04/08/31
未だに自分のことを考える悪癖から逃れられない。もう子供ではないのに。

昔はもっと孤独だった、と思う。
自分のことなんてどんな風にしたって表現できないと思っていた。自分のことをもっと知りたいと思っても、到底無理だとすぐに思った。他の多くのことと同じように。かなわないことはいっぱいあって、その中の一つに過ぎなかった。
でも今はそうではないと思うようになった。自分のことを本気で喋れば、話し尽くしてしまうだろう。
その後にやってくるものを思うと、僕は喋るのを躊躇してしまう。だから未だに話し尽くそうとしていない。根が怠惰だから、と言ってしまうことは避けるべきだろう。
だからほとんど自分のことを喋ることはしなくなった。

自分のことなんか、喋るつもりになればいつでも喋れる。
そのことは子供だった僕にとって、衝撃的なことだ。そのことを僕はまだかすかに記憶している。
そのことは誇らしくさえある。子供の頃には喋れなかったものが、今では簡単に喋ることが出来るのだ。昔買えなかったスエードのスニーカーを、買えるようになったようなものだ。
そして、そう考えたところで我に返る。ああ僕はもう子供じゃないんだ、と。
大人になれば、そういうことは当たり前の話じゃないか、と。

そうこう考えるうちに、少年時代に親しかった孤独の感覚をノスタルジーに似た感覚で思い返すようになった。
今は孤独ではない。
そう考えると、自分の立ち位置を忘れてしまったような気分になる。元から人に懐く少年時代ではなかったのだ。孤独こそ、僕の少年時代だった。なぜ、僕の前には圧倒的な形で存在してくれる人がいなかったのか、と、そういうことは大人になっては言ってはいけない。僕はどうあがいても、ゲイにはなれないのだから。



kikikiという青年の姿を創造する。この名前は仮名であり、僕のエイリアスではないことを先に強調しておく。
kikikiは26歳で、ロッカーでハッカーだ。大阪の汚いワンルームマンションで暮らしている。
毎日お昼過ぎまで眠り、小さなハコでライブをしたり、酒を飲みながらおもしろ半分のクラッキングをしたりする。メジャー・ミュージシャンを目指しているが、それほど現状に飢餓感もない。
彼には大抵の人間が愚かしく、無駄なことをしているように思える。噛みついてくる相手を、たやすく正論をもって叩きつぶすことが出来るし、常にそれに成功してきた。
彼が恋した女は、今は東京にいる。今は離れて暮らしているが、それはまだそういう時期ではないと思っているからだ。彼女はまだ他人と暮らすことが出来ないし、そういうのはいずれ時間が解決するだろうと思っている。時間が経てば、彼女はある段階を乗り越え、いつも側にいるようにもなるだろう、と考えている。
でももちろん、そうは思い通りにならない。彼女は一回り歳が下の、10代の男を愛するようになる。そのことは彼にとって想像外のことであり、信じられない種類の物事だった。
彼はそのアポリアをなかなか乗り越えることが出来ない。なにをおいても、自分を変容させても手に入れるべきは彼女であると思っているが、そのための方法を考え出すことが出来ない。彼女のことを思わないようにした方が簡単ではないか、とさえ考える。しかしそのことも彼には耐えられない。また彼女を手に入れることを考えるが、しかし方法がない。どこにもたどり着かない。
表面的には彼は変わらない生活を続けている。彼自身もその深刻さを意識できない。確実に彼の生活は変わっていく。感情を制御できず、長い時間考えることが出来なくなり、集中力がなくなる。体力も活力もなくなっていく。
そして彼は、そういう自分自身を一足飛びに乗り越えることを思いつく。直情的に行動する。
それは彼にとって必然的な、当然のことのように思える。
そして彼は、すべてが終わった後に10代の少年に会いに行く。その少年こそ、僕だ。僕はkikikiに彼自身のことを説明するだろう。なるべく論理的に、生活がサイクルを描きどこの関係にも無理がないものになるように。そのために僕は全力を尽くして彼に物語を作ろうとするだろう。


