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パレスチナ評議会における
アラファト閣下教書演説
ラマラ ― 2004年8月18日

ヤーセル・アラファト


以下は、2004年11月11日に逝去したパレスチナ自治政府長官のヤーセル[ヤセル]・アラファトPLO(パレスチナ解放機構)議長が,2004年8月18日にヨルダン川西岸ラマラの長官府でパレスチナ評議会の議員らを前にして行なった、アラファト最後の演説の日本語訳である。
翻訳の元にしたのは、パレスチナ長官府による英語訳である。

英語対訳付きはこちらからどうぞ。

http://www.p-p-o.com/Eng/2004/8/18-8-04-2.jpg
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あまねく慈愛に満ち慈悲深きアラーの御名において。
信じよ。我らは汝に
明らかな勝利を約束せり:
アラーは
過去と未来の汝の罪を
お赦しになり;
その恩恵を汝に施し;
そして正しき道に
汝を導くであろう;
そしてアラーは
汝を偉大なる力で救うであろう。
サダカッラーフルアジーム(偉大なるアラーは証したまいたり)。
[1]

PLC(パレスチナ評議会)議長同志、
PLC議員同志諸君、
紳士淑女諸君、
親愛なるご来賓の皆様、
大使閣下、総領事閣下、

本日の評議会開会に臨んで、まずご挨拶を述べさせてください。そしてパレスチナ人であるかアラブ人であるか、あるいは将校であるか、戦士であるか、そして指導者であるかに関わらず、イスラエルの監獄や拘置所に囚われたり抑留されている我々の英雄のすべてに、尊敬と愛を捧げます。我々の勇敢な同志たちが忍耐と強い意志を持っていることを我々は誇りに思います。そして彼らはその痛ましい、実に痛ましい監獄の中で奮闘と闘争に現在も邁進しているのです。彼ら崇高な騎士たちへ伝えさせてください。アブ・ガレイブ刑務所もその典型であり、彼らのいる場所はこのパレスチナと変わりがありません。ハンガーストライキを続けるこれら獄中の人々に私はお伝えしたい:あなた達の同胞と、そしてあなた達のアラブ民族はあなた達と共にあります。世界中のすべての正しい、自由を愛する人々はあなた達と共にあります。あなた達の解放は我々にとって最優先事項であり最大の義務であります。パレスチナ指導部とそのすべての政党と部隊は今日、あなた達と連帯し、ハンガーストライキや大規模大衆運動を家庭で、或いは離散先で行うことを決意しました。アラーの思し召しにより、指導部はまた、あなた達を自由にすべく、あなた達が拘置所や監獄で受けている苦難に立ち向かい行動を起こすために、アラブや国際レベルにおける活動を決意しました。このアラブや国際レベルにおける活動はすでにあなた達のために始まっています。我々はこの目的のために指導部の小委員会を設置しました。アラーのご加護の下、我々は聖地エルサレム、アルクッズ・アッシャリーフ[2]とも、密接に協力していくつもりです。監獄や拘留キャンプにいる我々の最愛の人々のために、すべての労働者から一日の労働を免除する皆さんの団体協約を、ここに私は要求することを望むものであります。

我々は、パレスチナ最大の国益にこの教訓を生かすべく、この政策から教訓を得なければなりません。この我々偉大なるパレスチナ民族の活力と国民大行進の伝統は[我々が達成した勝利の長大な目録を含めて]、我々が一歩一歩そして一声一声、力強く断固たる、そして決然たる態度で熱く行進し続けるための、経験と決意の大いなる源であります。

我々は籠城の民であります。その指導部は包囲されている。しかし我々は我が民族の権利と目標をしっかりと握って離さない。それは自信と希望、そして理想への確信に満ちた、傷だらけの民だ。

それは現在進行形で人種差別主義者や残酷な侵略にさらされている民であります。しかし、それは生存、不滅、英雄的行為といった奇跡、そして「この地には並々ならぬ力を持つ民がいる」[3]とか「彼らは審判の日まで不滅である」[4]という評価を生み出してきた奇跡を歴史に刻みつけ続けてきた民であります。

同志諸君、

PNA(パレスチナ自治政府)設立の日以来、我々は長官選挙と議会選挙の運動中に主張し叫び続けてきました。我々の前途には、達成すべき国家建設計画が横たわっている。そしてそこには二つの使命がある、と。一つは歴史的使命であり、我々の土地やキリスト教・イスラム教の聖地の過酷な占領統治に終止符を打ち、聖地エルサレムを首都としたパレスチナの独立国家を樹立することです。そして二つ目は我々の偉大な独立国を建設するための土台と礎石として、PNA を設立することでした。

一つ目の使命について、我々はずっと次のように主張してきました:―

1- パレスチナ人の目標は、パレスチナ解放機構(PLO)の規約に定められているとおり、イスラエルの占領に終止符を打つことで解決される;パレスチナの独立国家は首都を聖地エルサレムとし、1967年に占めていた全領土の上に樹立される;[我々は1988年にアルジェで開催されたPNC(パレスチナ国民評議会)会議と1973年にカイロで開催されたPNC会議でこれらの決議を採択した];この神聖で祝福を受けた土地にあるキリスト教・イスラム教の聖地の保護、特にシオニスト過激派による聖アル・アクサ寺院[5]破壊の脅威に立ち向かうこと;そして国連決議に歩調を合わせてパレスチナ難民問題を解決すること。[キャンプ・デービッド[6]で我々は、レバノンで難民となっている同志の問題に着手することで合意しました。この難民の問題は、ご存知のとおり、エジプト、ヨルダン、イスラエル、そしてパレスチナの四者委員会によって論議されているところです。そして多くの難民が帰国しました]

2- 1988年アルジェのパレスチナ国民評議会[マドリッドで始まり、アラブや国際的なレベルで継続されている]で我々がPLOの政治綱領を採択して以来、我が民族は平和への道に導かれた戦略的な選択を行なっています。我々は紛争解決のための交渉の左右を委ねられ、1993年にクリントン大統領の仲介の下で、先の交渉相手であったイツハク・ラビン[7]と、ホワイトハウスでイスラエル政府との和平合意に署名することを決断しました。その交渉はマドリッド、ワシントン、オスロで始まり、そしてカイロやここ我が国で継続されています。

3- 平和のために我々が歴史的和解という勇気ある選択を行なったとき、我々はパレスチナの独立国家樹立に向けて、イスラエルと協力して努力していくのが正しいと主張しました。そして最初から、我々は責任ある行動を取るようイスラエルに求めてきました。特に入植地における、我々の国家創設の実現を阻害する行為に対して、我々は警告を発してきました。イツハク・ラビンは私の先の交渉相手でありますが、私が彼と結んだ合意の一文をどうか思い出してみてください。彼は言いました。新しい入植地は作らない。どの入植地にも新しい家は建てない。どの入植地の防護壁も端の家から50メートル離す。これらの入植地は1998年くらいまでには撤去されるはずでした。ところが昨日なってもまだ、彼らは新たに1,115の住居を建設中であるなどと発表したりしているのです。

