ヒマワリ




イシザワマサキ







 部屋のチャイムが鳴った。
 ちょうど仕事から帰ってきて、億劫なからだに鞭を打ち、夕食の支度にとりかかろうとしていたわたしは、軽く舌打ちをしながら、玄関へと向かった。せっかく滅入っていた気持ちを、スーツを脱ぎ捨てることによってどうにか回復せようとしていたのに。どうせ新聞の勧誘か、何かに決まっている。わたしはまた気分が滅入るのを感じながらも、玄関のドアを開けた。
 そこには、予想していた新聞の勧誘員の姿はなかった。代わりに、黄色い帽子に、緑色の作業服を着た中年の男が、立っていた。
「あの、新館さんのお宅ですよね」
「はあ、そうですが」
「よかった、間に合って。いやね、もう何度もお邪魔してるんですよ、午前中からずっと」
「はあ、あの、何でしょうか」
「お荷物をお届けに来ました」
 それだけ言うと、配達員は、カンカンと音を鳴らして、階段を降りていった。わたしは、サンダルを履いて、玄関から外へ出て、階段の手すりから下を見下ろした。わたしの部屋があるアパートの二階から、通りのほうに停めてあった配達車が、エンジンを切らずに停めてあるのが見えた。
 なんだろう、と思っていると、配達員は大きな袋を、ふたかかえ、両肩に担いで重そうに持ってきた。階段を上る足取りが、おぼつかない。わたしは、慌てて部屋の中に飛び込んだ。
 配達員はそのまま、大きなビニールの袋を、どっこいしょという掛け声と同時に、玄関に置いた。その袋の中には、十数キロはあろうかという、どす黒い色をした土が入っていた。わたしは、見間違いかと思い、何度も、目をこらして見つめたけれども、どう見ても土以外には見えなかった。
「ちょ、ちょっと、これ、本当にうち宛てなんですか?間違いじゃないんですか?」
「はあ、あなた、新館さんでしょ?」
「ええ、そうです」
「いやあ、確かにあなたんとこ宛てだよ、ほら、ここに書いてあるもの」
 配達員が差し出した配達票には、確かに、わたしのアパートの住所が書いてあった。その下には、独特な濃い自体で、わたしの夫である、隆の名前が書き込まれてあった。
「まだ、いっぱいあるんですよ。持ってきますから」
 配達員は、都合五往復して、十もある大量の土の袋を玄関に置いた。今にもはちきれそうなビニール袋には、びっしりと、土が詰められてあった。その表面には、「園芸用」と書かれてある文字が見えた。
 わたしは、不思議に思いながらも、配達員に判子を渡した。配達員は愛想のいい笑顔を振りまくと、両肩をもみながら、配達車へと引き返していった。
 わたしは、玄関に積まれたその土を、しばらくの間ぼうぜんと眺めていた。手に持っている配達票の控えの字は、確かに隆の字だった。となると、この大量の土は、隆が買ってきたということになる。
 何のために、こんなに大量の土を買ったのだろう。まるで見当もつかなかった。危ういバランスで積み重なっている袋の山が、崩れないように、わたしは両腕でその頂点を抑えていた。早く隆に、この土の理由を聞きたかった。食事の用意なんて、すっかり忘れてしまっていた。

 数十分して、ようやく玄関のドアが開いた。隆は、玄関をくぐるなり、そこに積み重なっている土を見て、嬉しそうに笑った。
「ただいま。ちゃんと、届いたみたいだね」
 革靴を脱ぎ、上着を片手に持って部屋に入っていく隆の後ろ姿を見やりながら、わたしは尋ねた。
「ねえ、こんなにたくさんの土、何のために買ったの?」
「まあまあ、そう慌てるなって」
 隆はキッチンに行き、いつものようにグラスを片手に取り、水を一杯飲んだ。いつもの、いつもどおりの隆だった。何もおかしなところは見受けられない。それでも、腑に落ちないところはあった。こんな買い物をするのなら、事前に何か言ってくれてもよさそうなものだ。それが、わたしたちの間では当たり前のことだったし、第一、こんなものを何に使うのか、見当もつかない。
「ちょっと、これ、崩れちゃうわよ、どうにかしてよ」
