fragment -10 人物 ・男 ・(――) ・女 ・(――) 状況 [車の中。中古のシビック。運転席に男、助手席に女が座っている。男は19歳、女も19歳だ。ワイパーが雨だれを擦るのを見て、男はワイパーの動きを弱める。雨は先ほどよりも弱くなった。カセット・テープしかついていない、貧弱なカーオーディオから、サザンオールスターズ、真夏の果実、が流れている。 男は短髪を金色に染め、ボーダーシャツを着て、縁のついた眼鏡をかけている。右手首に銀色のチェーンが巻いてあり、女はその姿はあまり好きではなかった。うっすらと無精ひげが伸びているのも気になった。男はそれほど濃い髭なわけではないから、数日剃っていないのだろうと検討をつけた。] 女は黙っていた。男も黙って、運転をしている。AT車のため、片手が手持ち無沙汰にたばこを持っているのを、女は目に留めた。 どうしてこんなことを考えるのかわからなかった。 数年前の自分にはよくあったことだった。隣にいる男とつきあい始める前まで、それはそのまま自分自身の感情、空中にぽっかり浮き上がったように、私はなににも手に触れていない、そういう感情だった。女は地面に足をつけたい、ということも考えることができず、宙に浮いたまま食事をしたり友人と喋らなければならなかった。自分はそういうものだ、と思いこんでいた。 でも隣の男とつきあうようになって、そういう気分から上手く離れていった。それは女にとって驚きだった。女はゆっくり、片足から地面に足をおろしていった。地面があると、女は上手にいいろなことができた。いろいろ、細かいことから大きなことまで、だ。初対面のヒトとあっても緊張しなくなったし、夕方、ドラマの再放送を見ても、≪どうしてわたしはこんなものを見ているだろう≫とは思わなかった。それは女にとって驚きだった。一度その状態に慣れると、今までの自分はなんて息苦しかったんだろう、と思った。 そして、女は、またその感情を思い出していた。 どこにも結びつかない。 カー・オーディオが次の曲になった。シャ乱Q、上京物語、だ。 女は泣き出した。涙がこぼれて、嗚咽も始まった。声はたてず、なにも喋らなかった。 三日前も女は急に泣き出した。男は女が泣くのを、その時初めて見た。男はその時、どうしたらよいかわからなかったが、とにかくなだめようとした。 ――どうしたんだよ? ――ねえ、なにが悲しいの? ――俺はなにしたらいいんだよ? ――泣いてるだけじゃわかんないだろ。 でも結局女は泣きやまなかった。その時も車だった。結局男は、女の家まで車を寄せた。女は黙って出ていった。 結局今日も女は、なにも喋らなかった。仲直りをしようと――喧嘩なわけじゃないよな、と男は思った――呼び出してみた。ダメだった、結局女はなにも喋ってくれなかった。 女はゆっくり変わっていった、と男は思う。 男は彼女とつきあい始めた頃を思い出していた。 その時自分には彼女がいなかった。ある女と別れたばかりだった。 かわいい女だ、とはじめは思った。流行の女の子、というタイプではなかった。大人数と喋っていても、ほとんど喋らず、たまに口を開くと、インパクトのある言葉をはいた。下ネタだったり、毒があったり――とにかく、びくっとするような言葉だった。男はその感じがおもしろかった。特定の男がいない、男経験もそれほどない、と男は彼女を見定めた。男はゆっくり、落ち着いて彼女を誘った。下品にはしないように、しかし積極的に、と思った。3回目に会ったとき、男は女をホテルに連れて行くことに成功した。 はじめ、二人きりになると、女は喋らなかった。男は冗談を口にした。女は、それに反応できなかった。2度目、同じ冗談を言うと、やっと笑い、受け答えをしてくれるようになる、そんな感じだった。場数を踏んでいくと、女は上手く反応してくれるようになった。新しい思いつきを口にしたり、少々無理のある言葉でも、女は上手くレスポンスをうってくれた。ぼおっとしてる女の子だ、という印象は、だんだん、頭のいい女だ、と変わっていった。そのへんの男友達よりも、上手に喋る、と男は気づいた。本もたくさん読むし、学校の成績も良かった、と後から知った。なるほど、と、思い当たるような気がした。 結局、今日も女は泣き出した。 男はもう、諦めた。なにを言ってもダメだし、それは自分にどうもできることではないのだ、と思った。 もう致命的だ、と思った。 曲が終わった。B’z、alone、が始まった。 「好きな人ができたの?」 男は聞いた。 女は嗚咽しながら、首を振った。 「俺のことが、キライに、なった?」 そうじゃない、と女は嗚咽しながら言った。あなたはとてもいい人だし、全然悪いところもない、と続けた。 ただ、私は、もっといろんなことが知りたくなったの。 と、女は言った。 男は、上手く聞き取ることができた。 いろんなこと、ってなんだろう、と男は思った。新しい遊びだろうか?就職することにしたのか?今更、学校に入り直すのだろうか?――わからなかった。彼女はなにがしたいのか、上手くつかめなかった。 彼女は自分の話を聞くことが多かった。俺が彼女に会いに行くと、彼女は読んでいる本を閉じて、俺の話を聞いてくれた。俺がどこに行きたいか、尋ねると、俺が行きたいところを言ってくれた。麻雀も覚えてくれたし、電話には必ず出てくれた。 そういうことなのかな、と男は思った。 男は持っていたたばこを口にくわえ、ライターをとり、火をつけた。曲が変わり、スピッツ、ロビンソン、になった。 どれも古い曲だった。だいぶ昔にこのカセットテープをつくり、それ以来、面倒になって作っていなかった。カセットテープとして持っているのは、これ一つだけだった。だいたい、これほど長くこの車に乗るつもりはなかったのだ。親のおさがりでもらったこのシビックをのりつぶして、新しい車――その車にはもちろん、オートチェンジャー付きのCDコンポを載せて――をすぐに買うつもりだった。貯金はたまっていないが、ローンはいつでも組めた。しばらく乗ってみると、この車のエンジンは快調だった。ローンを組むことがあまりに負担になるような気がした。だから結局、2年あまりこの車に乗り続けている。 この車も、古いカセット・テープも、悪くない、私は好きだ。 女は、そう思った。嗚咽はおさまりかけていた。 でも、私はもっと好きになるものが欲しい。 そう思った。 女がしゃくりあげる音はだんだん短い間隔になってきた。男は黙って、たばこを吸っていた。吸い尽くすと、すぐに新しいたばこに火をつけた。 しばらく二人は黙っていた。ワイパーが間隔をあけて、ガラスを擦る。 新しい曲が始まった。ドリームスカムトゥルー、loveloveloveだ。 ←_ |