50m やけに静かだった。隣りの世界は正常に気が狂っているのだと、そう納得するのに少しの疑いも持たず済んだ。それぐらい静かだった。トラックの大きな車輪がアスファルトに当て逃げするように乱暴に接点を持って、座りの悪い排水溝の蓋が瞬間驚いて飛びあがる。あまりに乱暴なので文句のひとつでも言いたいところではあったが当てたら逃げるのが当て逃げだった。また、タイヤ擦れの音は何のスクープ的価値も持たなかった。タイヤ擦れと言えば郵便物を配って動くバイクとそうでないバイクも走っていた。せわしなく動き回るラット、餌を求めても求めなくともいずれにせよそれはせわしない。小学生の子供が向こうへ数人駆けていった。蝉が癇癪を起こしたように数十秒間、数十秒間鳴いた。 太陽は玉座に鎮座するように在って、その余熱、いや存在感だけで肌がちりちりと焦げてゆくようだった。成形されたつぶつぶとした突起のある地面からは陽炎が立ち昇る。裸足の裏にはつぶつぶとした突起が痛かった。気にはならないし、気には留めない。それよりも陽炎が立ち昇っていたし、蝉が癇癪を起こしたりトラックが当て逃げのように走り去っていたし、子供は数人駆けていっていた。もちろん汗は掻いた。だが、それら、そんなことよりも静かだった。耳鳴りがするほどだった。 足の裏が焼けるようだった。熱を蓄えたつぶつぶとした地面は更に光線を反射してここら一帯の気温を上げた。砂の上は踊るように熱いのかも知れないが、この地面はまるで細かい針が刺すようだった。風が吹いたのか、背の高い緑色のフェンスが老朽化のためにたわませた腹を柔らかく揺らした。背の低いフェンスに掛けたタオルもはためいた。はためいた後でまた死んだように静かになった。 蝉が鳴かない。遠ざかる複数の重なり合う子供の声が徐々に小さくなっていってぷっつりと消えた。風が吹かない。凪のような時間帯があって、そこでは時間の流れさえ止まったかのように錯覚する。水面には波紋ひとつない。アメンボ科の昆虫が滑るぐらいだった。水から香る薬品の匂いさえ止まった。 つぶつぶとした地面から足の裏の接点を離し、豆腐のように滑らかな五十センチほど小高い台の上に乗せた。ひやりとしていた。ざらりとしていた。その台の濡れ具合が羽毛で撫でられるような、毛穴が開くような感覚がした。鳥肌がたつ。太陽は決して手を緩めることなく照らしていたし、相変わらず肩はじりじりと焼けたが。 真っ直ぐに前を向いて、それから足元に視線を落として親指から小指までの並びを数えた。小指は以前に骨折したので変形してしまっていた。その先を見ると自分の顔が見えて、そいつもこちらを覗き込んでいた。立位のまま前屈するように両の手の指先を両の足の指先につけた。全身の力を抜いた。速く、深く息を吸い込んだ。 飛び込んだ。右手が前方の水を裂くと水は形を留めようとするので続いて右手でその中のほうを掘る。掘っても掘っても掘るそばから形成し直す水に対して休む間を与えず左手で裂く。左手で掘る。ナイフのように、挿し込むように。荒々しく。右手が休んでも左手が休んでも、どちらかが刹那一息置いたところで沈む。ばたつかせる足の存在さえ忘れるようだった。半身の四十五度の軸回転を利用して顔半分だけ水上に出したとき、水の切り口が見えるのじゃないかといつも感じた。いつまでも感じた。だけど見たことはなかった。 右手が前の時は左手が後ろだった。意識するわけじゃない。だが、そうだった。何時の間にか。そうなっていた。足掻くのももがくのも常にそういったバランスだった。そして何とか前には進んでいる。 戦争、と平和。絶望と、希望。右手、と左手。 入り口と、出口。出会い、と別れ。失い、得、掴み、離す。息継ぎ。 いっとう初め女性の柔らかく暖かい手の平と指の動きに導かれて射精したその時以来滅多に勃起しなくなった男性と、その相手のことなど綺麗さっぱり忘れた女性。でこ、とぼこ。 治癒力と、壊すもの。思いやり、エゴ。思いあがり、エコ。人と、人。母、父、エゴと子。「良い子に」と。 追うと、逃げる。だから追う、だから逃げる。鶏か卵か。どちらも好きだ。愛したから、愛された。愛された、から愛した。どちらも好きだから。どちらが右手で、どっちが。右手と左手が繰り返されるように、繰り返される。即ち、過ちも。即ち、その逆も。 幸福と、不幸。幸せ、と不幸せ。意味と、無意味。有為、と無為。行動と、動向。 突き当たる壁、と突き当たられる壁。ぐるっと回って、キック。 戦争と、平和。絶望、と希望。右手、左手。喜び、悲しみ。 AとB、生と死、オンとオフ。いずれも横並び。間違えて押すスイッチもある。正解、と不正解。 優劣、右手と左手。好き嫌い、右手と左手。受けとめる手、と零れてゆく手。 ここ、そこ、ここ、どこ。人、人。人、自分。世界、と自分。自分と、世界。 右手を差し出すと左手は送られた。送るものと、送られるもの。差し出されるもの、と差し出すもの。バランス、とアンバランス。左手が前方の水を切り、水は裂いた隙間を直ちに再生する。破壊と再生。そうしてまた左手が送られた反動で返る右手を再生された水に挿し込み裂く。どれだけ繰り返しても体が後退することがなかった。現状維持でもない。ただ前に進んでいた。水の中を、水の中を滑り。右手を振り上げた時に同時に顔を水から出して大きく息を吸った。ちらと後方も見えた。もう大分来た。その道程が見えた。感慨に耽る間もなく顔は水中へ、風呂場で数を数えるように息を吐く。もういいか、まだか。ひと掻き、ふた掻き、み掻き、よ掻き。と、同時にまた顔を出し、瞬間的に大きく息を吸う。意識してというよりは、無意識。諦めて沈まないため、そのために。そう望んでいたから。だから右手は出て返り左手を送る。送られた左手も返るし、また右手を送った。続いていった。続いていた。 左手の指先が壁に触れ、足を着くよりも前に顔を水から上げた。呼吸は乱れ、肩で息をする。両肘から先で豆腐のような台に捕まり体全体をもたれさせた。豆腐のような台は変わらず滑らかではあるが触れてもひやりとはしない。胸のあたりまでを水に浸からせていた。心臓が打っていた。反り返るような恰好のまま脱力して水に浮かび、目の端のすぐそばにある水の断面を見ようとしたのだけれどやはり見えはしなかった。 隣りの世界を当て逃げするかのように走行していたはずのトラックがすぐ緑色の背の高いフェンスの脇を徐行のスピードでもたもたと走り抜けて、地の果てまで遠ざかった子供達の声がとても近くで聞こえた。何やら叫んでいた。笑いながら。薬品のせいか空の青が異様に目にしみて、つい細める。空に浮かぶ入道雲を見ても別段それに乗って行きたい場所が思いつかなかった。癇癪のような蝉の鳴き声。変わらない蝉の鳴く声。 はたはたはた、とタオルがはためいた。風が強く吹いていた。目線近くを波紋が広がり、水面を滑るアメンボ科の昆虫が押し流されて何処かへ行ってしまうのをずっと見ていた。 (おわり)
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