04/08/14
むかあしむかし、僕がセンチメンタリスムの虜だった頃、書き起こしたあるアニメ作品のセリフテキスト。

なにも考えてない時、ふと思い返した一節はこういうものだったりする。



 「惑星連合宇宙軍の威信と技術の粋を結集した最新「巡洋艦、阿蘇」、その一方でいわくつきの兵士たちを収容しておくためだけの旧式駆逐艦「そよかぜ」。ろくな装備もない船でしたけれど、そのかわりほかの船にはない自由があった。解体処分となるとなんだかさびしい気がしますね」
 「そう?」
 「あっさり答えるわりには、ちゃんとここにいたじゃないですか」
 「歩き疲れるほど陸はおもしろくないし、遊び疲れるほど年とったわけではないからね、それにいわくつきでも一応はみんなの船だった。僕はみんなと同じ様に、ただ艦長をしただけ」 
 「今からだって遅くはありません。阿蘇がまっています。阿蘇にも自由は必要なんです」
 「ユリコさんだって自由は大変だったでしょ?誰がための自由と責任……ふっきれたね」
 「ふっきれた?」
 「そう、ふっきれちゃったんだよ。でもいくらふっきれても後悔や反省はしないよ」
 「どうしても阿蘇に乗るつもりはないのですか?」
 「だってあれ、軍艦でしょ」
 「艦長……艦長は替わってしまったの?」
 「……ん……ノン」
 「へ?」
 「……」
 「……あきれたヒト」



 「考えてみたら、艦長とこうして二人だけでお酒を飲むって、初めてじゃありません?」
 「心臓がどきどきしているのは、お酒のせいじゃないよ」
 「もう戻りたくないな、艦長と出会う前の自分に」
 「……そうそう、ヤマモトくんたちには僕のこと伝えてくれた?」
 「いまごろみんな血眼になって艦長を捜しているだろうな」
 「そう……どうしてそうなっちゃうのかな……僕なんか探したってしょうがないのに」
 「でも、みんなは艦長のことを」
 「ユリコさんは地上勤務を決めたんでしょ。ユリコさんはユリコさんの思ったとおりにするのが一番。ヤマモト君たちだってそうだよ。一度しかない人生だもの、他人にふりまわされないで自分の好きなことを、好きな様にやる」
 「好きな様にやる?」
 「好きな様にやる」

 「ユリコさん、ヤマモトくんたちにあったら、そう言っといてよ……ね?」
 「そうやって何度も何度も、本当に、何度も何度も、みんな、騙されてきたのよね」
 「え?」
 「艦長、私、戻ります」
 「え……今すぐ?」
 「はい。戻って、みんなにも艦長の言葉を伝えるんです。自分の好きなことを好きなようにやれって」
 「でも、みんなだって、もうそろそろわかってるんじゃないのかな」
 「わかってないから、艦長を探したりするんです。だから……戻ります」

 「ユリコさん。お酒、まだ残ってるよ」
 「艦長……ありがとう、もう二度と艦長……いえ、あなたにお会いできないかもしれません、でも、あなたの優しさ……」
 「ユリコさん」
 「忘れません」





04/07/29
物語について。昨日の続き。

ナデシコが創り出したメッセージとは、「オタク文化をそのまま伝える」という意欲だ。
主人公が悩む姿は、そのまま読み手と同じものになる。作り手は、「オタク文化」を共有しているという前提を持ち、それを仲介している。
そのことは、

読み手−作り手(作品:ナデシコ)−世界

という構造になる。読み手は作品を通じて、世界とコミットすることになる。それが読み手にとって、感動という形になりうるのだ。



この効果を小説に与えようとする。視点を作り手側に移すとしよう。
ナデシコの制作者は、あくまでパロディという視点でのみ、それを制作したはずだ。
はじまりは「ゲキガンガー」という「ナデシコ」内の作中作品の存在であるだろう。このギミックを思いついた制作者は、そのギミックをそのまま敵対勢力へと写し(ここにものすごい力量がある)、「ゲキガンガー」=「戦争における敵」ということにした。
ここで戦争を扱った「ナデシコ」という作品は独自の展開をとげることになる。「ゲキガンガー」というアニメによって結びつけられた主人公と敵対側は、共有する価値を持つことになり、戦争のテーマを解く一つのキーになる。
またそのこととは別に、「ゲキガンガー」というアニメを理解し、その影響を受けた人間としてのタイプをまた提出することになる。
読者はそれぞれのタイプの見事な描写によって、「ゲキガンガー」を通じた人間たちから自分の視点を選ぶことが出来る。
最終的に、主人公は「ゲキガンガー」に対して追求する姿勢をみせ続けた。「ゲキガンガー」をひとつのテーゼとして引き受け続けることによって、たとえばそれは「孤独」に対して考え続けた主人公のような意味を、「ナデシコ」という作品に持たせることが出来た。「ゲキガンガー」も「孤独」も、テーマとしての大小の差はなく、文学作品のような、静かな感動を与えることが出来た。
テーゼをひきうけ、それを追求する姿勢を見せ続けたこと。そのことがひとつの大きな効果をもたらしたのだ。

