合図




潮 なつみ






 「ただいま」
 毎日、仕事を終えてナオヤが家に帰るのは、ほとんど夜十一時を過ぎている。あたしは、その声を合図に、玄関まで走ってナオヤ迎えに行く。どんなに眠くてもだるくても、多少体調が悪い日でも、ナオヤのその「ただいま」の声さえあれば、あたしは元気になれるのだ。ナオヤもまた、あたしの顔を見ると、まるで疲れを忘れてしまうかのように、ほわぁっと緩んだ顔をして、あたしの身体を抱き上げてくれる。これが、あたしたちの毎日のイヴェントだ。そして、あたしはナオヤの顔中に、涎でベタベタになるくらい、沢山のキスをする。
 沢山のキスのあと、ナオヤはまず顔を洗って、洋服を着替える。そうして、
「サクラ、おいで」
 と言って私を呼び寄せ、どんなに疲れていたとしても、毎日必ずあたしを夜の公園やコンビニに連れて行ってくれる。公園に行った日は二人で思い切りはしゃぎまわるし、コンビニに立ち寄るときは、ナオヤにファーストフードを買って貰って(ナオヤはそこでタバコを必ず買う)、喜んで食べたりする。ナオヤと一緒にいるとき、あたしはどんなものでも美味しく食べられると思う。そしてナオヤはといえば、そんなあたしを見ては、
「サクラは本当に可愛い奴だなあ」
 などと言う。ナオヤがそう言いながら、彼特有の包み込むような大らかな暖かい眼で見つめてくれる時、あたしは本当に嬉しくて嬉しくて仕方ない。そのためにはしゃぎすぎて、時々怒られることもあるけれど、それも楽しい。何もかも、楽しい。
 部屋で一緒にくつろいでいるときは、ナオヤはいろいろな話をあたしにしてくれる。あたしはいつも聞き役だ。でも、ナオヤの話にはたくさんの色があるから、聞いているだけで充分面白い。心が暖かくなる話、笑える話、それに、仕事や人間関係の愚痴みたいな話もあるし、ナオヤの心の痛い部分をさらけ出してくれることもある。そんなとき、ナオヤは子供のように、今にも泣きだしそうな顔をしたりする。あたしは、ナオヤにキスして慰めてあげることしか出来ない。それでもナオヤには、あたしの気持ちはちゃんと伝わっているみたいで、いつも最後には、
「俺の気持ちを解ってくれるのは、サクラだけだよ」
 と言って、今度はあたしの身体中を、骨っぽい大きな手で優しく撫でてくれるのだ。しかも、とても時間をかけて、あたしの温度を確かめるようにして、ずっとずぅっと。あたしは、あまりの気持ちよさに、本当はそれだけでもう達してしまいそうになるのだけれど、我慢して我慢して、いつも気が遠くなるような感じのまま、眠りについてしまう。
 だけど、ナオヤが何よりも一番好きなのは、多分あたしの手を握ることだと思う。だって、ナオヤは事あるごとにニコニコしながら、その広い掌を差し出して、あたしに特別な合図をするのだ。それはもう、一日何十回も。あたしはその合図と共に、ちっぽけな自分の手をナオヤの掌の上に預けるようにしている。するとナオヤは、きゅっとあたしの手を握り返してくれたり、時々は、
「本当に、触り心地がいいなあ」
 などと言ってくれる。あたしは、ナオヤの大きな手のほうがずうっと素敵だと思っているのだけれど、もちろん、ナオヤがあたしの手を気に入ってくれているのも、それはそれで幸せなことだと思う。だから、「こんな手でもいいのかなあ」と思いながらも、一日何十回だって、ナオヤにあたしの手を預けてしまうのだ。暖かいぬくもり。
 あたしとナオヤがこの部屋で一緒にこんな生活を始めてから、もう一年位経つと思う。ナオヤは、初めからあたしを養っていく覚悟で一緒に住むことを決めてくれたし、あたしと住むために、時間をかけてこの部屋を探してくれた。こんなに幸せな毎日が続くのは、全てナオヤがあたしを愛してやまないからだ。あたしはそのことを、ナオヤと神様に感謝する。あたしもまた、ナオヤを愛してやまないのだ。
 この部屋では、幸せが続いていく。
 この部屋にいる限り、私はナオヤに守られつづけている。
 そう思いながら、今日もあたしはナオヤの「ただいま」の声に反応して玄関まで走り、少しだけ一緒に外を歩いて、それからゴハンを食べた。まるでいつもと変わらない幸せな夜。おかしなところは何もないはずだったと思う。
 ナオヤは布団に入る前に、いつものようにあたしの頭を撫でて、だけど、なぜだかいつもと少し違う、やや緊張した顔をして、
「オレ、明日こそ勝負するよ」
 とかなんとか言ったきり、神妙な顔をして黙り込んでしまった。一体ナオヤは何の勝負をするつもりなのだろう。それを聞かせて貰えないあたしは、ナオヤの力になってあげたくても、応援するすべがない。
 とりあえず、ナオヤの身体にもたれかかって、全身の温度が伝わるように祈った。ナオヤは少しうわの空だったけれど、いつもみたいにあたしの身体中を撫でてくれた。そしてあたしも、まったくいつも通り、そのまま眠りについてしまった。