最近の数年間にわたって、我々はイスラエル側と、特にその平和主義者と、ゴールの見えないマラソンのような交渉に踏み込んでいました。我々は(イスラエル)政府やイデオロギーの悪い変化に我慢しなければなりませんでした。しかし、我々の権利を強硬に固守し続ける間、我々は何年にもわたって慎重な交渉を維持し、そして戦士の和解を維持するのに注意を払いました。我々は調印された合意の履行とそれぞれが背負う義務の履行の要求をモットーに掲げていました。これが、その真っ暗闇で最悪な状況の中で我々がやってきたことであり、我々は絶えず国際社会の役割と和平プロセスへの協力を訴えてきました。平和はパレスチナとイスラエルだけの問題などではなく、地域全体、そして世界全体の問題であると、我々は常に主張してきたのです。

この間ずっと、我々はすべてのドアをノックし続けました。我々は希望の灯火をたとえ一条でも探し求めた。我々は可能な限りのあらゆる提案、企画、計画、或いは構想を研究し、検討しました。我々は、我が国の最大の国益と我が民族の汎アラブ的利益に従い、心からそれらの案に取り組みました。

ここ数年の間に、国連やアメリカ合衆国、そしてイスラエルの元職員と現職員による宣誓証言が作成されました。それは、平和が訪れるということや、地域全体に恒久的かつ包括的な平和を樹立するという我が民族の希望を実現するということを、少しでも期待させるようないかなる機会も我々は無駄にはしなかったと証明してくれました。

にもかかわらず、一方で、イスラエル政府、特に現政権の掲げる基本的なスローガンは:聖事(独立)が約束された日など存在しない。優先事項はイスラエルの安全である、ということでした。ユダヤ過激派分子の手による、我々の交渉相手イツハク・ラビンの暗殺は、イスラエルの政治劇場におけるクーデターであり、原理主義隆盛の幕開けでありました。イスラエル政府は和平プロセスの本質を否定し、我々と和平実現のために協力するのを拒否し始めています。その平和は、戦士の平和、そしてイスラエルと共存するパレスチナ国家建設という目的を持ち、それは我々、彼ら、そしてこの地域や世界中のすべての人々に新しい未来をもたらすものだというのに。

和平プロセスを破壊しようとする企ての最も露骨な象徴は、我々の土地で現在進行中の入植運動でありましょう。それはベルリンの壁にも喩えられる人種差別の壁の建設計画によって頂点に達しました。その壁は、聖地エルサレムを含む我々の土地の58%を収奪し、それをイスラエルに併合し、パレスチナ人の地理的人口学的一体性の分断を狙っています。そして我が民族を難民に変え、残りのパレスチナ人を包囲下に置き、入植地や壁に囲まれた小郡や刑務所に押し込め、パレスチナ国家建設のあらゆる機会を奪うことを目論んでいるのです。

我が民族はこの植民地支配的な入植運動や土地の収奪、そして聖アル・アクサ寺院に対する攻撃や現在我々がさらされている深刻な[私ではなくイスラエルの内務大臣によって表明されたような]脅威に抵抗して立ち上がりましたが、イスラエルは我々パレスチナ民族とその権利、土地、そしてキリスト教とイスラム教の聖地に対する全面戦争の構想を押し進めました。我が民族の国民的目標と権利の抹殺を企図して、我々PNAの壊滅を目論んだガザ地区[8]の一部とウエスト・バンク[9]の再占領はこの戦争のクライマックスでありました。イスラエルは全アラブおよび国際的解決を拒絶し、キャンプ・デービッド、シャルム・エル・シェイク[10]、パリ、タバ[11]における努力、テネット提案[12]、ミッチェル報告[13]、四者会合[14]の努力を拒絶しました。そして我々が受け入れ、アラブ諸国がアラブ首脳会議で受け入れ、そしてイスラエル自身が本文よりも長い留保条件を付け加えたロードマップ[15]を拒絶しました。

イスラエルは砲爆撃、襲撃、侵入、暗殺、そして拘留を行い続けました;包囲や検問所を強化し、我々が作り上げたインフラ(基幹)施設の破壊を続けました。イスラエルは我々の畑地、農場、そして工場を標的にし、そのために我々パレスチナ民族の成果を破壊し、貧困や飢餓へと追いやるための凶悪な運動を盛んに展開しました。イスラエルは我々の町や都市、難民キャンプや村々を破壊し続けました。例えば、ジェニン[16]やナブルス[17]やその旧市街;ベイト・ハヌーン[18]、ラファ[19]、カルキリア[20]、そしてトゥルカレム[21];そしてヘブロン[22]では、特に聖アル・イブラヒミ寺院での事件[23]、そしてイブラヒミ寺院のキリヤット・アルバア地区[24]に入植地を作るために起こされた、市街にある「キリスト教徒の谷」の歴史的な古代家屋の破壊、そしてまたウエスト・バンクやガザ地区、その他の町や村々の我々の難民キャンプでの出来事……。そうした行為によって、イスラエルは我々の、聖地との永遠の絆を損なわせようと画策しているのです。

さらに、この凶悪な運動では、キリスト教・イスラム教の我々の聖地が標的とされました。その運動は、ナブルス、ヘブロン、そしてベツレヘム[25]に代表される我々の旧市街が備えている、その正統な歴史、文明の遺跡、そして人間の創造性に見られるあらゆる価値に対して危害を加えることに傾注されたのです。(ベツレヘムの)キリスト生誕教会とエルサレムの聖墳墓教会を結ぶ神聖な道は人種差別の壁によって封鎖されました。国際的に禁止されている兵器も使用されました。例えば、アメリカ人やオランダ人の報告により立証された劣化ウランの使用は、癌疾病を深刻にし、不妊率を上昇させています。また、国際的に禁止されているダムダム弾がナビル・アムル[26]銃撃で使用されていました。この全てが日々、いやそれどころか時々刻々に発生しているのです。我が民族は何千もの殉教者或いは負傷者という代償を払っており、そのある者は路傍に、或いは安全なはずの家庭で、或いはイスラエルの検問所に斃れているのです。そしてこれが、全世界がテレビスクリーンを通して、或いは世界中の平和主義団体の代表団、またはその他公式な代表団の派遣を通して知る、現実なのです。

このイスラエルの攻撃的な運動は、我々の治安部隊やその組織の拠点や司令部、同じく省庁、公共機関を破壊し、また我々の行政、立法、司法機関を機能停止に追い込むべくその殺人的な包囲網を引き締めることに集中していきました。

イスラエルによる占領の目的は、過去現在を通じて、PNAを弱体化、いやありていに申せば、PNAを壊滅させることなのです。そして、「パレスチナには、交渉の相手となる者が存在しない」と言い張るために、そこに空白状態を作り出し、聖地における我が民族の確固たる権利を弱体化させることを狙うシオニストの陰謀を成功させようとしているのです。彼らは、パレスチナには交渉の相手が存在いない、と言い張る。しかし、我々とワイ・リバー[27]合意に署名したのはいったい誰ですか? それはネタニヤフやシャロン、彼ら自身ではありませんか。パリ合意に署名したのは誰ですか? ワシントンは? オスロは? 彼らが交渉相手を知らないわけがないではありませんか? それとも彼らが会ったのはただの幽霊だったとでも言うのですか?

