おの寺






一、くすりゆび

 そもそもドラマは必要なかった。僕がここにいて、冷や奴にかつをぶしがのっていて、出されたアイスコーヒーにはあらかじめガムシロップが入っていて、晴れた日には自転車に乗っていて、それだけで十分だった。ドラマの存在する余地はこの世界のどこにもなくて、この世界というのは僕の住んでいる場所であり、また僕の住んでいない場所だった。


二、おやゆび

 なんだこのキャベツは、買ってきたばかりなのにもう腐っているじゃないか、と女の子が言った。男はビニール袋からキャベツを取り出し、生ゴミを捨てるためのポリバケツに投げ入れた。さて、何を作ろうか、野菜炒めを作ろうと思ったのだがな、キャベツがないんじゃしょうがない、と女の子が言った。男は冷蔵庫を開け、もやしとビールをを取り出した。しょうがない、もやしとビールですますか、と女の子が言った。男はもやしを一掴み袋から取り出し、さっと洗い、ざるで水を切り、ボールに入れて塩をまぶし、ごま油でよくあえて小鉢に盛った。男は小鉢とビールを片手で持ち、もう片方の手で女の子の手を握り、居間へと向かった。
 この部屋では、口のきけない男と、耳の聞こえない少女が二人で暮らしていた。少女の口から出る言葉は、一緒にいる男の言葉だった。男は言葉を持っていたけれど使うことはできず、少女は言葉を使うことはできたけれど持ってはいなかった。
 ああビールがうめえな、と女の子が言い、男はビールを飲み干した。


三、こゆび

 森の中にぽつんと小屋があって、そこには木を育てている男が住んでいた。森の中にあるたくさんの木の幹がまっすぐに育つように、途中から生えてしまった枝は切られなければならなかった。枝を切ることは木を育てることで、男は枝を切り木を育てた。
 男は大木の前に立ち、自分の五倍にものびる梯子を木に立てかけ、片手には枝を切るためのはさみを持ち、梯子の一段一段をゆっくりとのぼり始めた。


四、ひとさしゆび

 ハンバーガー店の一つのテーブルに、若い男と若い女が向かい合って座っていた。すでに二人ともハンバーガーを食べ終え、ジュースを飲みながら話をしていた。ジュースはもうなくなりそうだった。男は帰る前にトイレに行っておこうと、トイレに行くと言い、席を立った。女は残ったジュースを少しだけすすった。
 男は用を足し、トイレから出てきた。その姿を見て、女はバッグを肩に掛け、トレーを持ち、立ち上がった。席に向かう途中、男は手を洗い忘れたことに気づき、向こうにいる女にごめんというように両手を合わせ、トイレに戻った。女はトレーをテーブルに、バッグを椅子に置き、再び座り直した。


五、なかゆび

 僕の右手には親指と人差し指と小指しか生えていなかった。僕は東京都杉並区という、地図上の一本の線に囲まれた場所で、親指と人差し指と小指しか生えていない右手を、右腕からぶら下げて暮らしていた。
 今はその線の外にいる。線の外にいるということは、僕は東京都杉並区にはいないということだった。どこにいるのかはよくわからなかった。もちろん地図の上では、ということだけれど。僕はいくつかの指を生まれつき持っていなかったけれど、耳も聞こえるし言葉も持っている。だから僕のいる場所を説明することくらいはできる。
 僕は今どんなところにいるのか、というと、山の、雪の残る山の、上の、上の方の、深い、深く積もった雪の、上に、雪の上に、真っ白な雪の上に、誰も通った跡のない真っ白な雪の上に、あおむけに倒れている。空は見えない。雲が、厚そうな雲が僕の目の前にある。


六、てのひら

 空空空空空空空。
 雲雲雲雲雲雲雲雲。
 雪雪、雪雪雪。
 雪雪僕雪雪雪雪。
 雪雪雪雪雪雪雪雪。