「はいはい」
 隆は上着をクローゼットにかけ、玄関に戻ってきた。わたしはずっとその土の山を押さえていたので、手がすっかりくたびれてしまっていた。わたしが手を離すと、隆が代わりに、その山を押さえ持ってくれた。
「ねえ、こんなのどうするのよ。うちみたいな狭いアパートで、何に使うっていうの?」
 そう言うと、隆は嬉しそうに、また微笑んだ。ぽんぽんと、土の山を叩き、その中の物の感触を確かめているようだった。
「舞子を驚かせてやろうと、思ってさ」
「なにそれ、どういうこと?」
「舞子、前から、ガーデニングをやりたいって言ってたじゃない。だからね、やらせてあげようと思って」
「ガーデニング?そりゃ、やりたいって、言ったかもしれないけど、うちのアパートには、ベランダだってないのよ。どこで、やるつもりなの?」
「そりゃ、決まってるじゃない」
 隆はそう言うと、積み重なった土の山から、一袋、両手で抱え持ち、そのままリビングへと歩いていった。十畳ほどのリビングには、いつもどおりの光景があった。中央にテレビがあり、その差し向かいにソファーがある。フローリングの床に、隆の足音が、どかどかと響いていた。
 どうするつもりなのだろう、と訝しげに隆の様子を伺っていると、隆は唐突に、リビングの真ん中に、土の袋を置いた。どすん、という鈍い音が、部屋に響いていた。
「さ、舞子、そのソファーをどかすから、手伝ってよ」
 わたしには、何が起こるのか、まったくわからなかった。ただ、嬉々としながら動き回る隆を見つめていた。わたしが手伝わないでいると、隆は一人で、ソファーを部屋の奥に押し込んでしまった。
「ちょ、ちょっと、隆、どうするつもりなの?」
 隆はわたしの問いには答えなかった。その代わりに、わたしに笑顔を向けると、リビングに置かれている土の入った袋を、両手で強引に、破いた。
「な、何やってるの?」
 隆は土の袋を持ち上げると、リビングにそれをまき散らかした。フローリングが、みるみるうちに黒がかった茶色に染まっていく。砂時計の砂が、零れ落ちるように、袋に詰まっていた土が床に落ちていく。あっという間に、一袋が空になった。
「ちぇ、案外少ないもんだなあ、これ。買った分で足りるかなあ」
 そう言い放つと、隆は、リビングの入り口で立ちすくんでいるわたしの横をすり抜け、玄関からまた袋を持ってきた。そうして、乱暴に破いて、土をふり撒いた。
 わたしは、まるで訳がわからなくて、ただ立ちすくんでいることしかできなかった。隆のしていることが、何なのか、わからなかった。そうしている間にも、隆は、どんどん土をリビングにふり撒いていく。土の山が、いくつも、いくつもできていき、あっという間に、十の袋が破られ、大量の土がリビングの床を覆った。
「お、いい感じじゃん。これなら、きっと大丈夫だよ」
 わたしは、恐ろしさのせいで、からだを震えさせながら、隆に聞いた。
「た、隆、なんでこんなこと、するの?」
 隆は靴下をはいたまま、リビングを覆った土を足でならしてした。白い靴下が、茶色く染まっていた。スーツの裾にも、びっしりと土が、まとわりついていた。
「決まってるじゃないか、ここで、植物を育てるんだよ」
 そう言うと、隆は跪き、土を手にとって、匂いを嗅いだ。わたしの鼻にまでも、湿った土の匂いが届いていた。わたしは、もう立っている気力もなくなり、へなへなと、その場に座り込んでしまった。
「隆ぃ、どうしちゃったのよお、隆ぃ・・・」
「なんだよ、なんでそんなに悲しそうな顔をしてるんだよ、これで、いくらでも植物が育てられるぜ?舞子が、やりたいって、言ってたんだろ?やりたかったんだろ?もっと、嬉しそうな顔をしろよ、これで好き放題にできるんだぞ」
 そう言った隆は、本当に嬉しそうな顔をしていた。
 そのとき、わたしは突然に気づいた。隆は、壊れてしまったのだ。きっと、正気を、失ってしまっているのだ。いつからだったのだろう。なぜ気づいてあげられなかったのだろう。日常は、普通に過ごしているように見えても、隆の心はすっかり傷ついてしまっていたのだ。何故、こんなことになったのだろう。何故、こんなに壊れてしまうまで、気づいてあげられなかったのだろう。