この全ては、我々の民族闘争を汚し、それをテロリズムに結びつけることによって、我々を導く信念と人道的意図を害しようとする卑劣な運動と軌を一にしていたのです。

我々は2001年にニューヨークとワシントンで行われた野蛮な攻撃[28]を真っ先に非難しました。我々は、我々が強硬に拒絶し激しく非難するこれらの行為を行う際に、パレスチナの大義をその言い訳にしたり慈悲深いイスラムの教義を自らの隠れ蓑にするあらゆる企てに加担しないよう、あらゆる党派にはっきりと忠告してきました。我々はイスラエルの国家テロやイスラエル与党シオニスト過激派のテロによる犠牲を強いられており、我々は我々の生得権、信念、そして価値観に基づいて行動しているのです。我々は自由と平和を願う大いなる志と我が民族闘争の有機的結合を絶えず主張し続けてきたのです。

ハーグの国際司法裁判所(ICJ)[29]における、人種差別の壁について係争した裁判の冷静な判決や、ICJ判決の支持を圧倒的な賛成多数で採択した国連総会の決議は、世界はイスラエルのキャンペーンには欺かれなかった、という事実を毅然とした態度で立証しました。最高の国際法廷と最高の国際会議が、イスラエル政府が隠蔽しようと画策した真相、すなわちイスラエルの占領地拡張政策は、パレスチナ民族がその正当な権利と自由を回復し、世界中の他の全ての民族と同じようにその独立国家を樹立するために、終止符を打たれるべきものであるという真相を明らかにしたのです。我々は今、世界で唯一占領下に置かれている民族なのです。

同志諸君、

全ての起きてしまったこと、そして今なお起きていることに屈することなく、そして現在進行中の侵略にも屈することなく、さらに一度ならず破壊されたこのムカタア[30]で我が民族そして我々が苦しみながらも持ちこたえているこの包囲にも屈することなく、そうその全てに屈することなく、私はあらためて再び諸君らに断言したい。我々の権利は断固として死守されるであろうということを、そしてイスラエルとの和平を選択した我々の信念は、イスラエルの平和主義者の信念と同様に、今なお強固に存在しているのだということを。

この点については、親愛なる同志諸君、そしてPLC議員同志諸君、諸君らを目の前にして、そして全世界を前にして、もう一度重ねて言わせてください。この、世界で最後に残された占領地を解放するための苦闘を盛んに続けているパレスチナ民族は、その平和を掴み、そして占領に終止符を打ち、聖地エルサレムを首都とするパレスチナの独立国家を建設するために、和平の道を邁進する決意を固くしているのです。

和平選択の決意を我々が固く抱いていることを、パレスチナの指導部と人々を代表して、私はもう一度強調したいと思います。そして私は、署名された合意、その最後のものはロードマップでありますが、それらの履行についての我々の決心を強調したいと思います。そして同様に、我々が合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュのヴィジョン[31]や、ベイルート首脳会議で採択されチュニス首脳会議で再確認された、国際法による裁決や決議に則った交渉による紛争の解決を示したアラブ和平提案[32]に対する我々の支持を強調したいと思います。

ここで私にもう一度強調させてください。パレスチナは断固として、パレスチナやイスラエルの民間人を標的とする全ての軍事行動を非難し拒絶する立場を取ります。それは我々の信念、価値観、信条、生得権、そして我が民族の最大の国益から生じる拒絶であります。これらの軍事行動は、イスラエルに彼らの我が民族に対する攻撃をエスカレートさせる口実を与え、また政治的或いは情報レベルにおいて、独立国家の樹立という我々の目標と我々の民族闘争を誹謗中傷しようとする企てに役に立つ武器を、彼らに供給してしまうのだ、ということを我々は繰り返し警告してきました。

人種差別の壁の建設に対する抵抗を通して、我が民族は世界の支持と共感を得た勇敢な民族抵抗運動の模範となりました。その模範とは、民族闘争というるつぼの中で、我が民族のエネルギーをことごとく柔軟な性質に変革していくために強化されねばならないものであります。

ここから、私はイスラエル政府に呼びかけ、そして話しかけたいと思います:もう、たくさんです。平和に機会を与えようではありませんか。ただちに、交渉のテーブルに戻りましょう。合意を履行し、最終的な和解へと至るために。私はイスラエルにいる我々の同胞たち:その権利を断固として死守し、同じく断固として平和を死守するパレスチナ民族に話しかけたいと思います。今すぐ流血と破壊をやめようではありませんか。来るべき世代のために、そして地域全体のために、安全と安定、そして繁栄をもたらす平和を共に築いてゆこうではありませんか。

ここから、私は同様に四者会合のみなさんにも、我が民族に対するイスラエルの攻撃と占領を停止し、そしてこの地域の和平交渉の即時再開にとって適切な環境を整えるのに必要なロードマップの履行を開始するための審議決定をお願いしたいと思います。

私はここで、イスラエル政府のガザ地区からの撤退計画に関する報告について指摘したいと思います。我々は、イスラエルが公表された趣旨と矛盾して広範囲にわたる破壊活動を当地で繰り返しているのを目にしています。さらに我々は、イスラエルが撤退した占領地域のどの場所でもその全ての責任を果たし、パレスチナ民族の主権を拡大するための、PNAの準備がすでに整っていることを強調したいと思います。

我々は、ガザ地区からのいかなる撤退も、祖国の両翼の地理的連続や人口学的および政治学的一体性が維持されるように、ウエスト・バンクの別の撤退と並行して行われるべきであると信じています。そして、1967年に占めていたパレスチナ領の全てからの撤退を実現し、イスラエルと並存するパレスチナ国家を樹立するために、この撤退はまたガザ地区において完全かつ包括的であるべきで、ロードマップの履行の一環であるべきなのです。

この点について私は、祝福を受けたるホスニ・ムバラク大統領とエジプト・アラブ共和国の同胞のみなさんの、その姿勢と努力に対して我々の感謝の意を表したいと思います。彼らは我が民族を支持し和平プロセスを再開するための真の努力を終始一貫して続けてくれました。我々は彼らの意見や努力のすべてに積極的に反応してきました。私はここで、同じくアラブ諸国、特にサウジアラビア王国の同胞のみなさんの、その姿勢にも触れさせていただきたいと思います。彼らはたゆまず我々の運動を支持し、我が民族、非常に困難な時を過ごしていた我が民族に金銭的援助を与え続けてくれました。そして私は、チュニジア、ヨルダン、シリアの同胞のみなさん、そして南はイエメンそしてスーダンから、東はオマーンそしてイラクまでの他のアラブ同胞のみなさんの姿勢にも重ねて感謝を申し上げたいと思います。さらに、ラテンアメリカ、日本、中国、イスラム諸国、アフリカ、そして非同盟諸国の首脳の方々の姿勢にも触れさせていただきたいと思います。我々はまた、ヨーロッパ、ロシア、国連のみなさんの姿勢、そして同様に、イスラエルと並存するパレスチナ国家を樹立をするという、ブッシュ大統領の決断にも感謝を申し述べたいと思います。

