左手を思い出す










 さらさらと窓を叩く雨音が耳へと届く。朝から延々と降り続いている雨はまだ止みそうにもないらしい。やわらかい布で部屋全体がふわりと包みこまれてでもいるかのように、雨音は遠くから、遠慮がちに響いてくる。
 ねえ、と耳元で囁く彼女の声で、僕の意識は窓の外から引き戻される。
「人ってさ、無意識のうちに立つ位置を決めてるって話、聞いたことない?」
「立つ、位置?」
 唐突な言葉に、その意味をはかりかねた僕はわずかに眉をひそめた。
 そう、とこたえながら彼女は小さく身じろいだ。ベッドのスプリングがかすかなきしみをあげ、右の二の腕にかかっていた彼女の頭の重みが微妙に位置を変える。直接肌が触れたところから伝わる彼女の体温。髪の感触と、腕にかかる心地良い重み。
「二人が並んで歩くときに、自分が相手のどちら側に立つのか、相手にどちら側に立ってもらいたいかっていう話」
「聞いたことないなあ。どんな話?」
 あのね、と前置きをしてから、しばらくのあいだ彼女は口をつぐんだ。静かな息づかいだけが耳をくすぐる。
「これは私の場合なんだけれど、相手の人の右側に立たないと、なんだかすごく気持ちが悪くなるの。……気持ち悪いってのは、ちょっと違うかな。なんていうか、変に居心地が悪く思えるのよね」
 ゆったりとして、まるで泥酔でもしているかのような間延びした口調なのは、彼女がすでに夢の世界へと片足を踏みこんでいるためだろう。声だってひどく眠そうだ。それでも彼女はあくまでマイペースに話を続ける。
「べつに、べつにね、左側に立ったとしても、何も違わないんだってことくらいわかってるのよ。わかってるのにどうしても我慢できなくなるの。でもね、そんな人って、意外と多いみたいよ。とってもささいなことだけれど、私、それがきっかけで仲がぎこちなくなり始めたって人たち知ってるし」
 ふうん、と僕は気の抜けたような声でこたえる。本当かどうかは知らないが、初めて聞くような種類の話だったからだ。
「私ね……」
「うん」
「わたし……」
 僕は黙って彼女の言葉の続きを待っていた。けれどもその続きは、意味のある言葉にはならなかったようだ。むにゃむにゃとつぶやくような声に、そっと首をめぐらせ、間近にある彼女の顔を覗きこんでみる。いつの間にかふたつのまぶたはひっそりと閉ざされていた。唇からはやわらかな寝息がこぼれている。
 つい苦笑が漏れかけるのを僕は必死になって押し留めた。そして彼女を起こしてしまわないよう、慎重に体勢を戻してから、僕は視線を天井へと固定する。
 思い返してみれば、確かに彼女と並んで歩くとき、彼女はいつも僕の右側に立っていたような気がする。こうしてベッドに横たわっているときですらも、彼女が位置しているのは僕の右側だ。
 違和感を感じたこともないので気にしたこともなかったけれど、僕は試しに彼女が左側で眠っている光景を想像してみた。左腕にかかる頭の重み。身体の左側に感じる体温。左肩にかかる髪。べつに大きな違いなんてないはずだろうに、その想像は僕をほんの少しだけ落ち着かなくさせる。これが彼女の言っていたように、無意識のうちに位置を決めてしまっているせいなのか、ただ単に慣れていないことだからなのか、僕にはちょっと判断がつかなかった。
 毛布の脇から左腕を出して、視界の内側に入るように持ち上げてみる。左手、か――。右とか左とかいうことを強く意識してしまうと、また僕はつまらないことを思い出してしまいそうだ。それは厭な予感だった。
 僕は今日のことにだけ思いを馳せようと努めつつ、静かに目を閉じた。

「これさ、内側と外側、どちらから使うのか覚えてる?」
