リトルパームズ




佐藤由香里






 母親になったら再び行ってみようと思っていた場所がある。子供と手を繋いで。それは高校生の時によく行った、今でも忘れられない場所。もう何年前になるのだろう。あの時以来だから、もう12年前になるのか。よく授業をサボってあのベンチで語ったっけ。もしもあのことが無ければ、私はそれまでと変わらずあのベンチで、アユミと一緒に男やセックスについて語っていたんだろう。夢も希望も持ってなくて、未来に何の期待もしてなくて、ただなんとなく生きていたあの頃。

 ***

 「この恥知らずが!おまえ高校生のくせに、一体どんな付き合いをしてたんだ。そんな年で子供を作るなんて。相手は誰なんだ、相手は!」
 「お父さん、そんなに大きな声を出さないでください。感情的にならないで。トモコもお父さんの質問に答えなさい。もう・・・どうしてこんなことに。」
 私は妊娠した。まだ高校2年生。17歳の誕生日がくる少し前だった。世の中の出来事全てに納得がいかなくて、何にでも反抗したい年頃だった。
 「相手はわかんない。誰なのか。」
 「おまえってやつは!どこまで親不孝ものなんだ!」
 父の右手は勢いよく私の左頬を打った。痛みは感じなかった。ただ、心だけはずっとズキズキしたまま、その痛みが無くなることはなかった。

 子供の父親の名前はアキラ。
 私が初めて付き合った、私を女にしてくれた男。

 父に打たれた痛みなんて、彼から言われた言葉に比べると何てことない痛み。彼の名前と存在を父に言う気は全く無く、私が黙ってさえいれば丸く納まることだと思った。

 一週間前、あまりにも生理が来ないので、悩みに悩んだ末、アキラに相談してみた。すると彼は嘲笑しながらこう言ったのだ。
 「妊娠したかもしれない?それ本当に俺の子供なのか?おまえ、どうせ他の男ともやってんだろ。それに、万が一それが俺の子供だとしても、俺はこの若さで父親になる気なんて無いんだ。解るだろ?鬱陶しい問題抱えて俺んとこ来るんじゃねーよ。」
 信じられなかった。心から愛していた男にそんな言葉を吐き捨てられるという考えは、正直言って心の片隅にも無かった。アキラに病院に付き添ってもらうことを期待していた私の予定は大きく狂い、費用的な面も含めてどうしていいのか判らず、もうどうしようもなくて結局母親に相談し、病院にも付き添ってもらうことにしたのだ。結果は陽性。既に10週目に入っていた。

 中絶手術の申し込みとカウンセリングのために生まれて初めてこういう場所に来たのだけど、やはりここは産婦人科。周りには、望まれて生まれてくるであろう子供の母親達が、お腹をかばいながら自分の名前が呼ばれる順番を待っている。
 中絶手術同意書の父親氏名欄に書かれたのは、アキラの名前ではなく母親の名前。母の持つペンの先を目で追いながら考えていた。本当なら、ここにはアキラの名前が書かれるはずだったのに、と。
 手術の日程を決め、一通りのカウンセリングを兼ねた中絶の危険性と母体への影響の説明を受けた。とは言えほとんど聞いてなかったのだけど。だって何を見ても、何を聞いても、私の決意は変わらない。誰が何と言おうと産むつもりはない。だから、説明なんて必要無い。

 家に帰って初めて父に報告をした。
 「どうしておまえは安易にそんなことするんだ!どうして後先を考えないんだ!」
 「お父さん・・・落ち着いて。」
 私は何も言い訳なんてしなかった。だってどうせ産むことなんて出来ないんだもの。アキラには見放されちゃったんだから、堕ろすしかないじゃない。それ以外にどんな方法があるっていうの。一人で産んで育てろとでも言うの。冗談じゃない。私はまだ若いし、子供に縛られてこれから出会うたくさんのチャンスを逃したくはない。その時の私にとって、お腹の中の子供は明らかに私の未来を妨害する邪魔ものだった。