同志諸君、

我が民族と組織が10年前のPNA設立以来実現しようと自ら担ってきた国家建設計画のもう一方のパートについて話を移すとしましょう。その我々の目標はかつて、そして今でも、国家の建設のために適切な組織を設置することであると言えるでしょう。その組織とはすなわち、我が民族の能力、手腕、大志、そして希望や犠牲にふさわしい革新的なモデルを提供することができる組織であります。

我々の目標はかつて、そして今でも、我々が離散し或いは祖国にあって占領に対する民族抵抗や革命に費やした年月に築き上げた夢を実現することであります。それはパレスチナを、その発展や民族の創造性、そして我が民族やアラブ民族がこの地域や世界全体の進歩に対して文明的な貢献を続けていくであろうことを確信させるミナレット(光塔)となるべき民主主義に誇りを持つことができる国家として復活させるという夢です。

この(PNA設立という)使命は一つ目の、すなわち先に申し述べました(国家樹立という)使命に干渉し影響を与えてきました。占領、包囲、そして破壊といったイスラエルの政策は否定的に、そして破壊的なやり方で、我々の全ての努力に反応しました。我々はPNA設立に関して、その妨害、障害、そしてその前提条件に屈することなく、荒廃、破壊、収奪といった占領政策や入植地の建設、そしてあらゆる種類の人種差別政策によって荒された祖国の包括的建設プロセスをゼロからスタートしたのです。

過去数年にわたって、我々は建設を開始し、瓦礫を撤去し始めました。我々は再建をスタートしたのです。学校の建設や教育の発展の水準において;様々な地域で、新しい病院を建設したり、古い病院を開発したり、その設備を近代化したり、新しい診療所を何十軒も開設するといったような健康の水準において;道を開き、それを舗装し、上下水道網を建設すること、そして住宅計画、工業地帯といったような基幹設備の水準において成果があがりました。それらは我が民族とその組織の能力や我々が達成した仕事の実例であります。

我々は民間セクターの活動に対しまして、門戸開放政策を採用しました。我々は公共セクターの役割を上回る分野から開放を始めてきました。この政策は我々の経済の大きな原動力である民間セクターの役割に力を与えてきました。[我が民族はこの建設プロセスに参加するためにチリ、オーストラリアといったような遠い場所から集まってきています。]民間セクターは通信や電力のような重要な経済部門において、基幹となるパートナーであります。それはご存知のように数年前から運用が開始された、ガザの港湾や空港のような大きな事業にとって核となったものであります。我々は国営産業の発展と成長のために必要なすべての条件を満たしていました。我々は特に、ベツレヘムにおける主イエス・キリスト生誕2000年と主の御名の下における平和を祝う祭典の期間において、建設および観光部門の大躍進を証明しました。[これらの祭典では、28人の国家元首および政府首脳が参加しました。我々は初めて13の教会を結び合わせることができました。これは歴史的快挙でした。]我々の経済は新しい成長率を達成したのです。このような快挙の多くは何年も前から、イスラエルの砲撃と空爆の標的となっており、そのほとんどが壊滅的な破壊を被っております。

同志諸君、

一連のイスラエルの侵攻は、政府本部を包囲・破壊することによってPNAの壊滅を目論んでいるものです。ウエスト・バンクの再占領とガザ地区への侵略継続が多くの場所で安全の空白地帯を生み出し、結果として我々の部隊や組織が任務を遂行するのを禁止し、その司令部や施設、車両を破壊することでこれらの部隊や組織に大混乱を引き起こしているのです。

占領者たちが彼らの陰謀を実行するために作ろうとしたこの空白は、安全の混乱状態を作り出しパレスチナ市民を危険に陥れ、そういった無法状態の原因となりました。

このような状況を作った占領政策の重大かつ重要な犯罪責任に、我々は我を忘れて、このような状況に終止符を打ち、市民や施設を脅かすいかなる犯罪も根絶するために何ができ、何を使えるのか、ということまで忘れてしまうべきではありません。すべての無法な手段は中止されなければなりません。なぜならそれらはイスラエル政府に侵攻の範囲を拡大しパレスチナ市民の財産により多くの損害や破壊を引き起こすための口実を与えてしまうからです。PLOおよびPNAの組織や機関によって明示されているように、すべての者は国家の決断と最大の国益に従って行動しなければならないのです。

同志諸君、

我が英雄的、不滅の民族の息子たちよ、娘たちよ。

PNAが前進する間に達成された業績を我々が指摘するとき;イスラエルの占領軍によって演じられる破壊的役割や議事妨害者としての役回りを我々が強調するとき;いつも建設の最初や初期段階に伴って起こされる間違いを我々が指摘するとき;特に計画的なイスラエルの占領、入植地の建設そして破壊、さらに40ヶ月以上にわたる我々の税歳入の差し押さえの結果、我々の実行力に現れてくる間違いや短所の根源を我々が指摘するとき、我々は我が民族と率直に話し合う必要があり、我々は我々自身に誠実である必要があります。[我々はここで数十億ドルの話をしているのです。イスラエルによって凍結された税歳入による平均月間収入は7000万USドルです。合意ではイスラエルが3%のサービス税をとり、97%が我々に渡される取り決めです。ということでもう答えは計算できるでしょう]我々はその全てに屈することなく、これらの欠点や短所を急いで改め、正し、そして直さなければなりません。然り、これら誤った憎むべき活動がいくつかの組織によって行われていました。一部の人はその地位を誤用し、その職務に忠実ではありませんでした。組織を建て直すためのプロセスがなされるべきときに成し遂げられませんでした。法の支配と司法制度の活性化を促進し、説明責任の原則を尊重することに、十分な努力が尽くされませんでした。我々は今や、これらすべての短所の対処を開始しました。

我が民族の要求に端を発するパレスチナの国家的使命として我々が改革計画に着手した2002年6月に、私が諸君らに話したことを覚えているでしょう。威厳溢れるPLCにおいて、諸君らは希望する改革を列挙した詳細な文書を採択しました。そしてその改革のために首尾一貫した行政がそこで掲げられた条項の多くに取り組み、実行しました。この二年間の足跡を振り返り、我々は世界銀行、国際通貨基金(IMF)、そしてドナー・コミュニティ[33]の証言に喜んで言及したい。彼らのすべては財政改革の成果を賞賛してくれました。彼らは我が国の財務管理と国家予算や公債の運用を地域でも最良の状態にあると考えてくれました。多くの問題を改め、健全な規則を強化するために、同志サラーム・ファイヤード博士[34]によってなされたこれらの前進は、我が国の公債の運用における透明性と効率に自信をもたらしました。