 折りたたまれた白いナプキンの上で行儀良く並んでいる、銀色に輝くナイフやフォーク、スプーンの行列を真剣な眼差しで見つめながら、彼女はそんなことを尋ねてきた。ほんの数時間前の光景だ。
 本格的なコース料理を食べにいきたいの、という彼女の言葉に折れて訪れることになった店でのことだった。彼女は僕が了承してからというもの、何かのガイドブックを眺めては、どこに行こうかとずっと頭を悩ませていたようだ。コース料理にさほど興味の持てなかった僕は、いくらくらいかかるんだろうと、値段のことばかり気にしていた。もちろん口に出すことはなかったけれども。
 このときも降っていた雨を、大きくて厚いガラス越しにぼんやり見ていた僕は、彼女の方へと視線を戻した。笑顔でこたえる。
「確か、外側からだったと思うけど」
「ナイフが右手で、フォークが左手。それで間違いないわよね」
 そう言ったかと思うと、彼女は実際に右手にナイフを、左手にフォークを握ってみせた。こうよね、と口にした顔には、相変わらず怖いくらいに真剣な表情が浮かんでいる。
「自分が使いやすいように食べればいいのに」
「駄目なの。こういったことはちゃんと意味があるんだから」
「……そうなんだ。どんな意味?」
 意味は忘れちゃったんだけどね。そうこたえてから、あはは、と彼女は照れたように笑った。過剰なまでに入っていた肩の力がふっと抜けて、人懐っこさを感じさせる、いつもの表情が戻ってくる。
「私ね、どっちがどっちだったのか、すぐ忘れてしまうのよね。頭じゃなくて身体で憶えているせいだと思うんだけど、ふとした瞬間に、あれ、ってこんがらがっちゃうみたいな感じになるの」
 ナイフとフォークを元の通りに置きながら、彼女ははにかんだようにうつむいた。適当に相槌を打っていた僕はというと、左手の中で一本のフォークを弄んでいた。角度が変わるたび、フォークのゆるい曲面の上でオレンジ色の照明が跳ね返り、目を射るかのようにきらめいている。
 フォークは左手。僕は忘れたことがない。彼女の言葉を借りるなら、身体じゃなくて頭で憶えてしまっているせいだろう。
 ――なんで左手を使っちゃ駄目なの?
 脳裏にちかちかと言葉が甦る。僕は目を瞬かせて、フォークから手を放した。いつの間にか、目の前にはスープが並べられていた。
「スープをすくうのって、手前から向こう? それとも向こうから手前?」
 やや強張った表情でまた彼女が訊いてくる。そんなに気を張らなくても大丈夫だって、と笑ってみせたのだけれど、彼女はスプーンを手にしたまま、じっとスープの底を見つめていた。

 僕は家族でそろって食べる食事が嫌いだった。小学生のころのことだ。
 朝はトーストが主だったし、平日の昼には学校で給食が出るために、家族がひとつの食卓を囲んで食べるのは、毎日の夕食と休日の昼食くらいだった。目の前に並べられた、あたたかい湯気が立ち昇る白いごはん。いくつもの料理が乗せられた皿が並ぶ。それらは食欲を刺激してはきたけれど、それでも僕の憂鬱を吹き飛ばしてしまうほどのものではなかった。
 右手でぎこちなく箸を持ち、反対の手で茶碗を持つ。盛られたごはんを慎重に箸でつかもうとする。何度か挑戦してはみるものの、どうにも上手く口まで運ぶことができず、次第に僕はいらいらを募らせる。
「ねえ」
 僕のあまりに小さい呼び声に両親はどちらも気がつかない。ただ隣の椅子に座っていた姉だけが、ちらりと僕の顔を横目で窺ってから、何も言わずに箸でつまんだ人参なんかを口の中へと放りこんでいる。その顔には、またかとでも言いたげな、うんざりした表情が浮かんでいた。
「ねえったら」
「なんだ」
 わずらわしそうな口調で父親が僕の言葉に反応する。目はこちらを見ていたけれど、意識と耳とは、相変わらずテレビで流れているニュースの画面へと向けられていた。いつものことだった。
