あなたのうたをききたい




水月 始







 「ぼくはね、天使なんだ」
 よく響く低音の声が、疲れきった私の耳たぶをやさしく撫ぜた。まぶたが重く、体中がだるい。今日もずいぶん遅くまで残業したのだ。仕事はやりがいがあるけれど、まわりのみんなと対等にやっていくためには人並み以上に努力をしなくてはならない。だって、私は女だから。
 「ねえ、聞いてる? ぼくは天使なんだよ」
 声が、私を現実に引き戻す。気がつくと見知らぬ青年が立っていた。二十歳くらいだろうか、たぶん私よりちょっと若い。私には眠るとき目が半開きになるクセがあるので、寝顔をずっと見られていたのかと思うと急に恥ずかしくなって、少しだけ怒ったように口を開いた。
 「私ね、とても疲れているの。冗談は他所でやってくれるかしら」
 「冗談じゃない。本当のことさ」
 「ふうん。じゃあひとの寝顔をのぞき見るのもあなたの仕事ってわけ?」
 「そういうわけじゃないけど。怒らしちゃったかな」
 「そうよ」
 私がそう言うと、彼は困ったような顔をして少し笑った。そして私の横にストンと腰をおろすと、そのまま電車が揺れるのに身をまかせた。なんてずうずうしい男なんだろう。ほかにもあいている席はたくさんあるのに、わざわざ私のすぐ隣に座るなんて。それとも、あまりに無防備に眠りこけていたから、簡単な女だと思われたのかしら?
 ぐるぐると考えを巡らせているうちに、私たちの乗った電車はもう目的の駅に着こうとしていた。
 「天使として、君にひとつお願いがあるんだ」
 「お断りです」
 「そんな言い方しないで、話だけでも聞いてよ。あのね、さっきこの子を拾ったんだけど、僕には飼えないから、君に面倒をみてほしいんだ」
 そう言って彼は、ジャケットの内ポケットから小さな小さな子犬を取り出し、私の膝の上に置いた。すごくびっくりしたけれど、そのとき触れた彼の手が陶器みたいに冷たかったから、私はすぐに動くことができなくて。
 「天使はね、歌をうたうことでひとを癒すんだ。だけど、ぼくは歌が下手だから、この子も飼ってやれないし、君を幸せにすることもできない」
 「本当に役立たずなのね」
 「そうなんだ」
 大げさに眉間にしわをよせる彼を見て、私はぷっと吹き出した。
 「あなた、犬が好きなの?」
 「好きだよ、大好きだ」
 「あたしもなの。あなた運が良かったわね」
 「君が犬好きだってことは、知ってたよ」
 こともなげに彼は呟いた。独り言のように、心地よい低音の響きで。
 「知ってる? 何かお願いをするときにはね、神様じゃなくて天使にお祈りしたほうがいいんだよ。だって神様はひとりしかいないから、順番待ちにひどく時間をつかってしまうんだ。その点、ぼくら天使は違う。ぼくらはとてもたくさんいるから、お願いしたそばから、それを叶えてあげられるんだ」
 あんまり大きなお願いは無理なんだけどね、なんて肩をすくめながら。
 「じゃあぼくは降りるから。その子、大切にしてあげて」
 そう言ってふわっと微笑むと、彼は扉からホームへと降りていってしまった。私はしばらくそれを見送っていて、発車のベルでやっと我に返ると、そこが自分も降りる駅だったことに気付いて飛び跳ねるように電車から転がり出た。見回しても彼の姿はない。ただ、左手の中にすっぽり収まった子犬の体温が、やけに暖かく感じられる。