 中絶手術を翌日に控えたある秋晴れの午後。その日も私は一番仲の良いアユミといつもの場所で話していた。そこは学校の裏にある、いつも風が吹いていて、見晴らしの良い小高い丘。そこには大きな紅葉の木が一本あって、その横にあるこのベンチでアユミと語るのが習慣になっている。
 少し肌寒くなってきた夕暮れ、紅葉の葉が風に吹かれてはらはらと舞い落ちる中、私は彼女に尋ねた。
 「ねえアユミ。あんたこの前、彼氏とセックスする時避妊してないって言ってたじゃん。」
 「え?うん。してないよ。だってあたしのカレシ、ゴム付けると感度が鈍るから付けたくないって言うんだもん。あたしも付けない方が気持ちいいし。」
 「じゃあさあ、もし、もしも妊娠したら・・・どうするの?」
 「さあ・・・。そんなに簡単に出来ないと思ってるからなあ。でも出来たらやっぱり堕ろすんじゃない?この年でまだ産みたくないし。」
 「ふうん、そっか。」
 さして重要なことだとは思っていなかった。そうだよね。妊娠したら堕ろせばいい。こんな年で産むことなんて出来ないし。

 「そういやさあ、紅葉の葉って、赤ちゃんの手に似てるよね。」
 アユミが突然そんなことを言い出したものだから、正直言ってドキッとした。上を見ると、幾千もの紅葉の葉が風に揺れている。
 「やめてよ。気持ち悪い。」
 私がそう言った時、一枚の落ち葉が風に乗って私の着ていたニットの袖に貼りついた。それは起毛に引っかかり、手で払ってもすぐには取れない。それはまるで、明日消える小さな命が生にしがみ付くように、なかなか落ちようとはしなかった。私はそれを指でつまんで剥がし、そのまま下に投げ捨てた。

 次の日の朝、私は一人で中絶手術を受けに病院に行った。母が最後まで付き添うと言い張っていたけれど、私はそれを断固拒否した。だって手術が終わって、どんな顔で母を見ればいいのか解らなかったから。これが終わればまたいつもの私に戻る。今だって妊娠している自覚なんてあまり無いのだけど、やっぱり本能なのか、無意識のうちに多少お腹をかばうようにはなっていた。でも、何をどうしたって産むことは無い。そんなつもりは全く無い。その気持ちは変わらなかった。
 医者に指示されて、私は手術台の上に横になり、左右の足を台の上に乗せて、ベルトで固定された。
 「それでは始めますので。」
 医者が私の腰部に麻酔を打つ。そこから薬がゆっくりと注入される。
 少しだけ痛い。
 それは針で刺される痛みではなく、心の何処かがチクッとした痛みだった。何の痛みなのかを考える間もなく、徐々に意識が遠のいていく。
 ああ、これで終わり。やっと終わり。これでもう・・・・・・。
 そして私の意識は暗く深い穴の底に落ちて行った。

 短い夢を見た。「彼」が私に助けを求める夢。
 ママ、痛いよ、痛いよ、助けてよ。
 そう繰り返すだけの夢。麻酔が切れるまで、「彼」は私にそう訴え続けていた。

 手術は短時間で終わった。
 私が眠っている間にどんなことがされたのか全く知らないし、担当医師にも聞かなかった。ただ、私の中にあった小さな命はもう消えた。これでまたいつもの私。その程度のこと。