ここで私は、閣僚のナーイム・アブ・フムス[35]とその同志達による学習と教育のレベルにおける偉大な成果を指摘したいと思います。それは学校と大学におけるものでありますが、他の分野と同様に、我々の厳しい環境と我々の直面する挑戦、特にこの人種差別的な耐え難い占領に屈しないものであり、我々は地域全体において誇りと思えるものであります。

また別のレベルにおいては、私が我が同志にして戦友アブ・マーゼン[36] ――[彼に会ったらどうかよろしくお伝えください]―― に昨年、政府の組織を依頼したとき、創成期にあり包囲攻撃にさらされている我々の民主主義システムの正常なる成長の象徴として、首相職が創設されました。この象徴は三権分立を明示し、機関活動のダイナミズムを強化するものであります。

とは言え、成果は未だ不十分であります。我々の前途には、なすべき仕事が山ほどあります。したがって私は、包括的改革のための研究委員会、すなわち我が政府の仕事をあらゆる角度から取り組む研究委員会、そして継続する占領、包囲、攻撃の下で達成され得るすべてのことを、周到な行動計画によって、達成しようと努める研究委員会を、ともに今日立ち上げるよう、諸君らに公式に要請したいと思う。

この包括的な改革研究委員会は以下の三つの機軸を中心としています。

1:政治レベル

離散先でパレスチナ革命が続く間、我々は「銃のジャングルに民主主義を」のスローガンを掲げていました。我々はPLOの下に、全ての党派や勢力が参加してパレスチナ民族の意思決定を行う代議機関を作り上げました。しかしこのPLOの機関が体現する革命的合法性に対して、我々はPNAを設立した際に不満を感じました。我々は、選挙と民主主義の原則を尊重し、そして政府の改造を重視するために、投票箱を採用することによって民主的合法性を獲得する決心をしたのです。我々はこれを誇りとしています。

我々は国家体制を建設するに当たって、我々すべてのパレスチナ組織による政治的多元主義(複数政党制)や、表現の自由、そして法の範囲内における政治活動の自由を保証する民主主義の原則に則って、我が民族の故郷のすべてにおいて、政治システムを刷新しなければなりません。

すなわち、この点に関して必要なだけの法を制定し、我が国の民主主義の発展を保証する活動を監視することが、我々にとって必要不可欠となったのです。このすべてにおける柱は、選挙の原則を尊重することであります。PNAは長官選挙、評議員選挙、および地方選挙を開催するために、これらの必要条件を満たすべく行動してきました(これらの選挙は2003年1月20日に行われることになっていました。そして前の交渉相手イツハク・ラビンと合意したとおり、これらは1999年にパレスチナ国家の下ですでに行われているはずだったのです)。イスラエルの占領軍が、その侵略や、侵攻、そして進駐によって、これらの選挙の実現を公然と妨害しようとしているのは言うまでもありません。

これらのどれもが我々の決意をくじくものではあってはいけません。それどころか、我々は長官、評議員、首長、および組織レベルのすべてにおいて、これらの選挙を開催するためになすべきことを絶えず続けていかなければなりません。我々は以前の選挙で発せられたような、我が民族の発言の場を作ることをイスラエルに強いるため、影響力のある国際団体との接触を増やしていかなければなりません。我々はそういう(ジャマル・ショバキ[37]地方自治相が要求するような地方選挙の)条件が満たされた地方選挙から始める必要があります。すべての連盟、団体、市民連合は奮起して選挙に当たるべきです。パレスチナの女性を差別してはいけません。制限を加えてもいけません。女性たちに正当な権利を与えましょう。女性は人口の54%を占めています。PNCには彼女たちの場所があります。彼女たちはすべての我々の組織において、正当な地位を占めるべきです。

我々はすべてのレベルにおいて選挙を開催しようと奮闘しているところです。民主主義の実践を深めるために、我が民族が声を上げる場を開くために、我が民族の代表者を選ぶために、我が民族が支持する公約に対してその信任票を投じるために、若い世代に我が民族に貢献する機会を手にさせるべくその門戸を広く開放するために。

この点に関して、私はすべての部隊、党派や勢力に対して、自らこのプロセスに参加してくれるようお願いしたい。法を尊守する限り無条件で、門戸は彼らの政治的、国民的、そして組織的活動のために開放されています。というのも、それがPNAおよびその公約の尊重と政府の一体性という枠組みの中にあり、PLOやPNAの機関によって明示されているように、我が民族の最大の国益を守るという国民の総意を公式化する事業に由来しているからであります。ご存知のとおり、我々は全国および離散先のすべての部隊、党派と共に素晴しいスタートを切ることが出来ました。我々はイスラエルに、侵攻を継続するためのいかなる口実も与えることがないよう、最大限の注意を払わねばなりません。我々は我が民族の権利を手に入れるための我々の民族闘争と抵抗運動に積極的な人間像を示そうとしなければなりません。この点において我々は、挑戦に立ち向かって、民族の結束を強めるため、すべてのパレスチナ勢力と共に効果的な前進をし続けなければならないのです。我々はこの分野において我々と共にあるすべてのアラブ民族の協力に感謝いたします。

2:安全のレベルと法の支配

わかりきったことではありますが、イスラエルの占領と侵攻が続く中では、安全を総合的に確保することは不可能であり、殊にイスラエル人たちはそのような安全を我々に確保させないように、様々な形や手段で妨害を続けています。我々はしかしながら、我が民族に最高レベルの安全を確保するために熱意や努力を注ぐのをこのようなことで諦めるべきではありません。

最近、専門の治安機関を特に警察隊の中などに設立することに着手しようという安全計画が、国家安全保障会議と閣議にて採択されました。我々はそれを成功させるべく、彼らに必要なものをすべて与えようと努力しているところです。四者会合の主催で、我々はこの問題に関して何度か折衝を行ってきました。内務大臣は警察隊の責任者として、一連の転属と任命を行ってきました。私は治安機関の任務の遂行が効果的で規律あるものになるように必要なすべての法を制定するよう皆さんに要請します。そうすれば、彼らはPNAの威信を回復し、法を施行し、あらゆる者から市民の安全を守るという彼らの任務を果たすことができるでしょう。

治安機関の統合という決定や、彼らの再編成や再訓練は、安全の混乱に終止符を打ち、市民の日常生活に安全を確保するという彼らの任務遂行の備えとなることを目的としています。我々は皆、いかなる間違った行いも正し、修正するために共に行動しなければなりません。市民の安全や基本的権利を危険に陥れる問題や地位の搾取に見落としは許されません。法を破ること、あるいは市民の安全を脅かすこと、あるいは市民や国家の財産に対するあらゆる攻撃、そしてすべての武装デモやその他すべての違法行為に酌量の余地はありません。この点に関しては、評議会によるすべての勧告を斟酌すべきです。またこれに関して我々は常に、法の支配を強化することに専念しなければなりません。関連する活動においてそれこそが根幹となる柱であります。

