宝物は何だっけ?

其の六

上松 弘庸



 烏が嬉しそうにゴミを漁っていた。ゴミ捨て場には大量の生ゴミが捨ててあった。生ゴミに混じって乱雑に成人誌も捨ててあった。股を開いた制服姿の女が表紙を飾っていた。女はとても嬉しそうな笑顔を烏に向けていた。伸一は、歩きながら強く差込んでくる太陽の光を怪訝そうに見遣った。太陽の光は嫌いだ。生きる気力が失せる。伸一はコンビニエンスストアに入った。牛乳とチーズとヨーグルトを買った。買い物袋を右手に持ち、レシートを左手で握りつぶした。

 川沿いの土手を見ると一人の老人が走っている。震える足を懸命に前に出し、細い腕を交互に一生懸命動かしていた。自分の意思で動かしているというより、まるで誰かに命令されて動かされているように見えた。目は虚ろだ。焦点が定まっていない。口から次々に白い息を吐き出している。不規則な呼吸だ。着ている肌着は汗でびっしょりと濡れていた。口から涎を垂らしている。下半身は何も着けていなかった。

 研究室に戻ると田吾作が何やらブツブツと呟いていた。伸一は破れて黄色いスポンジが吹き出ているソファーに腰掛けた。ソファーには誰かの干乾びた精子がこびり付いていた。伸一はチーズを食べ、牛乳を飲んだ。袋の中にスプーンが入っていなかったのでヨーグルトは薬匙で食べた。牛乳が温くて不快な気分になった。口直しにビーカーにコーヒーを入れて飲んだ。余計に気分が悪くなった。
 「なぁ、もしかして俺達は標準試薬を間違えていたんじゃないのか?」不意に田吾作が言った。
 「独り言か?」
 「なぁ、標準試薬が間違ってなければ絶対検量線はちゃんと直線に近い値で出る筈なんだ」
 「悪い冗談なら止めてくれ」伸一は煙草に火を付けた。
 「おい、研究室内は禁煙だぜ」「構いやしないさ。ここは有機の研究室じゃない。爆発なんかしないさ」
 田吾作は眉を寄せた。
 「でもアルコール類はあるじゃないか」田吾作はエタノールを指差した。
 「じゃ、なんでここに灰皿があるんだよ」伸一は煙草の灰を灰皿に落としながら言った。
 「いいんだよ。教授達も吸ってるんだから」灰皿に煙草を押しつけながら伸一は田吾作を睨んだ。灰皿にはかなりの量の吸殻が溜まっていた。その中の口紅が付いているヴァージニアスリムの吸殻を手にして伸一が呟いた。「俺らの研究室に誰が女連込んできたんだ?」
 「標準試薬、ちゃんとスズのピーク出てた?」田吾作が聞いてきた。
 「教授が連れて来たのか?誰だよ、ヴァージニアなんか吸ってる奴は」
 「ちゃんと聞けよ!」田吾作が怒鳴った。「なぁ、いいか、ハッシーだろ?標準溶液作ったのもそっからピーク割り出したのもピークの高さ測ったのも全部ハッシーだろ?おかしいんだよ。原子吸光度の検量線作れないっておかしいんだよ。有り得ないんだよ俺何回もやり直したしさ。ハッシーは最初に標準試薬作って終りだったけどもう一回やってくれよ間違ってるんだよハッシーがさ。間違ってるのはハッシーなんだよ何笑ってんだよむかつくなぁ。大体俺が何回も測定してる間ハッシーずっとインターネットで遊んでたじゃないか。俺知ってるんだぞハッシーがエロ画像集めてんのも出会い系チャットで遊んでるのも知ってんだぞ。俺が何回も何回も何回も何回も測定やり直してる間ハッシーは就職活動だ部活だバイトだ言っててインターネットで遊んでるだけなんだ。俺知ってるんだぞ何で笑ってるんだよ何がおかしいんだよ本当に腹立つなぁ。俺が就職できなかったのを馬鹿にしてるんだ。ハッシーはいつもそうだ俺の事を馬鹿にするんだ。俺が測定したり計算したりしている間お前は遊んでたんだ。お前みたいな奴がいるから日本が駄目になっていくんだ。だけどお前みたいな人間は会社入ってから苦労するよ本当。苦労するよ。俺が保証する」
 「なんか最近面白くないなぁ」伸一は3本目の煙草に火を付けた。
 「なぁ、標準溶液作ってくれよ」田吾作は情けない声を出し伸一に頼み込んだ。
 「なぁ、頼むよ。標準溶液作り直してくれよ」
 「黙れ」
 「研究テーマが、俺の研究テーマが悪いんだ。スズの吸収波長はアルミも硝酸も検出されるのに、アルミを吸着剤にして硝酸を溶離剤にするなんて無茶だったんだ。そう思うだろ?塩酸使えたらいいのにさ、塩酸じゃアルミも溶けちゃうしさ、分離濃縮原子がスズじゃなくて亜鉛とかなら良かったのにさ。なぁ、ハッシー、亜鉛なら良かったのにさ」
 「お前はこれから先ずっとそう言い続けるのか?これはダメだ、あれならいいのに。あぁもう駄目だ。あぁもう止めよう。何で俺だけ苦労するんだ、ってね」伸一は卑屈に笑った。
 「だっておかしいじゃないか!こんなに頑張っているのに!努力したら報われなきゃいけない!努力した人が報われないなんて、そんな事があって堪るか!」
 「だけど、これが現実さ」
 「俺は納得いかない」
 「それはお前の勝手さ。世界はお前の決めた規則に従って動いているんじゃないからな」
 伸一は笑っていなかった。
 「だって、今までだって努力は報われなかったじゃないか。それとも、お前は今までずっと努力が報われ続けてきたってのか?」
 沈黙。
 「いいか、努力なんてものはな、報われないもんなのさ」

 震える手足を懸命に交互に動かしながら老人は走っている。その虚ろな目に何が映っているのか。老人は言う。「枯れ木に花を咲かせましょう」。しかし誰にも聞こえない。枯れ木に花を咲かせましょう。無色透明、無味無臭の言葉は無に帰していった。