 帰り道、あの丘に行ってみた。
 「はー、風が冷たいなあ。」
 そう独り言を言いながらベンチに座って、熱い缶コーヒーを握る。見上げると、紅葉の葉の隙間から青い空が覗いていて、わあ秋だなあ、と思った。
 そう言えばアキラと出会ったのは去年のこの季節だった。もう1年になるのか。あいつってば自分からコクってきたくせに、付き合い始めてからは態度デカくなっちゃって。典型的な、釣った魚に餌やんないタイプ。それにしてもあいつの子供が出来ちゃったなんて大失敗だったなあ。まあ堕ろせなくなる前に気付いて良かったけどさ。
 ・・・・・・私、結構本気で好きだったのになあ・・・。
 その時携帯電話が鳴り、アキラの名前がディスプレイに表示された。出ようか。でもあんなことを言われたのに出るのも何だか癪だな。でもこのままはっきりさせないのも気分が悪いし。
 そんなことを考えている間も着信音は鳴り止まず、私は躊躇った結果、携帯電話の通話ボタンを押した。
 「・・・・・・なんなの?」
 「あ、トモコか?いや、それからどうなったのかなと思ってさ。で、堕ろしたんだろ?」
 「・・・・・・うん。」
 「あー、そっか。」
 アキラのその声には思いっきり安堵の様子が表れていた。
 産まれたら困るって訳ね。まあそれはそうよね。あんたが私との将来を考えてる訳は無いし。あんたのことを本気で好きになった私もどうかしてたんだろうし。でもまあこれであんたとも終わりだから、最後くらいはまともに別れた方がいいよね。
 そう思っていた次の瞬間、アキラはとんでもないことを口走った。
 「なあ、あんなこと言っておいてなんなんだけどさあ、オレやっぱりおまえのこと好きだし、もしよかったらさあ、そのー、もう一度・・・やり直さないか。」
 一瞬聞き間違いかと耳を疑ったけれど、どうやらそうではないらしい。徐々に怒りが込み上げてくる。
 はあ?何言ってんのこいつ。悩んで悩んで、やっとアキラに相談したのに、あんた自分が何て言ったか憶えてんの?
 私の無言の叫びは届くこと無く、アキラは喋り続ける。
 「子供のことは悪かったと思ってるよ。だってオレ達まだ16歳なんだぜ。それよりも今の時間を大切にしよう。だから、オレともう一回付き合っ・・・」
 「あんたバカじゃないの?そんなこと出来る訳ないでしょ!」
 我慢できなかった。やっぱり電話なんて取るんじゃなかった。
 「おい!トモ・・・」
 怒りに任せて電話を切り、私はすかさずメモリーからアキラの番号を消去した。
 私はアイツのどこが好きだったんだろう。どうしてアイツのことなんか本気で愛してしまったのだろう。何だか全てがバカらしくなってきた。本当に堕ろして正解。
 そう言い聞かせていた時、急に突風が吹いた。激しく荒々しい風が私の頬をかすめる。
 「きゃっ!」
 強い風に吹かれて、紅葉の葉が何枚か、私の頬にパシパシと当たった。まるで引っ叩かれた気分。
 だってしょうがないじゃない。ああするしかなかったんだもの。堕ろす以外に方法なんて無かったんだもの。じゃあどうすれば良かったのよ。
 そうやって誰に言い訳しているのかも解らないまま、私は一人、心の中で何度もそう呟いた。


 3日間学校を休んで4日ぶりに登校した日、学校で性教育の授業があった。視聴覚室のスクリーンに、妊娠と出産、そして中絶に関しての映像が流れる。学校にも教師達にも話していないのに、あまりにタイミングが良すぎて、世間が寄って集って私を責めているような気がした。
 性交から妊娠まで、順序をおって説明している。バカバカしい。どうやったら妊娠するかなんて、そんなの今時小学生でも知ってる。
 産婦人科の病院長が命の素晴らしさをとくとくと語り、妊娠中の主婦が母親になる実感を照れくさそうに話している。正直言って私はうんざりしていた。
 どうせ私は堕ろしたよ。だから何?あんな男の子供だよ。あんな父親じゃ、もし産んだって子供がかわいそうだよ。だから堕ろした。何が悪いのよ。
 そして今度は中絶手術。エコーで中の様子を見ながらの説明が始まる。画面の中にはまだ形成途中の胎児が、丸くなった状態で映った。その胎児は12週。体の部位がまだ完全に出来上がっていないとはいえ、その真ん中には小さな心臓が弱く、でも確実に鼓動を響かせている。
 そして、手術に関して具体的なことを何一つ医者に聞こうとしなかった私に、スクリーンは驚愕の事実を見せつけた。

 そこには、迫ってくる器具に生命の危機を感じた胎児が一生懸命逃げている様子。そして細長い機械で吸われていく様子が、残酷なまでに、克明に映し出されている。

 エ、コレガ?
 コレガチュウゼツシュジュツ?

