何をやってたんだろうねえ




麻草 郁







 担当編集春日が座ってるはずの席には、岸本が座っていた。
「お前何やってんの」
 おれに気づいた岸本は、持ってた雑誌の読みかけページに指を挟んで、店員を呼んだ。
「コーヒー、ふたつ」
「お前もう飲んでんじゃん、何頼んでんの」
 座りながら言うと、岸本は雑誌を開きながら「あー」とか「うえ?」とかいうような意味の音を吐いた。
「春日さんは」
「あー、風ー邪ー」
 岸本が読んでいるのは、週刊マンガ雑誌だった。マンガを読んでる時の岸本ほどのバカはいない、口を半開きにして、目はうつろ、金壷眼の奥で小さい黒目がクルクル動いてる。
「なんだよ、お前来るならメールでよかったのに」
「仕方ないじゃん、春日さんモニターじゃ読まないって言うんだから」
「あ、持ってくんだ……お前プリントしろよ、ていうか何マンガ読んでんだよ、原稿見なくていいのかよ」
「うぁう、ちょっと待って、ちょっちょっ」
 おれは呆れて目を閉じた。こいつは本当にクズだ、どうしようもない奴だ。次に目を開けた時、こいつの醜い顔が目に入るのが嫌だったので、首を90度左にまわし、ゆっくりまぶたを開いた。
 隣の席で、黒いスーツの男が、胸を抑えて苦しんでいた。
 病気かな、おれには関係のないことだ。27年も生きてると、他人の心配なんてしていられなくなる。そういう心配のできる奴は、親が金持ちか、よほどのお人よしだけだ。男は目に見えるほど大粒の汗を垂らしながら、必死で痛みに耐えているようだ。
 コーヒーが来るのと、岸本が雑誌から目を離すのが、ほとんど同時だったので、この男はこういうくだらない事で人生の運の大半を使い込んでるんだろうなあ、と思った。
 岸本はコーヒーをすすりながら、おれの書きかけの原稿を読み始めた。
----
白い熱情の記憶

 「答えなさい、どうしてあんなことをしていたの?」
 むらかみせんせいは、紅いくちびるをぐいぐいうごかして、ぼくにひどかことば聞いた。
 このむらはしけっとるけん、ひるともなりゃ、からだじゅうがじーっとり、あぶらまいたごたるねばる。むらかみせんせいの白かシャツも、しけってはだにはりついとった。
 はだにはりついとぅ白かシャツは、すけて、うすいももいろになる、ぼくは、むらかみせんせいのももいろのはだを見ながら、ちんぽを立てとった。

 「先生、起きてください、小林センセ、授業ですよ、センセ」
 一本一本繊維がほどけるように、私は眠りから覚醒へと引き戻された。全身の感覚を思い出し、椅子のふちにひっかけた腰のしびれを感じる。肩を叩いていた生徒の誰かは、私がうなったのを聞いてどこかへ行ってしまった。
 まぶたを押し広げると、午後の陽光が窓から部屋を舐めているのが見えた。反射的に閉じようとするまぶたを押し広げながら、私は姿勢をたて直し、椅子に深く腰掛けた。
 幼い欲望の発露か、私は生臭い夢の残滓を舌の上でもてあそびながら、窓の外へ視線を泳がせた。
 どうしてあんなことをしたのだろう。
 村上先生は私が小学三年生のときの担任で、座右の銘は臥薪嘗胆
----
「担任で、担任で、えーと、だからなんだよ、これ何が言いたいの、何、芸術なの?バカかお前、全然面白くねえよ、全然面白くねえ、バカ、お前何書いてんの、お前の職業なんだよ、お前の職業。ポルノ作家?そのとおり!大先生でございますよ!その大ポルノ作家がだよ、何これ、バカじゃないの?」
 岸本はたぶん、臥薪嘗胆が読めなかったんだろう、バカだからだ、こいつはおれのデビューと同時に編集部に入って、バカだから全然出世してない、こいつの担当した新人は全部つぶれるし、春日さんはパーティーでこいつのバカさを話の種にしてる。こいつはおれにしか威張れない、可哀想な奴だ。でもおれだって同じだ、おれは自分のポルノに誇りを持ってるが、はじめた理由は書くのが楽そうだったからだし、今だってエロシーンだけならいくらでも書ける、ただそれ以外の、普通の小説みたいな部分が全然書けないだけだ。それに、おれだって臥薪嘗胆なんて字は読めても書けやしない。パソコンを買ってから、おれの低かった文字を書く能力は、ゼロになった、どんな言葉でも変換すれば簡単に出るし、書くのに苦労もいらない。前にどこかの翻訳家が、潜水艦とペンで書くのとサブマリンとタイプするのとどっちが楽だと思ってんだ、って怒ってた話を読んだことがある。おれは英語がわからないから、潜水艦とタイプするのが一番楽だ。
 インターネットで調べればたいがいの言葉の読み方はわかる。そういやインターネットでおれの名前を検索しても誰も話題にしてない、同業の平田がすげえ出てきたので読んだらものすごい悪く書かれていたが、無関心よりはマシな扱いだろうと思う。インターネットなんかで人の悪口を書いてる奴はバカしかいないと思うが、そんなバカにすら読まれてないおれの本はいったいなんだ?
「おいお前お

