fragment -7


人物
 ・男
 ・女
 ・村上春樹
 ・女(通りすがり)




状況
[夜。渋谷。人通りはピークを過ぎたが、まだまだどこを歩いても、人の姿は多い。]









「今通ったの、村上春樹じゃない?」
女は言う。「え」とつぶやき、男は後を振り向く。ジーンズに、白シャツ、スニーカー(NIKE、と男は思う)という中年の後ろ姿が、街灯に照らされて見える。確かめたいと一瞬思う。しかしすぐに諦めて、男は再び歩き出す。
「絶対村上春樹だったよ。私見たことあるよ」
「よく知ってるね」
「なんだったかな、週刊誌に載ってたんだ」
 村上春樹が歩いてた、と彼は思う。彼女に本を薦めたりしたほど、男は、彼の小説のファンだ。もちろん女はそれを知っている。
「デパートにでも行ってたのかな」
 後ろ姿の村上春樹を、男は思い出す。
「手ぶらだったし、どこかで人と会ってたんだろう」男は言う。
「わかった、ハンズだよ。東急ハンズで、グロー球とかなにか買ったんだ。絶対そうだよ」
 女はおもしろそうに笑う。男もつられて笑う。東急ハンズで、グロー球を買う村上春樹。
「しょぼいおっさんだったろ?」男は言う。
 女は少し考える。「ん、でも、なんかかっこよかったよ」
「かっこよかった?」
「うん、なんだかね。ああ、この人があの小説書いてるんだな、とか思ったら、かっこよく思えた」
「ふうむ」男は言う。「とにかく見てみたかったな」
「サインでも欲しかった?」
「そういうのはとくにいらないけど。でも見ておきたかったよ。もっと早く気づいてよ」
「ごめんね」女は言って笑う。
 村上春樹、男は、街灯に照らされた中年の後ろ姿とともに、小説を思い出す。「風の歌を聴け」――「ダンス・ダンス・ダンス」、タイトルはロクなもんじゃない。「1972年のピンボール」は良いタイトルだった。――
 ――あの小説の主人公たちは、中年になると、ああいう後ろ姿になったりするんだな、と男は思う。
 男は女の手を握る。
「これからどうする?」
「ん?帰るよ」女は言う。
「泊まっていかない?」
「明日はね――まあ、遅出なんだけど、でも仕事あるんだ」
「俺の家から行けばいいじゃん」
「やっぱり帰るよ」
「残念だな」男は言って、手を離す。
「ごめんね」女は言う。
 JRの改札まで、男は女を送る。女は仕事のことを喋っているが、男は村上春樹のことを考えている。
 あの後ろ姿、と男は思う。
 女はハンドバックを探り、定期を取り出す。
「じゃあね」
「じゃあ、また」
 女は改札を抜ける。
 埼京線はまだまだ来ない。手持ち無沙汰の男は、長い間彼女の後ろ姿を見続ける。人混みに紛れながらも、なかなか見失うことはない視力の限界まで、彼女の後ろ姿を追うことができた。一度も振り向かず、少し足はやに歩く姿。そのままオフィスを歩くと、似合いそうだ、まるで、村上春樹の小説に出てくる、キャリアウーマンのようだ、と男は思う。
 男はそう思い、歩き出す。私鉄の改札口に着き、さらに通り過ぎる。
 帰る気がしなくなった。俺はなんて寂しいんだ、と思う。
 あの人の小説の登場人物に、俺はなることができるだろうか?彼女は立派に、例え村上春樹の小説に出てきたって、立派にやっていける、それだけの美しさ、明晰さ――存在感を持っている。俺はどうだろう?俺みたいなちっぽけな人間は、彼女に去られると、村上春樹の姿すら見つけられないんじゃないか?
 わけのわからないことを考えている、と男は思う。錯綜し、蠢き、そしてそれは男の自尊心に傷をつける。
 男は駅前に戻る。再びセンター口を通り、センター街を通る。いろいろなざわめきがあり、多くの人がいる。一人一人を見つめることができないほどの、多くの人。多くは二人連れ以上で、20代で……多くは。「多くは」。なんて没個性的で小説的な視線だ、と思う。――あの、すいません。
 ――あの、すいません、という声を男は聴く。男は振り向く。
 見知った女がそこにいる。会社の同僚だ。彼を見つめて、ほほえむ。
「こんばんは」女は言う。
「ああ、どうも。どうしたんですか?」
「会社帰りなんですけど、CD買おうと思ってるんです」
「タワレコ?」
「はい」
「ついてっていい?いや、連れがいたんだけどさ、帰られちゃって、暇なんだよね」
「行きましょうよ」
 女は言う。男は少し前を先導するように歩き出す。女は横に並ぶ。
「CD、なに買うの?」
 男は言う。
 彼女も村上春樹も先ほどの憂鬱もゆっくりと去っていくのを、男は喜びを持って感じる。









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