fragment -5 人物 ・男 ・電話・1 ・電話・2 ・女 状況 [セミ・ダブルのベッドがある部屋。六畳ほどの広さの中央にベッドは置かれる。男が一人ベッドに寝ている。窓はなく、明かりもついていないため、暗闇の中にある。かすかにベッドの輪郭と、男が寝返りをうつ様子くらいは感じ取れる。] 男は寒気を感じていた。 この寒気をどうにかしたい、と彼は思った。でもストーブの灯油は切れてしまったし、外に出て買いに行こうとするには、あまりに寒すぎた。どんなに布団を被っても肩から首筋にかけて感じる寒さは耐えがたかった。唇が震え、全身が突っ張っていた。 なにかの病気だ、と男は思った。鼻も喉もとくにやられてはいない。内蔵のどこかがやられた気もしない。ただ、寒かった。熱をはかればかなりあるだろう――と思った。体温計がなくて、はかれないのだ。 どうにかしないといけないような気がした。でも彼は具体的なことを考えると――電気をつける、外に出る、風呂に入る――もやがかかったようになった。布団をはねのけて動き出すことがとんでもない労力に思えた。頭が短い文章を考え、そしてそれはまた別の意味のない短い文章を産んだ。関連も連続性もまるでなかった。集中して考えることができなかった。 徐々に文章は短くなっていく、男はぼおっとした頭で思った。断片が短くなり、文章のテンポが早まっている。ああ、俺はまた眠るのか、と思った。さきほどからその繰り返しだ。少し目が覚めて、短い文章をばらまき、そしてまた眠る。寒気はずっと抜けず、回復する様子が感じられなかった。 死ぬのかな、と男は一瞬思った。しかしその考えにも、彼は集中することができなかった。 気がつくと、電話がなっていた。 暗い部屋の中で電話のディスプレイが明滅を繰り返していた。いつから鳴り始めたのか、彼は気づかなかった。彼は受話器をとった。 「もしもし?」 男の声がした。 なんだ、おまえか、と彼は言った。 「どうしたんだ?なにがあったんだ?」 なんでもないよ、病気だ、と彼は言った。もうずっと寝てるんだ。このままさ。 「ひどい声してるぞ、大丈夫か?」 へいきじゃないね、と彼は言った。死ぬのかな。わかんないけどさ。 「おい、ちょっと待てよ――そっちに行くよ。待ってろよ」 それだけはやめてくれ、と彼は言った。 誰にも会いたくない、と彼は思った。してもらいたいことも想像できなかったし、喋ることも想像できなかった。彼は人間の顔が想像できただけだった。それを思い浮かべると、ひどくイヤな気持ちになった。そんなものは見たくない、彼はぼんやりする頭でそう思った。 「やめろよ、来るなよ」彼は言った。 「――わかった」電話は切れた。 そして彼は、またまどろみはじめた。 電話がまた鳴っているのに、彼は再び気がついた。彼はなにかを考えるより先に、受話器をとった。 「ねえ。ねえ。ねえ」 女の声がした。 なんだ、おまえか、と彼は言った。 「だめだよ、そんなのじゃ。死んじゃうよ。ヤバいよ。すぐ行くから」 いやだ、来るな、と彼は言った。人の顔なんてみたくないよ。 「そうしてそんなこと言うのよ。心配してるんだよ。どうして助けてあげることができないの?一人でいたら死んじゃうよ。すぐ行くからね」 やめろよ、絶対に来るなよ、来ても鍵は開けないぜ、だから意味がないぜ。 女の声が甲高くなり、一方的になにかをわめいた。彼は受話器を置いた。 だいぶ繰り返してるな、と彼はぼんやりする頭で思った。 もう長い時間ずっとこうしてる。 時間の感覚がなくなってる。どれくらいこうしてるかわからなくなった。 彼の頭は依然働かないままだった。短い覚醒と眠りが交互にやってきて、そのたびに少し寝返りをうつだけだった。 彼は死ぬ、ということを多く考えるようになっていた。相変わらず集中できない頭は、この言葉の周りをぐるぐる回りはじめた。短いセンテンスや映像は、すべて死だった。それらはまるで詩を作っているかのように、死についてのイメージを重複させていった。そのイメージはつぎからつぎへと新しいものを産み、展開する。彼はそれらのイメージをただ思い浮かべつづけた。彼の意識はイメージを作り消費していくことを続けた。どれだけ続いているか、彼自身もわからなかった。 扉が開く音がした。 暗闇の中を、女が入ってきた。 彼はイメージの展開の1シーンのように、ただそれを感じた。感じるだけで、働きかけることは思いつかなかった。 女は全裸だった。 女は彼が寝る布団に重なるように圧し掛かった。一瞬胸のやわらかさが布団を通じて感じられた。その部分だけ、温かかった。寒くなかった。 だが、すぐにそれは去った。 彼は女に向き直るように寝返りをうった。暗闇の中で女の顔はよく見えなかった。でも誰か知ってる女だろうと彼は思った。 待ってたよ遅かったな、彼は言った。 女は彼の左手首に、なにかを打ちこんだ。がつん、という衝撃が彼の左手首に走った。痛みはなかったが、強い衝撃だった。ベッドの中に左手首が埋まった。同じ衝撃が、右手首、左足首、右足首にもきた。 両手両足は固定された。彼の腕は、足は、もう動かなくなった。ベッドにめり込んだのだ。 本当に遅かったよもっと早く来いよ、彼は言った。 彼の胸に布団を通して冷たいものが押し付けられる感触があった。さあ早く、彼は言った。 がつん、という衝撃が胸にきた。 彼の胸はベッドに固定された。 これで彼の身体は、もうなにも動かなくなった。彼は満足して、ベッドの一部になっていく自分を感じた。 ←_ |