 まず白い光が見えて、次第に色がついた。煙だか埃だか、目の前にある白いもやは、ゆっくり晴れていった。おれははじき飛ばされて、ずいぶんレジの近くまで来たらしい。床に寝転がった体を起こすと、背中と足が熱いくらい痛かった。耳には「ジー……」という音しか聞こえない、床を踏む音とかは聞こえるから、鼓膜が破れたわけじゃないみたいだ。おれはずるずると足をひきずりながら、喫茶店のドアを開けて、外の通りへ出た。視界がぼやけてものの輪郭がはっきりと見えない、どうしたものか、おれ、死ぬのかな。手を顔にやると、ぬる、としたいやな感触がした。ヒタイがさけて血が出てるらしい、経験からすれば、ヒタイから出る血で死ぬことはないが、脳がやられてるとやばい、後からくるんだ脳は。
 顔に垂れる血をぬぐいながら、おれはメガネを店の中に落としたことに気づいた。
「あ、えーと、岸本、大丈夫?」
 おれは間抜けな声を出しながら、店内へ進んだ。
「うあ?」
 おれに負けないほど間抜けな岸本の声が聞こえた。
 目をこらすと、煙の中に、グチャグチャになった店内が見えた。ガスかな、爆発したみたいだ。ひっくり返った椅子の下から岸本が這い出して、うなっている。岸本の顔は真っ白だった、おれが笑うと岸本は心配そうに「お前大丈夫か?」と言った。おれはおれで、血まみれだったからだ。
「原稿、なくなっちゃったな」
「メールで送るよ」
「めんどくせえ」
 何だかんだ言って、おれと岸本は友達なのだな、おれは笑った。
 煙が晴れて、すっかり店内が見渡せるようになると、おれの悪い目にも隣の席が爆心地であることがわかった。どうやら苦しんでいたあの男が何か爆発物でも持っていたらしい、こんなに近くで爆発したのに生きていたんだ、おれたちはよほど運がいいんだろう。岸本はおれを気遣って椅子に座らせると、表へ救急車を呼びに行った。
 入れ替わるように、おれの目の前に、全身タイツを着た変なのが現れた。顔には丸い仮面のようなものをつけていて、口だけ出てる。
 変なのが言った
「危ないところだったね、これでもう安心だ、君の作り出したこの秘密文書は預かった、あとで読ませてもらうよ」
 変な男が持ってるのは、おれの書きかけの原稿だった。
「あの、それ」
「君の隣に座っていた黒いスーツの男は組織の改造人間でね、君の書いた秘密文書を」
「ちょっと、あの、秘密文書って何、それおれのなんだけど」
 仮面の男はニカっと笑うと、良く通る個性のない声で答えた。
「気づいてないのも無理はない、君は偉大なる正義の宇宙意思によって操られて、この宇宙の仕組みを書いたんだ、もちろん文面は君がいつも書いている小説に似せてあるが、しかるべき手順を踏んで解読すれば、大統一理論すら解明できるほどの素晴らしい文書なんだよ!」
「……そんなの、何で、じゃあ、あの人、爆発しちゃったんですか、単におれから、盗んだりすればいいのに」
「爆発?ああ、これか、これはね、我々が開発した局所指向型特殊マイクロ波放射装置で」
「お前がやったのかよ!」
「偉大な理想の前に犠牲はつきものだ!君はやりとげた、この小林先生が小学生時代にやっていたこと、これこそ宇宙の秘密を解く鍵になる、秘密基地に帰ってこの文書を解読するのが楽しみだよ!これがヒーローとして生きてきた僕への最大の」
 さて、何をやってたんだろうねえ、その続きはまだ書いてないんだ。
 おれがニヤニヤ笑ってる間にパトカーが停まって、ヒーローは消えてしまった。

 それ以来、ポルノは書いてない。