もうちょっと続けてみるつもりで。

04/07/28
物語について。
長編小説を書くにあたって、物語の構成というのはとても大事な問題だ。
そして、今回はさらに小説を書くための物語構成とはなにか、ということから考えたい。

物語構成は、よく音楽にたとえられる。
クラシック等ではテーマとしてある小節を作り、そこから作曲を始めることが多かったようだ。おそらくピアノ曲でも多重奏でも同じだと思う(楽劇等はまた別にして)。あるテーマがあり、そこから飛び出して離れ、離れすぎるとまたテーマに帰る。
テーマは、動機にはならない。この場合はほとんど即興的にA→B→C→Aというような流れを思いつき、それを肉付けしていく。Aがどんなものであっても音楽を始めることが可能で、むしろそういうテンションの躍動をいかに普遍的な感情の動きに乗せられるか、というのが、西洋的な音楽の伝統であると思われる。あまり詳しくないが、モダンジャズ等の「即興」ということがそういう手法の極北であっただろう。再現性がないことが緊張感を高め、ライブというものを創り出す。

現代のポップスはメロディラインが重視され、モチーフとなることも少なくない。サビの部分を口ずさみ、それを受けてAメロBメロを付け加えていく、というのは比較的オーソドックスなやり方であろう。この場合はメロディラインの繊細さこそが、動機になる。自分の声を乗せ、思いを伝えるための、もっとも適したメロディを細かくおいかけていくことが、ポップスという大量生産のやり方にもそぐう。



以前京極夏彦の「魍魎の匣」を細かく追いかけていったことがある。
この小節を書くにあたって作者が考えたのは、まず「箱と少女」という美的なモチーフ。このイメージがはじめにあったおかげで、物語の最後のシーンは決まった。
そしてこの小節が多重的になっているのが、「易学を中心とした考察」で、これ自体はモチーフ自身である「箱と少女」ということとほぼ関係がない。「箱」からの類推で思いついたものとも思えない。手塚治虫が、落語の三題噺を作劇法にしたように、まるで関係のないものを出会わせた、というところがこの小説の世界の深さ(それはつまり、次の段落でどのような展開になるか想像が出来ない、ということ)を与えている。全体を覆う文献考証こそ、作者個人の付随し、身近にあったために手に取られることになった、ただのギミックであるにすぎない。この小説に「易学を中心にした考察」があるのはただの偶然であって、そこに必然性もなければ、「そのために小説全体の質の向上に貢献した」ということもない。少なくともそういうことまで考えられて作られていない小説である、というのは間違いないことだ。
ならばなぜこの小説がおもしろかったかというと(少なくとも僕は興奮しながら一気に読み終えた)、登場した人物に魅力があって、彼らがどのように行動していくか、どういうことを「僕のためにしてくれるか」ということに興味を持ち続けることが出来たから、と言って良いだろうと思う。
また、「ミステリ」という定型的な作劇法ももちろん効果を与えている。
以上、鍵括弧でくくった項目が、小説の質をあげるための要素だ。



「魍魎の匣」という物語構成法は、ほぼそのまま現代エンタティメント界を支える、「物語」の原型と言っても良いと思われる。ここまでの要素を集めたものは少ないし、それら一つ一つの質(質、というのは、単純に言って「頭が良さそう(自分=読者には想像できなかった、おどろいた)」ということと、「わかりやすい」ということだ)も高かった。非常に優れた作品だ。「キャラクタがどう動くか」ということの楽しみは、人間的興味(性的興味)と直結するので、そうはっきりと言うことはできないかもしれないが。
もちろんこれらのレベルを上げていくことも高い楽しみを与える小説を作るには必要なことだ。
現代作られた、ある程度の長さを持つ、エンタティメントに消費される物語はすべてこの物語構成を意識して作られている。中身が違うだけで構成の内容は同じだ。
この構成の一つ一つを部品をくみ上げていくように作っていけば、良い小説を書くことが出来るだろう。
物語のおもしろさとは、こういうものであり僕はそれに異論を挟もうとは思わない。