 そう思うと、わたしは悲しくなって、胸が張り裂けそうだった。壊れてしまった、隆のことを考えるだけで、いくらでも、涙が出てきそうだった。実際わたしは、もう溢れる涙を我慢できなかった。わたしは、土の匂いがむせ返る部屋の入り口で、両手で顔を覆って、泣き崩れた。
「ほら、ちゃんとこれも、用意したんだぜ」
 隆はワイシャツのポケットから、黄色い袋を取り出した。そこには、色鮮やかな、ヒマワリの写真が載っていた。
「舞子、ヒマワリ、好きだろ。この部屋をさあ、ヒマワリでいっぱいにするんだ、きっと、綺麗だぜ」
 隆はヒマワリの種が入った袋を、口で噛み千切ると、手のひらいっぱいに、ヒマワリの種を掴んだ。そうして、それを一粒ずつ、地面に敷かれた土の中に、等間隔に埋めていった。
「きっと、綺麗なヒマワリが、咲くよ。この部屋いっぱいにさあ、ヒマワリを咲かせて、二人で、眺めようよ、ねえ、舞子、なんで泣いてるんだよ、喜べよ、ヒマワリだぞ、好きなんだろ?」

 よく眠れなかった。昨夜の隆の、奇異なふるまいが、嬉々とした目の中にある、狂気のような色が、恐ろしくて、わたしはほとんど眠ることができなかった。それでも、やっぱり朝日は昇っていて、寝室の窓から差し込んできている。何か、こんなにも普通に朝が来てしまったことが、馬鹿みたいだと、思った。隆があんなにまで、壊れてしまったのに、こんなにも普通に朝がやってくるなんて。
 昨晩、あの惨事のあと、わたしはただ泣き叫び、隆に、正気に戻ってと頼み込んだ。何度も、何度もそう叫んだのに、隆は不思議そうに、首をかしげるだけだった。
「なんだよ、僕はおかしくなんか、なってないよ、舞子のほうこそ、変だよ」 
隆のその言葉を聞くたびに、わたしのほうが、頭が狂いそうになった。幸せに二人で暮らしてきたはずなのに、どこかで、きっと歯車が狂ってしまったのだ。わたしが、何度も、家が欲しいって、つぶやいたからだろうか。大きな庭が欲しいって、言ってしまったからだろうか。
 隆は、わたしがそんな、夢想のようなつぶやきをするたびに、「そのうち、いつかね」と言っていた。でも、それは無理な願いだってことは、わたしだって、気づいていた。この東京で、普通の会社員に一軒家が買えるわけがない。すべてわかっていたはずだった。でも、生真面目な隆は、それをただの夢想と、とらえていなかったのかもしれない。いつか、わたしのために、叶えてあげようと、真剣に考えていたのかもしれない。
 そのわたしの、夢想が、隆を苦しめていたのかもしれない。
 わたしは隆の説得に疲れ果てて、もたれるように、寝室のベッドによりかかってしまった。夜が明けて、朝になったら、また元通りの隆になってくれるかもしれない。そう祈りながら、朝を迎えた。
 ふらふらとする足取りで、リビングへと向かった。隆は、土で覆われたリビングの端に座りこんで、壁に身を寄せ掛けていた。青いワイシャツが、土で汚れていた。その目は、きらきらと輝いたままだった。
「隆、寝てないの?」
「ああ、舞子、おはよう」
 隆はわたしのほうを眺め、眩しそうに目を細めた。もう太陽はすっかり昇って、秋の朝日をリビングに投げかけている。隆は、また昨日のように、狂ったような笑顔で、リビングを一望した。
「知ってるか?ヒマワリの種ってさあ、鳥たちの、格好の餌らしいんだよ。だから、鳥たちが、ここにやってきて、種を食べてしまわないように、ずっと、見張ってたんだよ」
 隆は、やはり元に戻ってくれてはいなかった。わたしは、失望のあまり、何もかもどうでもよくなった。土の床に、へたりこんで、頭を垂れた。手に触れる土の感触が、とても、とても冷たかった。こんなにも、冷え切った土の中で、隆は一晩を過ごしていた。精神も、体も疲れきっているに違いないのに、隆の目は、狂ったような輝きを失っていなかった。