この二年間にわたって、我々は司法機関や法廷をその独立性と能力の強化を図るために改革のステップを踏んでまいりました。我々の前途には講じられるべき多くのステップが横たわっており、PNA長官から一般市民に至るすべての者に適用されるべき法によってもたらされる安全の傘の存在を市民が実感できるように、それは強化されそして完遂されなければなりません。すべての者は法の統治下にあり、そして法は我々の治安機関によってのみ、施行され護持されるべきであります。親愛なる同志アブ・アラア[38]よ、私はあらゆる助力を惜しまないことを約束します。そしてこの点に関して、我が民族と我々すべての公共機関の助力があなたの内閣の活動のために捧げられることを約束します。

3:行政および財務改革のレベル

このレベルにおける成果は、ここ数年にわたって、高度の透明性と統制、および説明責任、同時に我々の内閣と組織における幹部の再評価を発展の意図や機会均等および公正の原則の達成を伴って実現するべく、より多くを成し遂げるための確固たる基盤を提供しています。

この点に関して、財務および行政の統制のために必要な法や、不法な営利を回収する法、およびこの問題に関して必要な法的枠組みを提供するだろうと皆さんが考えるその他の法をすべて完成するように、私は皆さんの偉大なる評議会に熱望します。私は皆さんの評議会と総合的に協力していくことを約束します。私に責任を担うよう欲し、この問題に関して個人的に、あるいは委員会で、あるいはこの評議会のような会議において私と議論しようと思えば、私にそのための準備ができていることがわかるでしょう。

同様に、私は行政あるいは財務における不当行為に付随するいかなる問題も徹底的に追及する必要性を再び主張したいと思います。これらはただちに弁護士に委ねられるべきです―弁護士は通常通り徹底追及を指示されるでしょう。我々はこの点に関して、容赦も酌量もしないでしょう。

同志諸君、

この包括的改革について語るとき、我々は我が民族に対していかなる選り好みも致しません。彼らに安全や、法の支配の強化、公債の管理の健全な運用を提供することは、満たされるべき権利なのです。

我々はいかなる選り好みも致しません。これらは獲得されるべき権利であり、果たされるべき公約であります。と言うのも、我々はそれらを成し遂げるべく選挙で選ばれたのですから。首尾一貫した行政は、それらの施行のために準備された計画に基づいて、皆さんのそして我々の人民の信任投票を勝ち取ったのです。

我々は我が民族の苦難を和らげる使命を我々の行動計画の一番上に掲げなければなりません。我々は我々のすべての活力を結集し、我々が切り抜けてきたすさまじい経済危機を軽減するために可能なすべての援助を我々に提供してくれる世界の国々と接触していかなければなりません。私は我がアラブ同胞に対し、パレスチナ民族を支持するというアラブ首脳会議の決定と決議を履行し続けてくれるよう要請します。そして私は我々を絶えず援助してくれる兄弟国や友好国、特にEU、日本、中国、そして世界中の兄弟と友人の、その様々なレベルの継続援助に、すなわち我々の治安将校や幹部官僚の養成や助言の提供に、或いは経験を学び得るために派遣された我々の代表団の受け入れに対して、感謝の意を申し上げます。

同志諸君、

我々は包括的改革のための研究委員会の立ち上げを訴える一方、我々の組織間の協調を強化しなければなりません。私はここに、我が同志にして戦友アブ・アラアに対する私の信頼と、これらすべての分野における彼の内閣の業務に対する私の総合的な助力を、もう一度、再び強調致します。同様に、私はPLCにおける皆さんの努力や、我々が我々の政治生命、経験そして民主主義における礎石であると考えている、皆さんによる監視と統制および立法府の果たす役割に賛辞と感謝をお伝えします。

最後に我々は、我が民族を決起させ自由なパレスチナをよみがえらせようとその命を投げ打った英雄的殉教者を忘れないと同時に、そして何年もの獄中闘争における日々を新しい叙事詩としてきた我々の英雄、虜囚、拘留者にもう一度敬意を表します。そして私はお伝えしたい。我が民族に、抵抗の我が民族に、この民族、すなわち並々ならぬ強さを持つ民族に、審判の日まで不屈である民族に、その権利と夢をしっかりと握り締める民族に、数々の陰謀、第一のそして第二のサイクス・ピコの陰謀[39]に立ち向かうための鋭い洞察力を持つ民族に、我が民族に私は言います。我々がいつもしているように、確信を持って、我々の道を歩んでゆこうではありませんか。夜明けは必ず来ます。自由の日はきっと訪れます。

少年(仔)と少女(花)[40]がパレスチナの国旗をエルサレムのミナレット(モスクの光塔)とエルサレムの教会の一番上に高く掲げるその日が来るまで、我々は一緒に、そして並んで、歩んでいきましょう。人はそれを届かないゴールだと見なしている。我々はそのゴールをすぐ目の前に見ています。

我らは、疑いもなく確かに、
我らの使徒たちと
信仰する者たちを助けるであろう。
現世の生活において(も)
また証人たちが
進み出るあろう
その日において(も)
[41]

そして我らは望んだ。
この地で虐げられている者たちに対して
慈悲深くあることを。
彼らをして(信仰の)指導者とすることを。
そして彼らをして後継者とすることを……
[42]

そして彼らは前回と同じように
汝らのモスクに侵入し、
そしてすべては彼らによって
踏みにじられ壊滅に帰した。
[43]

(これは)アラーの約束である。
アラーはけっしてその約束を
違えられることはない。
[44]


【訳注】

[1] 聖クルアーン[コーラン]第48章1-3節
http://www.isuramu.net/kuruan/48.html

[2] Al-Quds はエルサレムのアラブ名。Ash-Sharif はユダヤ名「神殿の丘」と呼ばれる聖域。

[3] 聖クルアーン第5章22節
http://www.isuramu.net/kuruan/5.html#22

[4] これも聖クルアーン?