しかし、「良い小説」というのは、これ以外の点があるのも確かである、と思われる。
「まったく気が付かなかった感情に気が付く」「ごく主観的に物語を観察することで、読者の感情を直接的に(たとえば、友人に「バカ」「愛してる」などと言われ怒ったり喜んだりするように)参加させること。
「それらを知ることによって、自分の生活に変化が起る」という力を小説は持っている。それらは無意識的に作られることもあるが、しかし意識的にやっていることも多い。
僕らはそういうことを意識的に考えなければならない。

ここではじめて、この文章は技術的な事柄に触れることにする。「読者の生活に変化をおこさせるような小説を書くための、小説の構想はどのようなものであるべきか。どのような構想によって、読者に対して直接的なメッセージを送ることができるか」というものだ。


「起動戦艦ナデシコ」が強烈なインパクトを与えたのは、そのキャラクタ、「動き続け形を変え続ける物語(戦争という材料においては、人は主観的にならざるをえない)」というのがあるのはもちろんだ。
しかしそれ以上にこの「ナデシコ」が深い静かな感動を与えるものがある。


……以下、続き。

04/07/24

メモ 投稿者:kikiki  投稿日: 7月24日(土)23時38分56秒

人格がネット上で運営されているということについての断片的なメモ。

「人格」がネットワークという上で構成されることが日常的になったことによる大きな変化は、
・生物的な1個体と人格的な1個体が並行的に、ほぼ同一のものとして運営されるものであるという幻想が崩壊した。
・時間空間を含めた情報を制限することが出来るようになった。それらは対面することに比べ、恣意的にコントロールすることが容易に行え、そういう作為を行うことはごく自然な行為であると思われるようになった。また、実際に対面することと同等の情報量を送りあうことは未だ不可能。

以上二つが「人格」という視点から見た、ネットワークの効果だ。

人格を一般的な芸術作品や芸能的な作品と比較する。
類似点
・評価は個人の感性によって行われる。その点から、客観的な評価はなりたたない。また瞬間的な気分でしか意味を持たない。
・見せる相手を意識して制作された、人工的な制作物。
相違点
・言葉を中心としたものであるが、決まった形がなく、芸術の中の1ジャンルというものでなく、それと並列的に扱われるというくらい、いろいろな形態を含むことが出来る。
・「相手を喜ばせる」「自分の表現を楽しむ」という芸術が持つ目的以外の多様な目的を持つことがあり、芸術と同じ意図で作られたものとそれ以外の意図で作られたものの間には、あらゆる意味において差異がない。

たとえば人格というものが芸術と同じ、「相手を喜ばせる」「自分の表現を楽しむ」というものとして評価されるであろう、ほぼ確実な行為はセックスという名前で呼ばれる。
セックスをそのまま人間の活動のすべてとして仮定すれば、芸術作品(芸能的な創作物)とは人格とほぼ等しいものになる。人格とはそのようなものであるとする仮定的な言語操作が必要であり(造語?)、そこから話をすすめていくことになるだろう。







04/07/23

(無題) 投稿者:kikiki  投稿日: 7月23日(金)01時54分8秒

http://plaza.rakuten.co.jp/ginganohotori/2006

妖精現実で見つけたニュースなんだけど。寝ようと思ってたのに目が覚めてしまったよ。

>『裁判で、著作権にかかる曲をやっていないことを立証できないでしょう?』
JASRACというのはこういうことを言ってくるらしい。「『だから金を払え』と言ってきた」とはっきりと書いてある。

上の文章は明らかにおかしいよ。普通に恐喝だよ。どこからどう見ても。
こういうことを、普通に大学卒業して就職活動経て無事入社した人間が言ってくるなんて信じられない。職業倫理がないとしか言えない。「脅して金を取る」「論理的な整合性を考えずに金をとることを考える」というのをここまで露骨にやっているとは思っていなかった。

社会で生きていくというのは、こう言われた時に「では裁判では著作権にかかる曲をやっていることが証明できるのですか?」と即座に言い返さなければならない。それができなければ沈黙しなければならないってことだ。そういうことを常に行わなければいけない、そういうことを、社会に強いられるとは思ってもみなかった。
本当にどういう会社なんだ?このJASRACというのは?上の話は本当にひどい。ヤクザのショバ代よりも酷い、本当に。ヤクザは慣例的に集金をしてなければ、急に現われることなんて(たぶん)ないだろうから。
自分の街に新しいヤクザがやってきたような切迫感が生まれてきた。JASRAC社員は、職業だけで軽蔑することに決めた。会ったことないけど。