 わたしは、どうにか立ち上がり、バスルームに行き、すっかり土まみれになった服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。混乱している頭をどうにか鎮めようと思ったけれども、シャワーの熱いお湯は、わたしをますます混乱させた。
 もう会社に行かなければならない時間だった。わたしは、手早く髪の毛を乾かすと、スーツに着替えた。化粧をしている時間はなかったけれども、それは仕方が無い。こんな状況で、隆を置いて会社に行くなんて、どうかしていると思ったけれども、普段どおり過ごすことが、少しでもわたしの頭の混乱を鎮めてくれるかもしれなかった。すっかり身支度が整い、出掛けにリビングを覗いた。隆は相変わらず、土の床を眺め続けている。
「隆、わたし、会社に行ってくるね」
 隆は答えようともしなかった。その目は、床に埋め尽くされた、決して芽の出ることのない、ヒマワリの種に注がれていた。

 午前中を普通に会社で過ごそうと思ったけれども、とても仕事にならなかった。結局、わたしの平凡な日常はすっかり崩されてしまっていて、それはもう、どうにも元に戻しようがなかった。わたしは、仕事を諦め、休暇届けを上司に提出した。しばらく休むことになるかも、と付け加えながら。
 帰り際、いつものアパートまでの道を歩いていると、学生服の若者たちが大勢目に留まった。こんな時間に帰ってくるなんて、今までなかったことだ。学生たちは、おおらかに笑い、道を占領しながら歩いてくる。
 わたしと隆に足りなかったもの、それは何だったのだろうか、そればかりを考えていた。結婚してから、問題なく過ごしてきたはずだったのに、何故こうなってしまったのだろう。学生たちの無邪気な笑い顔が、眩しかった。記憶の中にある、まだ若かったころの隆の笑顔が、頭をよぎった。あんなにも無邪気の笑うことのできた隆は、もういない。わたしたちは、あんなふうに、自然に笑うことすら、できなくなっていたのかもしれない。
 アパートの玄関まで着くと、鍵を取り出し、ドアを開けた。
「隆、ただいま」
 リビングにいたはずの隆に声をかけたのだが、返事はなかった。わたしは靴を脱ぎ、リビングへ向かった。そして、リビングのドアを開けた瞬間、色鮮やかな原色の黄色が、目に飛び込んできた。錯覚かと思い、何度も、目をこすった。
 リビングの真ん中には、大きな、大きなヒマワリの花が咲いていた。わたしの背丈ほどある太い茎と、太陽を閉じ込めたような、鮮やかな黄色い花が、誇らしげに枝葉を広げていた。
 錯覚かと思い、わたしはそのヒマワリに近づいてみた。花びらを、手にとってみた。その感触は、間違いなく自然のヒマワリのものだった。つくりものでない、生きている花の感触だった。
 わたしは、いつのまにか、声をあげて、笑っていた。そうだ、そうに違いない、確信にも似た考えが、頭の中に浮かんでいた。
 隆は、わたしを驚かせようとして、こんな舞台を仕組んだのだ。あの狂ったような笑顔も、この色鮮やかなヒマワリも、すべて、わたしを驚かすために、やったに違いない。すべて、悪戯だったのだ。隆の、大げさな、悪戯だったのだ。
 わたしは、隆を探して、家中歩き回った。きっとどこかから隠れて、驚くわたしを待ち続けているに違いない。でも隆はどこにもいなかった。寝室にも、バスルームにも、どこにも隆の姿はなかった。
 きっと、どこかへ出かけてるのだろう。わたしは単純にそう思った。買い物か何かにでかけているのだろう、と。そして、ひょっこり帰ってきて、またあの無邪気な笑顔で、わたしを抱きしめてくれるに違いないと。
 わたしは、ヒマワリの生えている、すぐそばに腰かけた。朝はひんやりとしていた土の感触が、生ぬるいものに変わっていた。すぐ頭の上には、大きなヒマワリの花が、こぼれそうな無邪気さで、咲き誇っていた。
 早く、隆が帰ってこないかなあ、と思いながら、わたしは頭上のヒマワリを仰ぎ見続けていた。