[5] Al Aqsa Mosque メッカ、メディナに次ぐイスラム第三の聖地。エルサレム旧市街の丘ハラム・アッシャリーフにあるイスラム寺院。古代イスラエルの神殿跡に建設されていて、一部の狂信的シオニスト過激派が寺院の破壊と神殿再建を唱えている。

[6] Camp David アメリカ合衆国メリーランド州にある大統領専用の公設の別荘兼避難所。諸外国の多くの要人もここで歓待されている。1979年にはイスラエル・エジプト中東和平条約(Camp David Accords)が締結された。

[7] Yitzhak Rabin 1974-1977年の間、イスラエル首相。1984-1990年の間、国防相。1992年に再び、首相となる。パレスチナ・ヨルダンとの和平に尽力し、ヤーセル・アラファト、シモン・ペレス(イスラエル外相)と共にノーベル平和賞受賞。1995年、シオニスト過激派の凶弾に斃れる。

[8] Gaza Strip 地中海沿岸のイスラエル西部の幅 5km、長さ40km の地域。パレスチナ自治区。
http://www.geocities.com/inazuma_jp/palestine.htm

[9] West Bank エルサレムの東側に広がる、ヨルダン川西岸地区。第1次中東戦争でヨルダン領、第3次中東戦争でイスラエル領となる。パレスチナ自治区。
http://www.geocities.com/inazuma_jp/palestine.htm

[10] Sharm Esh-Sheikh エジプト、シナイ半島南部の都市。1999年9月4日、イスラエル・パレスチナ間で合意が達成される。本合意は、2000年9月までの最終的地位合意を目指しワイ・リバー合意実施のスケジュールを定めており、和平プロセスを再度活性化させるものとして評価されている。

[11] Taba エジプト、シナイ半島南部の都市。

[12] George Tenet-Understandings ミッチェル報告の執行状況を視察するために2001年6月にパレスチナに派遣されたCIA長官ジョージ・テネットの報告に基づく和平案。シャロン首相に攻撃停止を提案。

[13] Mitchell Report シャルム・エル・シェイクでの停戦合意の執行状況を視察するために、2000年11月にパレスチナに派遣された元米国上院議員ジョージ・ミッチェルを代表とする訪問団の報告。パレスチナ側に自爆攻撃停止、イスラエル側に2000年9月のアル・アクサ事件以前の境界線までの撤退を提案。

[14] the Quartet カルテット。国連、EU、ロシア、アメリカの四者による中東和平会議。ロードマップ(次項参照)の策定、提案、折衝など、中東和平の意思決定に深く関与している。2004年2月、PNAのシャアス外相とファイヤード財務相が来日、日パレスチナ閣僚級政治協議にて、日本が「Quartet(四者会合)」に参加し「Quintet(五者会合)」となることに対する期待が表明された(日本側は川口外相)。

[15] Road Map オスロ合意が2000年に破綻したのを受けて、2003年4月に米国のブッシュ大統領を中心にEU、国連、ロシアにより共同で提案された和平案。第一段階(双方の停戦とパレスチナ側での選挙の実施)、第二段階(2003年12月までに暫定的な国境線を持ったパレスチナ国家の樹立)、第三段階(2005年までにエレサレム問題、入植地問題、国境等の問題の合意)からなる。

[16] Jenin ウエスト・バンク北端の町。2002年4月、イスラエル軍が難民キャンプに侵攻し、パレスチナ側に約50名、イスラエル側に20名以上の犠牲者が出たとされている。しかし、実際のパレスチナ側の犠牲者は民間人500名以上とも言われる。イスラエル軍が犠牲者の遺体とその真相を瓦礫の下に埋めてしまった。

[17] Nablus ウエスト・バンク北部の町。パレスチナで最大の都市。

[18] Beit Hanoun ガザ地区北部の人口35,000人の村。

[19] Rafah ガザ地区の最南端、エジプトとの国境に位置する人口約 14万人の町。

[20] Qalquilia ウエスト・バンク西部の町。テルアビブに近い。市街地全体をイスラエルが建設した壁に包囲されている。

[21] Tulkarem ウエスト・バンク西部の町。市街地全体をイスラエルが建設した壁に包囲されつつある。

[22] Hebron ウエスト・バンク南部の町。ユダヤ人やアラブ人の始祖であるアブラハムの墓・マクペラの洞窟の上にイブラヒム寺院があり、この寺院を巡る争いが続いている。

[23] ゴールドシュタイン事件 1994年2月、ヘブロンのイブラヒム寺院で、シオニスト原理主義組織カハのメンバー、ゴールドシュタイン医師が礼拝中のパレスチナ人に向けて自動小銃を乱射、40人以上の犠牲者と200人以上の負傷者を出した。

[24] Kreat[Kiryat] Arba' ヘブロン近郊の入植地。

[25] Bethlehem ウエスト・バンク南部の町。エルサレムの南方約10km。ダビデ王家発祥の地、イエス‐キリスト生誕の地とされる。

[26] Nabil Amre[Amr] 元パレスチナ情報相。改革支持派として有名。2004年7月20日夕刻、ウエスト・バンクのラマラにある自宅で、カイロの衛星テレビのインタビューを受けた直後に家族とともにすごしていたところ、何者かに銃撃される。M-16の弾丸を足に7発被弾し入院。ダムダム弾は命中すると破裂し、人体内に破片が不規則に刺さり、傷を拡大するように作られた銃弾。1907年ハーグ平和会議で使用が禁止された。

[27] Wye River ワイ・リバー合意(Wye River Memorandum)。1998年10月23日に米国クリントン大統領の仲介でワシントン郊外のワイ・リバーで開催されたイスラエル・パレスチナ・米国の3首脳会談で、ネタニヤフ・イスラエル首相とアラファト・パレスチナ自治政府長官が合意に署名する。主な内容は、(1)イスラエル軍は、追加撤退の第1、第2次分として、ヨルダン川西岸の13%から段階的に撤退する。(2)パレスチナ民族憲章からイスラエル敵視条項を改めて削除し、テロ対策を強化する、など。

[28] 2001年9月11日に、ニューヨークの国際貿易センタービルとワシントンの国防総省を攻撃したビン・ラディン、アルカイダによる同時テロ。アラファトは11日ガザにおいて、「信じがたい出来事でショックを受けている。我々は強く非難する」、「このおぞましい行為に関し、ブッシュ米大統領と米国民にパレスチナ人の弔意をささげる」と語った。

[29] International Court of Justice 国連の司法機関。1921年オランダのハーグに創設された常設国際司法裁判所(Permanent Court of International Justice)の後身で、その規定と機能のほとんどを引き継いだ。国連総会と安全保障理事会が指名した裁判官が合議によって国連加盟国間の紛争を国際法に基づき裁定。国連加盟国が裁定に不服なら安保理に申立てできる。
http://www.icj-cij.org/

[30] Muqata'ah ウエスト・バンク中部の都市ラマラにある街。アラファトの長官府がある。イスラエル軍により包囲・攻撃された。

[31] 2002年6月、アメリカのブッシュ大統領は、パレスチナがテロに妥協しない指導者を選挙で選出することを前提としてアメリカの指導のもとでの暫定国家建設を支持し、イスラエルが2000年9月28日以前の位置まで軍を撤退させ、入植活動を停止するという「新中東和平構想」を発表した。

[32] Arab Peace Initiative サウジアラビアの摂政アブドッラー(Abdullah)皇太子が、2002年2月17日付けのニューヨークタイムズ紙のインタビューにおいて、イスラエルがすべての占領地から撤退することを条件として、イスラエルとの完全な関係正常化を全アラブ諸国に呼びかけるとの和平案を提示した。このサウジ提案は3月末にレバノンの首都ベイルートで開催されたアラブ首脳会議においてアラブ和平提案として採択された。