「……ええと、左手で食べちゃ駄目?」
 どんなこたえが返ってくるのかを知りながら、僕は訊く。
「箸は右手で持つもんだ」
 これだった。左利きで生まれた僕にとって、何がなんでも右利きに矯正させようとしていた両親の存在は、どうしようもなく厄介で、気詰まりなものだった。今となってもまだ信じられないことなのだけれど、彼らは頑なに左利きを認めようとはしなかった。そして左利きは訓練次第で右利きに矯正できるものだと考えていたのだ。
 僕はそれに反発した。中学生以降はともかく、表立って反発できる力のない小学生のうちは、こっそりとした反発だった。両親の目の届かない学校で過ごすあいだ、左手で鉛筆を持ち、給食の時間には左手で箸を使う。たったそれだけのことでしかなかったけれど、それは僕にとってはとても自然なことだった。
 もっともそのせいもあってか、僕はいつまで経っても右手でものを扱うことに慣れることはなかった。
「もう食べたくない」
 叫ぶように言い残して食卓をあとにしたことが、一体、何度あったことだろう。
 そんな家庭の食卓で安心できるのは、カレーのようにスプーンを使える食事と、まれにあったナイフとフォークを使う食事のときくらいのものだった。両親の前ではやはり右手を使うことを命じられていたのだけれど、スプーンも、ナイフとフォークも、箸に比べるとびっくりするくらいに扱うのは簡単だったからだ。
「なんで左手を使っちゃ駄目なの?」
 納得がいかずに、一度だけ父親に向かって尋ねてみたことがある。こたえは素っ気ないほど簡潔で、そして理不尽なものだった。
「それが社会のルールだからだ」
 ルールなんて糞食らえだ。僕は心の中だけで叫んでいた。本当は声を限りに叫んで、誰が決めたのかも知らないルールなんてものを、破り捨てて踏みつぶしてしまいたかった。
 こうしたこともあってか、左利きだということは、幼かった僕の大きなコンプレックスになってしまっていた。

 状況に変化が訪れたのは、中学生になってからだった。家庭とか家族とかいったものに興味を失い、それ以外のすべてのものへと興味を抱き始める年ごろだ。家の食卓でも、右利きに矯正させようとする両親に面と向かって反発するようになっていた、ちょうどそんなころ、僕は微妙に左利きということで注目されたことがあった。
 左を制するものは世界を制す。
 誰が学校で言い出したのかはわからないけれど、そのボクシングの格言は左利きのことを表しているんだといった、そんな噂が流れたのだ。  もちろんこの格言が本当に意味しているところは、右利きのボクサーの左パンチ、つまりジャブのことだ。左利きとはまるで関係がない。でもその辺はまだ知識に乏しい中学生ばかりだったからだろうか。間違ったことを間違ったままで、話が広まっていた。
「俺も左利きに生まれたかったなあ。世界を制することができるんだぜ」
 そんな風にして、僕は友人たちから妙な具合に羨ましがられたのだ。
 それから左利きには天才が多い、といった話もあった。でも僕の成績なんて、試験後に補講を受けなければならないほどは悪くもなかったけれど、上位者とよばれるほど良くもないといった、平々凡々なところだった。
「まあ、天才が多いといっても、左利きのやつ全員が天才なわけじゃないし」
 中間や期末の試験結果が出るたびに、仲の良い友人はそう言って僕の肩をぽんぽんと叩いてきた。慰められていたのかもしれないが、考えてみれば変な慰め方もあったものだ。