「ただいま」
 次の夜、いつもより少し遅い帰りのナオヤは、いつもよりかなり機嫌の良さそうな声で帰ってきた。ナオヤが玄関のドアを開けた瞬間から既に、ものすごく厭な気配を感じ取ってしまったあたしは、いつもみたいに心から喜ぶことができなかった。それでも、とにかく早くナオヤの顔を見たい一心で、いつものように玄関まで走って迎えに行く。すると、ナオヤの背後から、聴いたことのない声が飛び出してきた。
「おじゃましまーす」
 見ると、ナオヤの後ろに知らないヒトが立っている。髪の毛が短くて、痩せて背は少し高めの女のヒトだった。香水の匂いが、少し強い。
「これが、いつも話しているサクラだよ」
 ナオヤは、後ろにいる女のヒトに、あたしを紹介した。彼女は、ナオヤの肩の影からひょっこり顔を出す。あたしと彼女の目が合った。緊迫の瞬間。それなのに、彼女と来たらこともあろうに、あたしの顔を見るなり、
「うわあ、可愛い!」
 などと言って、いきなりあたしの頭に触れようとしたのだった。そんな香水くさい手で触らないでよ。と思って、あたしは彼女の手に噛み付こうとしたのだけれど、
「サクラ!」
 とナオヤがいつになく強い口調で怒鳴ったので、それも出来ずにしゅんとした。
「サクラ、お前、いつもはもっといい子にしてるだろ?」
 諭すようにあたしにそう言うと、ナオヤはその女のヒトを、あたしたちの部屋に入るように促した。それから、女のヒトをテーブルの前に座らせると、コーヒーを入れるためにキッチンに立った。
 ナオヤが女のヒトと離れている隙に、あたしはナオヤにじゃれようと思って、彼に近づこうとする。けれど、ナオヤはコーヒーを手際良く入れながら、女のヒトと会話をし続けていて、あたしのことなんて全然相手にしてくれなかった。女のヒトのほうは、あたしが全然近寄らないものだから、
「あーあ、私はサクラちゃんに嫌われちゃったみたいね」
 などと言い、それに対して、ナオヤが笑いながら答えた。
「大丈夫、すぐ慣れるよ。サクラはすごく性格が良いんだから」
「ナオヤは本当にサクラちゃん贔屓ね」
「そんなことないって。でもサクラはすごく頭も良いんだ」
「本当?」
「『お手』なんて、ものすごく早く憶えたんだ」
「ふぅん」
 女のヒトは、なにやら興味津々といった感じであたしのことを舐めるように見て、それから、ナオヤがいつも私にそうするように、
「お手!」
 と合図をして、掌を差し出してきた。あたしは、こんな女のヒトの言うことなんて聞き入れるつもりはないし、そもそも、こんな女のヒトがあたしとナオヤの特別な合図を何故か知っていることにも腹が立った。大体、こんな女のヒトと握手なんかしたくない。と、思っていた、はずだった。それなのに、どういう訳かその『お手!』という合図は、まるで呪文のようにあたしの身体を勝手に動かしてしまい、気付いたらあたしは、ほとんど条件反射で彼女と握手を交わしてしまっていた。全く、なんてことだろう。きっと悪い魔法をかけられてしまったに違いない。
「本当だぁ。おりこうさん!」
 女のヒトは、ニッコリと笑ってあたしの手を握り返した。彼女の指のうちの一本の付け根には、金属で出来た輪っかがついている。彼女があたしの手を握るその手に力を入れるたびに、金属が肉球に当たる。それは、少し痛くて哀しい感触だ、と思った。その輪っかには、ナオヤの匂いも微かについていた。
「サクラちゃんって、本当に可愛い犬ね。ナオヤが可愛がるのも納得だわ」
 女のヒトがはしゃいだように言う。あたしは悔しくて、何度も高い声で吼えた。ナオヤと女のヒトは、そんなあたしを愛しいものを見るような優しい目で見守っているのだけれど、あたしはそんな人間たちの気持ちなんて、サッパリ解りそうにない。