ。

 もしかして、お前と俺は同じものを共有できないんじゃないだろうか。お前にあるのは、圧倒的な絶望感。俺にあるのは満ち足りた世界。お前は何を望んでいるのだ。お前が望めばなんだって手に入るではないか。

 そっとしておいて欲しい。そっとしておいてくれないだろうか。


 ここで私は再び尊敬すべき読者諸氏に尋ねたい。尖った鉛筆の先のように鋭い完成の持ち主、つまり我が主人公のような人間が、一体この世で生き抜く事が可能であろうか。この青年の行く末には一体如何して光が、幸が存在し得るのだろうか。悲しいかな、この青年の未来にはまだまだ多くの困難が待ち構えている。しかし、我が偉大なる読者諸氏よ、貴方達の暖かい心でこの青年を見守っていって欲しい。そして、できる事なら私が何故この青年をこの物語の主人公に選んだか解って欲しい。


 お前は死ぬのかい?

 何故俺が死ななきゃならない?

 何故って、だって人は誰しもいずれ死ぬだろう?

 それはそうさ。だけど、分からないな。俺もいずれ死ぬことになるのだろうか。

 そうさ。まぁ現実から逃げなければ死ぬ事自体は不幸じゃない。それに、不幸だって人生はいいものさ。幸せを幸せとして感じる事が出来る事、不幸を不幸として感じる事が出来る事に、僕達は感謝しなくてはいけないよ。

 そうきたか。

 両親に感謝し、全ての物に感謝し、現実に感謝し、時間に感謝しなくちゃいけないよ。僕達が生きていくには全てのものが必要なんだ。これ以上何を望むんだい?時間だけは、みんな平等に振り分けられているじゃないか。

 なんだか凄く気分が悪いな。凄く嫌な気分だ。

 どういうふうに?

 分からない。一言で言えば、むかむかするような気分なんだ。僕には何かが欠けているような気がする。ところで僕は、自分の夢を何処に無くしてきたんだろう?

 心の扉を開いてごらん。奥にあるかもしれないよ。

 詩人だね。

 まぁね。

 でも、君は頭がいいね。

 君ほどじゃないさ。まぁ、僕は自分が賢くないって分かるくらいには賢いけどね。

 
 ここで少し寄り道をして、尊大なる読者諸氏に質問をする事を許して欲しい。例えば、ある男(これは必ず男でなければならない)が《後一月でお前は死んでしまう》と運命付けられたとしたら、その男は己の持っている全ての向上心を投げ捨て、ただ快楽を欲する事のみの日々を送る事になるだろうか?私はそうではないと思っている。もしそのように自分の運命を定義された男がいるとするならば、その男は残りの一月を最大限自己の能力を限界まで活用すべく思案を巡らすであろう。そして、そうした考えを持っている限り、その一月はその男にとって無限とも謂える可能性に満ちた時となるのではないか。しかし、女の場合はどうであろうか。私は、主人公に伸一を据えた。伸一は、苦悩に押し潰されながらも生き抜くだろう。しかし…。いや、気を付けなければいけない!どうやら私は最近先を急ぎ過ぎてしまうようだ!私は何を焦っているのだ!


 僕が住んでいる世界は君の世界とは違う。僕の世界は希望に満ちているよ。君は何を望むんだい?

 俺が何を望むのかって?俺は何も望んじゃいない。

 だが、君は満たされない。

 そう。満たされない。


 しかし、彼が不幸である最たる所以は、彼が自分の事を紛れも無く不幸であると認識している事だろう。伸一は通常の生活では得る事のできない、リアルな、そしてそれがリアル過ぎてまるで作り物のような苦しみを味わっている。


 ヤニで黒ずんだ白いニットの帽子を被り、伸一は外に出かけた。