ふれていたい




藤原 緑






 道の端が青く光っている。そっと近寄るとそれは水溜りに映りこんだ空だった。覗きこむ私と空の間には夕焼け色に染まった楓。私は空を仰ぎなおしその葉にふれてみようかと考えたが、指を伝って腕へ流れる雨粒を想像してからまた歩き出した。

 背筋への奇妙な感触で反射的に振り返る。斜め45度。混み合ったこの車両で顔は見えない。わざと触ったのだろうか。私の自意識が過剰すぎるのか。人にふれられるのは苦手だ。物理的な距離が狭まることで、自分の心まで開かれるような気がする。心がさざめくのは嫌だ。穏やかでいたい。刺激的なものなど何もいらない。ただ、穏やかでいたい。無防備だった私の頭を彼が無造作に撫でる。自分の全神経がそこへ注がれていると知りながら、私はわざとあっけらかんと笑う。恋愛感情と性別の放棄。それなのに私はいつまでもあの手を、あの感触を憶えている。その先に絶対的な安堵と蕩けるような幸せがあるということも。
 そこまで考え私は目を閉じた。瞼の裏に楓の朱の色がちらつく。
 車内のアナウンスがもうすぐ彼の町に到着することを伝える。

 人と目を合わせない私が見るのは彼の寝顔ばかりだった。私の目の中に彼が映りこむ。彼は目を閉じている。そっと手を伸ばす。肘を伸ばせば簡単にふれられる。力なくひらかれた指は宙に留まり、月の光でやわらかく浮かびあがった彼の輪郭に影を落とす。好きだからふれたいのか、ふれられないから好きなのか。ただ分かっているのはこの距離が、腕ひとつ分のこの距離が、気の遠くなるほど遥かだということ。
 窓の外が白んでゆく。私は固まったまま動かせずにいる右手を左手で押さえる。

 「届けるよ いいの?」大分見慣れた道を歩きながら無意識に口ずさんだフレーズ。その意地の悪いフレーズを、もう一度口の中で小さく呟く。それは自分にとってか。それとも彼にとってだろうか。困らせたくはないな。臆病な自分を自嘲気味に笑い、思い出したように歩足を早める。私は彼に会うために歩いている。乾いた風に目を細め、時折はじける枯れ葉の音に耳を澄ましながら。届けるつもりのないこの気持ちを、左手でしっかり押さえたまま。