チャイム




宮本徳次郎







 6月の終わりだった。帰って来ると、アパートの入り口に鳩がいた。
 鳩、である。平和の象徴、ハトだ。人間になれているのか、それとも傷ついているのか、僕が近寄っても飛び立つ気配がなかった。ぼくは、少し迷ってからその鳩にゆっくりと手を伸ばしてみた。やはり動く気配はないので、そっと持ち上げてみた。鳩は「ぐー、ぐー、」と小さく鳴いた。赤いかぎつめと、緑と青の玉虫色の首を持った、ごく普通の鳩だった。手を、すっと下に下ろしてみたが、鳩は不恰好にばたつくだけでぼくの掌の上から動かなかった。


 かつて、ぼくの家に鳩がいたことがある。どうして鳩なんかに興味を持ったのか知らないが、父親の趣味だった。
 父親の記憶は、ほとんど無い。僕が小さい頃に、自社ビルから転落して死んだ。あとに残された母親は、父親の会社が抱えていた大量の債券の処理に終われ、昼も夜もパートに出るようになった。広い家に、ぼくはほとんどの時間を鳩たちと暮らすことになった。けれども、ぼくは鳩があまり好きではなかった。首を振って歩くところや、その鳴き声や、中途半端な大きさ。ついでに言うと、ぼくは鳩の目が怖かった。
 ある日ぼくは、窓を開けて鳩を逃がそうと試みた事があったように思う。
 それから鳩がどうなったのか、不思議と覚えていない。ただ確実に言えるのは、ぼくはほどなくして鳩のいない小さいアパートに引っ越したということだけだ。

 そしてぼくは、図書館に行こうと思い立った。
 端末で検索し、いくつかの本を流し読みして、鳩についていくつかの事がわかった。
 例の鳩は、ドバトという種類らしい事。
 伝書鳩やレース用のものが野生化した、帰化動物らしい事。
 家に帰ったぼくは、傷ついた鳩を入れている段ボール箱に穴をあけ、木の枝を通してみた。止まり木のつもりだった。しばらくして箱をのぞいてみたら寄りかかって立っていた。役に立って嬉しい。
 手にとって羽の様子を見てみると、どうも片方の羽を痛めているらしく、自力で動かせないようだった。しかし骨折はしていないような気がする。鳥の骨格については多くを知らないので、気がする、としかいえない。

 おそらく一番大事なこと ―餌は何をやればいいのか― をよく調べなかったので、とりあえずごはんとドッグフードとトウモロコシを与えて見た。トウモロコシを好んで食べるようだ。
 夜になって、女友達から電話がかかってきて、ぼくは鳩のことを話した。
「ふぅん。それで、どうするの。その鳩を飼うつもり?」
 考えもしなかった。これからどうしよう。
 しかし、結局ぼくは毎日その鳩の面倒を見る事になった。朝起きると水を替え、えさをやる。下に敷いた新聞紙を取り替え、散乱した羽を掃除する。鳩はぼくに随分慣れて、ぼくの手から餌をついばんでいる。「クルックー」と「ぐー、ぐー」という2種類の鳴き声で、なんとなく機嫌の良し悪しがわかる気がするようになった。

 3日後に女友達が家に遊びに来た。
「あ、まだ鳩がいる。結局飼う事にしたのね。」
 いや、違うんだ。ただ家において世話をしているだけだ。ぼくがそう説明すると、それを飼うというのよ、と彼女は笑った。
 それから彼女はそっとかがんで鳩に手を伸ばそうとして、ふと思いとどまったようにぼくを振りかえり、
「名前は?」と鳩のように首をかしげた。
「なまえ?」とぼくも鳩のように首をかしげた。
「そのハトの名前よ。なんていうの?」
 考えた事もなかった、というと彼女は呆れたような顔をして、鳩への興味を失ってしまったようだった。
 ぼくはしゃがんで段ボール箱の中を覗き込んだ。随分と調子が良くなったようで、毛づくろいをしている。もうすぐ飛べるかもしれない。そう、すぐに空に帰るんだから、名前なんて付けてもしょうがないんだ。ハトは「ぐー、ぐー」と言った。

 梅雨があける頃、鳩はやっと飛べるようになった。部屋の中を飛ぶので、ぼくは毎日ふんと羽の掃除に終われることになった。だけどぼくは、鳩を晴れ空に放つことにして、雨がやむのを待っていた。
 その日は久しぶりに晴天が広がっていて、旅立ちの日にはぴったりだな、とぼくは思った。鳩が肩に止まったので、ぼくは窓のそばまで行って、大きく開け放った。
「ほら。」
 鳩は首を細かく動かしながら、外を見ていた。ぼくは鳩を手にとって、窓下のテラスにそっと置いた。
 鳩はしばらく「くっくっくっ」と言っていたが、2回ゆっくりと羽ばたいてから飛び上がった。鳩はすぐそばにある電線に止まった。
 ぼくはしばらくそれを見ていた。鳩もしばらくぼくを見ていた。
 その時近くの小学校のチャイムが鳴り、鳩はまるでそれに合わせるように飛び立った。ぼくは窓から身を乗り出して姿を追ったが、すぐに見えなくなった。

 家が少し広くなったように感じた。「さて。」とぼくは口に出して言ってみた。肩に一つ付いていた羽をゴミ箱に捨て、テレビを付けた。テレビの天気予報では、キャスターが梅雨明け宣言を出している。今日は暑くなりそうだ。ぼくは窓を閉めてエアコンを付けると、ソファに寝っ転がった。

 うとうとしていたぼくは、「ゴン」という鈍い衝撃音に驚いて目を醒ました。窓ガラスに大きなヒビが入っていた。誰かが石を投げたのだろうか。音で目が醒めたので、心臓が不吉に高鳴っている。窓に近寄ってみると、窓下のテラスに、鳩が落ちていた。両の翼を大きく広げて、転がっていた。首は不自然な方向に曲がっていた。
 ぼくはふと、幼い頃の眠れぬ夜に、窓からもれる月明かりで、父が白い壁に手で鳩の影絵を作って見せてくれた事を、思いだした。