04/07/18

日記 1 投稿者:kikiki  投稿日: 7月18日(日)04時02分28秒

90年代の終戦。
というテキストをかつて書いた。
あまり良い内容とも思えない。一番残念なことは、それが不正確なことだ。
戦争の舞台は日本の若者文化だった。それは不正確にしかとらえられないことなのかもしれない。ある短い時期には、日本全体の文化は高校生の生活のことが日本全体の文化だと思われた。もう少し長いスパンをとったものには、人口数%の貴族の文化こそ日本の文化だと思われた。同じようなものだ。
文化という単位はあまりに不正確で、僕らは時と場所を考えながら文化というものを使い分ける。それはとても複雑な構造になっており、まったく意識しないままに小説を書くことだって珍しくもない。

マニア対ミーハーの戦争は非日本的な持久戦争であった。おそらく、83〜99年という期間続いた。61〜73年の学生闘争、70〜?年のブント間闘争に比べるとやや長い。それにこれは戦争であった。明快な勝敗なしに具体的な戦闘相手がい続ける、このようなスタイルの戦闘状態は応仁の乱くらいのものであったろう。
むろん、血が流れた。僕は血生臭い戦場をいくつも見てきた。敗者は血を流し、勝者は過剰に敗者を打ちのめし、そして勝者と敗者は入れ替わった。僕はそのような情景を見るたびにひどく心を痛めた。

「神よ、どうしてこのような地獄を私の前に見せるのですか?」

と。
僕は何度も問いかけた。
問わずにはいられなかった。



日記 2 投稿者:kikiki  投稿日: 7月18日(日)04時03分9秒

もはや戦闘は終結した。
戦後の風景はいつの時代も変わらない。敵への憎しみよりも自らの疲労のほうが強く自分にのしかかる。これ以上戦闘が続かないように、愛想笑いだって浮かべあった。そうやって、自らの傷を癒しあった。

戦争が終結し、時が流れた。
今は2004年になっている。僕だって27になった。

テクノロジーが時代の回転スピードをあげた。昔ならば数百年くらいの時間が必要なことが、すぐに薄まり、他の文化が新しく生まれる。
もはやこの戦争は過去のものになった。
すでに敵も味方も不明瞭だ。「マニア」も「ミーハー」も死語だ。「さむらい」「左翼」みたいなものだ。もはやそんな人間はいない。「さむらい」を名乗る人間は馬鹿だ。死語を名乗る人間なんて、誰も相手にはしない。
新しい文化は、もうやってきていた。


「セックス」と誰かが現在の文化に名前をつけた。
非常にカオティックな文化であって、このネーミングにも疑問を唱える学者は大勢いる。しかし、「セックス」が構造を形成しているのは間違いないものであるし、僕はこの文化をそう呼ぶべきだと考える。

セックスは各個人が社会に向けて叫ぶことが出来る、唯一のアイデンティティになった。
僕らはそれぞれの性癖を名札に書き、性行為の回数をポイント換算し、それを見せ合うことで社会を成り立たせた。
それを詐称することは、過酷なペナルティが課せられる。
不具、という罰は、古代中国並みの過酷な刑罰ではないかと僕などは思う。



日記 3 投稿者:kikiki  投稿日: 7月18日(日)04時06分19秒

偉大なる書物「ノルウェイの森」はこの現代を予言した書物として知られるべきだ。
なぜ女の子は死んだのか?不具という過酷な刑罰に耐えられなかったせいである。同作者における「国境の南、太陽の西」において、セックスは解放され、そしてそれは前時代であるがゆえの迫害をうけ、破滅へ向かうことが示唆される。当時は未だセックスの社会的な力が小さかったのだ。
それを思うと現代は恵まれた時代であるだろう。セックスにおける匿名性の保護が間に合えば、上の小説のような悲劇は避けられたに違いない。

この「セックス」という時代。
僕らは――少なくとも、社会で生活することを望むなら――この時代をはっきりと意識し、それに対処していくことが必要だ。

過去の時代にこだわるノスタルジイとは、この場合ただ怠惰であるというだけなのだ。匿名性とはプライドの否定であり、セックスとはそういう概念を統合し、包含する、超越性を備えたウルトラなものなのだから。



――あー書いてて苛々してきた。ファック!こんなものはウソっぱちだ!




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