 ただそうやって過ごしているうちに、左利きということで感じていた僕のコンプレックスは、いつしかプラスとマイナスがくるりと反転してしまったようだった。左利きということが、何かとくべつな才能を秘めている証みたいに感じられるようになったのだ。もちろんそれは錯覚だったのだけれども、悪くはない錯覚だった。

 高校、そして一年の予備校時代を挟んでから、大学、そして社会へ。
 いつしか自分が左利きだということなんて、コンプレックスでも、ましてやとくべつなことですらもなくなっていた。矯正させることを諦めたのか、両親も何も言わないようになっていた。僕にとって左手は、当然そこにあるべきものになっていたのだ。意識することもほとんどない。一緒に食事をしている相手から、「あれ、お前左利きだったんだ」と言われることが、まれにあるくらいだろうか。
 今でも僕は左手で箸を持ち、メモを取るときでも左手でペンを持つ。文句を言う奴もいないし、奇異の目で見られることなんて一度もなかった。左利きの人とも普通に出会ったし、それに注意して辺りを見渡したなら、僕が思っていたよりもずいぶんと左利きの人だって多いことがわかる。
 一度は閉じた目を開けて、僕は薄闇に浮かぶ天井を見つめる。
 いつの間にかまたつまらないことを思い出していたことに、ようやく僕は気がついていた。音もなくため息をつく。なんだか眠れるような気がしなかった。
 ううん、とうなり声を漏らしながら、彼女が反対側へと寝返りを打った。右手が解放される。
 彼女を起こさないように注意しながら、僕は毛布を彼女の身体へそっとかけた。そして静かにベッドから這い出し、鏡の前に立つ。僕の上半身が輪郭を曖昧にして鏡の中に映る。
 左手を伸ばして冷たい鏡面に触れてみた。鏡の中の僕は、僕へと向かって右手を伸ばしている。
 両親のせいで左利きということがコンプレックスになっていた、まだ幼いころ、僕は長い時間をかけて鏡を眺めることがあった。鏡に映る僕は、こちら側の僕とは違って右利きだった。どちらが本当の僕なのか。そんなことを考えたこともあった。今にして思うとどうしようもない、本当に馬鹿みたいな考えなんだけれど、それでも当時の僕はそれなりに真剣に悩んでいたのだ。
 もしも僕が右利きだったなら――。
 すっかり忘れてしまっていた記憶が心を占めたせいで、僕は久しぶりにその思いを意識することとなった。今なら笑い飛ばしてしまうことができる種類の思いだ。鏡の向こう側に浮かぶ顔は、僕と同様、ちょっと困ったような表情を浮かべて、まっすぐにこちらを見つめている。
「どうしたの?」
 半分眠ったままのような彼女の声が、薄闇に響く。すっかり熟睡しているものだとばかり思っていた僕は、ふいを突かれた気分で、びくりと身体が震えた。ひどく気恥ずかしい感情が湧いてくる。
「ごめん、起こした?」
 取り繕うように口にした言葉に、こたえは返ってこなかった。訝しく思いながらベッドに横たわったままの彼女を覗きこむと、もう寝顔になっている。どうやら何かの拍子に、眠りから意識が浮かんできただけなのかもしれない。それとも寝言だったのだろうか。
 またしても乱れている毛布をかけ直してやりながら、まるで子供みたいだな、と僕は苦笑した。
 まだ眠気は訪れそうにない。それは眠るタイミングを逃してしまったときと、どこか似た気分だった。僕はベッドに腰を下ろし、彼女の寝息を耳にしながら、煙草を手に取った。煙草をくわえ、左手で火をつける。灰皿の上で灰を落とすときも左手を使う。薄闇の中、白くたなびいていく煙をじっと見つめながら、どうもしないよ、と声に出さずにつぶやいてみた。そう、どうもしないんだ。
 静かだな、と僕はぼんやりと考える。いつの間にか雨は止んでいるらしく、やさしく、そして規則的に響く彼女の寝息しか僕の耳には聞こえてこなかった。