『血の流れ』





山崎 隆



















 雄一は無理やりに目覚し時計を止め、閉じたままの瞼で視紅の合成を待った。
 そして、雨戸に当たるさらさらとした雨の音を聞きながら、祖父から送られてきた手紙のことを思い 出していた。
 昼、昼後、夜とに区切られて綴られたその文章は、冬の朝のような静けさに満ちていた。



  昼   お前が一人暮らしを始めてから何年になるだろうか。


  昼後  たまには朝早く起きて散歩にでも行くといい。


  夜   お前ならきっと大丈夫だと思います。  












 さっきまで地下を走っていた電車が、窓に雨の斜線を引かせながらゆっくりと街の中に入って行く。
 手持ち無沙汰な頭を紛らすために、本を開いたり路線図を眺めたりする。
 車内の人はまばらで、窓に当たる雨の音まで聞こえてくる。
 小さな頃。幼稚園に通っていた頃に、母が僕に「今日は何をしてきたの?」と聞くと、「階段に座って何をしようか 考えていたら帰る時間になってしまった。」と言ったことがあるらしい。
 それを初めて聞いた時には、他人の笑い話を聞いた時のように笑ってしまった。
 それでも、比較的自由な幼稚園で、一日中特に決まった授業のようなものもない日があるらしかったので、本当に そうしていたのかもしれない。
 でも、何人かは友達もいたはずだし、その頃の写真はあまり無いけれども、鶏の卵や、ザリガニを牛乳パックに詰めて持ち帰ったことや、母に手をひかれて 何か熱心に話し掛けながら楽しく通っていたことも覚えているので、いつもその話のことを思い出すとを少し 不思議な気持ちになる。
 電車は西日に射されながら、幾らか郊外のそれでも東京然とした街並みの中にある駅に着いた。
 薄暗い階段に、ぼんやりとした目つきで座っている自分が思い浮かぶ。








夜 



 たとえば、誰かのことを知りたいと思うこと。
 たとえば、溢れる言葉とそれを聞く友人がいるということ。

「いいなぁ 大学生は 勉強だってろくにしてないんだろう?」
 秋彦は、いつもの口癖を注意をしながら、いつものタイミングで言う。
 間があいてしまったとしても半年に一度は、どちらともなく理由を作って会っていた高校の時からの友人。
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 坊主の時もロングにしていた時もとてもよく似合っていた。
 夕方でも夜でもカーテンを閉めきって、小さな電球二つがオレンジ色に照らす部屋の中、お香をたいて 、持ちよったCDを聴いたり、ぽつぽつとどちらかが話すことに耳を傾けたりした。
 それぞれ好き勝手に本を読んだり、ギターを弾いたりしていた。
 夏休み。風通しの良い台所で「めんどくさい」と言いながら丁寧に茹でていたスパゲティ。

 ベットランプの中、いつのまにかカーテンから朝日が入ってきている。
 手紙を出して、返事が来ていないことを思いついた。
 奥行きのある静かな映画が好きだったかな。
 「どいつもこいつも要領が悪すぎる。」これも口癖だった。








朝 



 親指と人差し指で、いつまでもピアスの穴を触れ続けている時のように、手を眺める。
 くの字型に曲がった小指は母方からの隔世遺伝で、祖母も同じような小指をしている。
 手首に透けてみえる血管は、いかにも不健康で意志的な色をしている。
 雨戸を閉めたままにしている方の窓枠には、ポトスやお香り立てに並んであの日撮った使い捨てカメラが置いてある。
 「何がしたいのかわからないよ」
 ひとつ鼻からゆるく長い息を吐いて、二度寝は諦めることにした。
 目のまわりや背中を包む疲労感はたまらなかったが、目の芯に残っている力をたよりに朝食の準備を始めた。








夕方



 駅を出た時には雨もやみ、目的地に着いた頃には切れぎれになった雲を夕日が染めていた。

 懐かしさとも愛しさともつかない気持ちで体を満たして、黒と焼けるようなオレンジの二色になって しまった大きな団地群やいくつもの大きな広場を左右に眺めながら、その中に入っていく。

 8号棟の左端の方にある入り口には、買い物帰りであろう二人の主婦が入り口への通路を挟んで立っていた。
 足元で傾いているビニール袋にせかされながらも、熱心に話している二人は今の自分のようにとても楽しそうに見えた。
 そんな二人に笑顔で会釈しながら中に入る。
 建物の中はどの階も窓が少なく縦も横も奥行きがあって、夕日の光は均一に並んだ沢山の蛍光燈の光に 溶け込んでしまっている。
 それでも中の方が沈んで暗い。
 ゆっくりと上るエレベーターの正方形の窓から、置きっぱなしの三輪車や灯りの中に溜まっている虫の死骸を眺め、 傘を置き去りにした店で買った荷物を持つ手を変える。

 16階である屋上に出て、辺りを見まわす。誰もいない。風はとても強く吹いていて、 無造作に並んだ物干し台や屋上を広く囲んでいる柵、遠くを走っている電車は、良い感じに草臥れて見える。
 「それにしても久しぶりだ。」
 洗面所の鏡で一通り自分を映してから、屋上への入り口が見える場所で、大きな夕日の中、黒い影のようになって待つことにした。








夜 過去



「何それ、濱マイク?」
 顔を上げると、まだかすかに残っている夕日に照らされて、ラジカセを持った啓子が入り口に立っていた。
 そんなことを言う彼女も「服を愛する美容院の女性」のような恰好をしている。
 「あんな地図でよく来れたもんだと思うよ 本当に。」
 風は相変わらず強くて、彼女のフレアスカートと長い髪を揺らしている。
 「まあこれでも飲んでさ」と二重になったビニール袋からビールを取り出す。「楽しくいこう」
 待っている間にすっかり弛緩してしまった頭で、彼女の表情が毛羽立っているのに気づく。
 「楽しくいこう 楽しく」
 目の動きで細やかな感情を示す彼女を、こんな時にチャーミングだと感じる。 犬の機微を猫の誠実さで表すとでも言えるだろうか。

 ゆるく音楽を流しながら、これなら浴衣でもよかったかもしれないと思う。 足首を撫でる風はさらっとなまぬるい。

 ラジカセのヴォリュームを上げて「時の過ぎゆくままに」を歌う彼女に、つられて歌う。












 寒さよりまず喉の痛みを感じた。
 昨日の夜、部屋を閉めきってお香を焚いて、その後眠ったからだろうか。いつもより痛いような気がする。
 カーテンの外には早朝のような静けさが戻ってきているのを感じる。(こんな時差し込んでくる光は暴力的だと思う。)
 重たい布団を足で押し退けて、冷たい牛乳で喉をしめらせてからシャワーを浴びる。
 蛇口をひねり、沢山の湯気を立てる水で髪を濡らして、昨日のままつけっぱなしの整髪料を洗い流す。
 何度か鳴咽しながら、髪を洗う手が粗末に動いているのを感じる。見上げた所にある曇ガラスの窓から入ってくる光も さっきと同じ調子だ。
 (何もかもに苛立とうとしている自分を感じる。)
 シャワーを止め、目を閉じてゆっくりと息を吐いてから、タオルで体を拭い、洗面所の鏡の前、冷たい水でもう一度顔を 濡らす。



















(おわり)