[33] Donor Community 援助を拠出する国・機関からなる国際社会のこと。援助コミュニティ。

[34] Dr. Salam Fayyad パレスチナ財務相。元・国際通貨基金(IMF)パレスチナ事務所代表。知米派で国際的な視野を持つ経済専門家と評されている。

[35] Dr. Na'em Abu Humus パレスチナ教育相。1955年ビールゼート生。ナジャーハ大学教育学教授。

[36] Abu Mazen 初代パレスチナ首相。本名マハムード・アッバス(Mahmoud Abbas)。ダマスカス大学法学部卒。モスクワ・東洋文化研究所歴史博士(専攻はシオニズム)。1950年代後半にアラファトらとともにクウェートにてファタハ(パレスチナ民族解放運動)を設立。PLOが結成されると国内・国際関係局長に就任。1993年、オスロ合意にパレスチナを代表し署名。アラファトのノーベル平和賞受賞の陰の立役者であるが彼自身は残念ながら選に漏れた。1995年、対イスラエル交渉団長。暫定自治拡大合意にパレスチナを代表し署名。1996年、PLO執行委員会事務局長。2003年、パレスチナ自治政府・初代首相に就任。2003年6月4日、ブッシュ米大統領、シャロン・イスラエル首相とヨルダン・アカバにて会談。イスラエル領へのパレスチナ難民帰還権および武力闘争の全面放棄を宣言した(アカバ合意)。しかしアカバ合意に対する批判は激しく、アラファトとの権力闘争も原因して2003年9月6日辞任。2004年11月11日アラファトの死去を受け、PLO議長に就任。2005年1月9日の長官選挙を経て1月15日、第二代PNA長官に就任。
因みに、アラファトはパレスチナ自治政府(PNA)の長官(ライース;President of PNA) 兼 PLO(執行委員会)議長 (Chairman of the Executive Commitee of the PLO)であり、パレスチナ国家の大統領(President of State of Palestine)を自称(?)していた。
しかし、パレスチナ(立法)評議会(PLC)の議長はラウヒ・ファトゥーハ[ファトゥーフ](Rawhi Fattouh)であり、アラファトの死後はパレスチナ法に則って彼がPNA長官代理を務めている。アッバスはあくまでも政党連合であるPLOの議長であり(例えばハマスはPLOに加盟していない)、実務的には彼が暫定的指導者であるが、形式的にはパレスチナの暫定的指導者はファトゥーハである。PNA長官の下に内閣があり、その首班がアハメド[アハマド]・クレイ[クレア;クレイア](Ahmed Qurei [Qureia] ;通称 アブ・アラア Abu Ala'a)首相である。
報道の慣例では「アラファト議長;議長府」と呼称されることが多いが、これは恐らくPLO議長が第一の肩書きであった頃の名残りで、北朝鮮の金正日・国防委員長を朝鮮労働党の役職名で金正日・総書記と呼称するように(北朝鮮の場合は形式的に国家元首が空位なのが原因だが)、誤解と混同を招きやすい。よって本稿では PNA の President を「長官」と訳す(アラファトは「大統領」と訳して欲しかったのであろうが、国家が樹立していないのに大統領と訳すには、および腰になる。おそらくこれが呼称の混乱の原因であろう)。

[37] Mr. Jamal Shobaki パレスチナ地方自治相。1952年、イスナ生まれ。ベイルート・アラブ大学卒(地理学)。ファタハの活動家。第一次インティファーダで10年間投獄される。1996年、ヘブロン地区を代表してPLC評議員。PLC経済委員長。汚職問題でアラファトを非難、PNAの混乱はイスラエルの占領よりも危険であると発言した。また、パレスチナがイランまたはイラクと同盟関係を築くことに反対している。

[38] Abu Ala'a 第二代パレスチナ首相。本名アハメド[アハマド]・クレイ[クレア;クレイア](Ahmed Qurei [Qureia])。1937年エルサレム近郊アブ・ディス生まれ。PLOではファタハに属す。銀行家としての知識を活用し、主にPLOの経済部門で活躍する。1993年のオスロ合意においても交渉メンバーとして尽力する。2000年にPLC議長。2003年にアッバスの辞任を受けて、首相に就任。アラファトの死後、治安と財政の決裁権限を暫定的に掌握している。

[39] Sykes-Picot conspiracy サイクス・ピコの陰謀。サイクス・ピコ協定(Sykes-Picot Agreement)のこと。1916年4月ロンドンにおいて、イギリス外務省中東担当官サイクスとフランス前駐ベイルート領事ピコの間で交わされた秘密協定。第一次世界大戦においてオスマン・トルコ帝国はドイツ側に参戦し、イギリスとフランスは戦後処理を見越してトルコ解体に向けての秘密外交を行ない、オスマン・トルコ領およびその周辺地域の帰属を決定した。このとき英仏によって引かれた国境線が現在の中東諸国の国境線の多くに残されている。

[40] a young boy (a cub) and a young girl (a flower) 神話でしょうか?

[41] 聖クルアーン第40章51節
http://www.isuramu.net/kuruan/40.html#51

[42] 聖クルアーン第28章5節
http://www.isuramu.net/kuruan/28.html#5

[43] 聖クルアーン第17章7節
http://www.isuramu.net/kuruan/17.html#7

[44] 聖クルアーン第30章6節
http://www.isuramu.net/kuruan/30.html#6


【訳者後記】

長年にわたって現代の革命家の代名詞だったヤーセル・アラファトを追悼し、彼という人間を再確認するために、彼の最後の演説を翻訳してみました。
評議員との対立の中で自らの過ちを認め、腐敗の撲滅と改革の遂行を訴えたものとして報道されたこの8月18日の演説ですが、この日の夜、アラファトは治安権限の分割などを明記した長官令の草案を持参した議員団と会談しました。この中で、評議員側は署名発布を求めたのに対し、アラファトは「この演説以上のものは不要である」と拒否。議員団は同月22日および23日にもアラファトに直訴するがアラファトはこれを拒否。24日には自らの演説を公式文書と同等のものとみなすことによって新たな長官令を発布する意思のないことを表明しました。
治安機関の掌握なしに不正の追求や諸改革は不可能だとする評議員側に対し、アラファトはあくまで治安権限と改革問題を分離して扱いたいと考えており、結局主導権争いの確執に終始してしまったようです。この演説を意地悪く読んでいくと、評議会はあくまで立法機関なのだから法の制定に従事すべきであり、実際に遂行しまたその責任を担っているのは自分アラファトであるという姿勢が見え隠れします。
とは言え、全体的に素晴しい演説でした。というか大変勉強になりました。ありがとう、アラファト。さようなら、アラファト。

- sennju(TriNary
- kikiki(TriNary
公開:2005/01/13

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