 子犬には、ムサシと名付けた。
 ムサシとの新生活は、予想以上に素晴らしいものだった。毎日のように疲れきって帰宅する私を、ムサシはいつも同じように迎えてくれた。上司との付き合いで飲みすぎた夜も、同僚に理不尽な言いがかりをつけられて傷ついた夜も、ムサシは変わらずに私のそばにいてくれた。
 私には、付き合って4年目になる同い年の恋人がいた。付き合いは学生時代からで、卒業と同時に私は就職し、彼は研究のため大学に残った。
 学生の彼は、平日の夜でも構わずに私を誘った。仲間と飲んでるからお前も来いよ、と言う。次の日も朝から打ち合わせが入っている私は、本当はそのまま家に直行して倒れこんでしまいたいのだけれど、どうしても断りきれずに彼のもとへ走ってしまう。
 だって、彼はとても優しいから。いつも私の愚痴を聞いてくれるから。
 その日も急いで仕事を終わらせ、呼ばれるままに駆けつけたいつものバーで、彼はいままで見たことがないくらい酔っ払って、カウンターに突っ伏していた。
 大学の後輩だろうか。その横で彼を介抱する若い女性を、私はそのとき初めて見た。
 「みんな先に帰っちゃったんです」
 私の顔を見て、ほっとしたように彼女は言う。
 「あと、お願いしますね」
 彼女が帰ったあと、同じ席に座って私はカクテルを2杯飲んだ。ものすごく甘いやつを注文して、それは期待通りの甘さだったんだけど、私はやっぱり気持ち悪くなる。そのうち彼がやっと目を覚まして、うつろな瞳で私のことを見た。
 「どうしたの?」
 「なんでもない」
 「でも、泣いてるみたいだ」
 「泣いてないよ」
 「・・・出ようか」
 私たちはそのままホテルに行って、身体を重ねた。私は気持ちいいのかどうかも全然分からなくって、ただ、お腹をすかせて私を待っているはずのムサシのことばかり考えていた。
 その日から、私は彼に呼ばれてもまっすぐ家に帰るようになった。まっすぐ家に帰って、その日一日の出来事をムサシに報告する。ムサシはまるで私の言っていることが全部分かるみたいにうなづき、相槌をうち、私を慰めてくれた。
 恋人との別れは、とても自然なことのように思えた。
 「ごめんなさい」
 「理由は、なんなんだ? 俺がいけなかったのか?」
 「あなたは悪くない」
 そう言って私は泣いた。彼は最後まで理由を知りたがったけれど、私はかたくなに、ごめんなさいと言い続けた。そんなの私にだってよく分からない。うちに帰ったらムサシに涙を拭いてもらわなくちゃ。


 別れは、突然やってきた。私が彼にそうしたみたいに。
 ムサシが消えたのだ。
 信じられなかった。
 迎える者のいないがらんどうの部屋で、私は呆然と立ち尽くした。窓の鍵は閉まっている。誰かが出入りした形跡はない。ただ、ムサシだけが忽然と消えてしまったのだ。疲れた身体に鞭打って必死に探したけれど、結局見つけることはできなかった。いつもと変わらない部屋の中で、ムサシだけがいない。
 朝になり、麻痺していた感覚が戻るにしたがって、徐々に実感がわいてきた。実感はたやすく恐怖へと変わる。ムサシがいなければ、私はどうやって頑張ればいいのだろう。誰に話を聞いてもらえばいいのだろう。何に癒してもらえばいいのだろう。
 私はもう、あなたがいないと駄目なのに。


 あの青年が私の前に現れたとき、私の両目は涙でボロボロになっていた。どうやっても涙が止まらないのだ。泣きはらしたまぶたの向こう側、最初に会ったときとまったく同じ姿で彼は立っていた。
 「ごめんなさい」
 「なんであなたが謝るの?」
 「君が泣いているのは、ぼくのせいだから」
 全然意味が分からなかった。私からムサシを奪ったのは自分だとでも言うつもりなのだろうか。でも彼は悲しそうに私を見つめるばかりで、それ以上言葉を継ぐつもりはないように見えた。
 「そういえば、あなた天使なんでしょう?」
 「うん」
 「天使にお願いごとをすれば、お願いしたそばから、それを叶えてくれるのよね。確か、そう言ったわよね?」
 「うん」
 「じゃあ・・・」
 自分でも驚くくらい静かな声で、私は言う。
 「じゃあムサシを返して。あなたが私に預けた、あの子犬を」
 「それは、できないんだ」
 「どうして?」
 「ムサシはね、いなくなっちゃったから」
 「そんなの知ってる」
 「ぼくにもう少し力があればよかった」
 彼はそう言うと、目を細めて私を見た。それから深く、深く息を吐き出して言った。
 「ムサシは無理だけど、他の子なら」
 私は妙に可笑しいような、腹が立つような気持ちになって、どんな顔をしたらいいか分からなくて唇の端をゆがめた。
 「ねえ、歌をうたってよ」
 「え?」
 「あなたの歌を聞きたい」
 「ああ」
 彼はなんだか許されたような、少し憂いを含んだ表情をして。
 「最初からそうしていればよかったんだね」
 そうして、彼はうたいはじめた。ゆっくりと言葉を紡ぐように。私に語りかけるように。神様に祈るように。
 心地よい低音の響き。
 私には彼の身体が段々と透き通っていくように見えて、でもそれはとても自然なことのように感じられたので、そのまま黙って彼の歌声に聞き惚れていた。
 彼の、陶器みたいに冷たい手。ふわふわと優しいムサシの毛並み。その両方をいっぺんに思い出す。
 そしてそのどちらにも、もう二度と触れられないことを知り、私はまた泣く。