 「彼」もあんな風に逃げ回ったのだろうか。そして、あんなふうに掃除機のような機械で、あっという間に死の世界に吸い込まれていったのだろうか。

 私は自分が産みたくないという気持ちだけで子供を堕ろすことに決めた。私の中で少しずつ育っていた命を、「彼」が生まれることを少しも考えることなく、生まれては困るから、育てるつもりがないからという理由で簡単に決めた。「彼」は着床してたった10週間で、私の一存によりその命を摘み取られた。ただ単に私の勝手で。
 涙がこぼれた。
 「わ、どうしたのトモコ。何泣いてんのよ。」
 となりの席に座っていたアユミが驚いた表情で私の顔を覗きこんでいる。その問いに答えることなく、私は勢いよく視聴覚室を飛び出した。

 走った。ただひたすら、紅葉の木があるあの丘に向かって走った。あの日私が振り払った紅葉の葉はまだあの場所にあるだろうか。あの葉は、「彼」が産まれる一足先に、この世に生まれた「彼」の化身。そう思えてならなかった。

 「あっ・・・。」
 そこには力尽きた葉が地面にたくさん落ちていて、一体どれが「彼」なのか解らない。草の茂った地面も、その紅葉の木の周りだけは、赤い絨毯が敷かれたように落ち葉で埋め尽くされていた。ベンチの上にも何枚かの落ち葉が乗っている。その中から「彼」を探し出すことは不可能だった。涙が後から後から溢れてくる。

 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 あなたを殺してごめんなさい。
 あなたの手が私の腕を掴んだのは偶然じゃなかったのに、
 あなたが助けを求める叫びはきっと夢じゃなかったのに、
 それに気付いてあげられなくてごめんなさい。
 本当にごめんなさい。

 私の涙は頬を伝って落ち、赤い絨毯を濡らして、そして広がっていった。
 その日、その丘には珍しく風が無かった。この前みたいに、いなくなった「彼」の代わりに引っ叩いてくれればいいのに。もっと私を責めてくれればいいのに。どうして「彼ら」は何も言ってくれないのだろう。
 その日私は数年ぶりに声を出して泣いた。いつもなら葉の騒めく音がするはずの丘に、その日は私の泣き叫ぶ声だけが響いていた。

 あとで解ったことなのだけど、母がカウンセリング時にエコー写真を頼んでいたらしく、数日後、「彼」を私に会わせてくれた。
 「トモコ、これがあなたの赤ちゃんだったのよ。」
 そう言って、私のお腹の中で丸くなっている「彼」の写真を渡してくれたのだ。以前の私だったら、余計なお世話だと言って、それを母に突き返していただろう。でも、私は素直に「彼」に会えたことを嬉しいと思った。その写真をサイフの写真入れに収める。私が「彼」にしたことは消えないけれど、こうやって一緒にいてあげたら、「彼」も少しは寂しさが和らぐかもしれないから。せめてもの罪滅ぼしに、と。

 あれ以来、私が再びあの丘を訪れることは無かった。アユミは何度か私をあのベンチに誘ったけれど、今はまだあの場所に足を踏み入れるべきではないと思って、ずっとそれを断わり続けた。「彼」に堂々と顔向け出来るような大人になったら、「彼」の思い出を置いてきたあの丘に再びそれを取りに行こう。そう思っていた。
 「トモコ、最近付き合いが悪いよね。」
 そう言ってアユミは私のもとを去って行き、そして私は一人ぼっちになった。アユミとの付き合いが途切れてからの私は男の子との出会いが一気に減り、暫くは恋人も出来なかった。
 でも、これでいい。
 チープな恋愛をするくらいなら、私は恋人なんて要らない。
 感情の伴わないセックスもしない。
 そう思うことで、それを実行することで、私は心の奥に刺さったまま決して取り除くことの出来ない棘の痛みを和らげていた。

 いつかまた、キミに会いに行くよ。生まれ変わった私になって、必ずキミに会いに行くよ。そう心に決めた、16歳の秋。

 ***

 12年後。私は28歳になっていた。
 あれから数年後に出会った男を私は心から愛し、自分の過去、そして「彼」のことも話して、それでも私を選んでくれたその男と結婚した。妊娠、出産も経験し、命の重みや尊さを心から理解できた。あの頃の私では解らなかったこと。もしもあの時に解っていたらと歩みを止めたこともあったけれど、それでも私は何とか手探りでここまでやってきた。妻として、母として、少しでも成長できるように。

 そして今日、3歳になる子供、マナブを連れて、紅葉の葉が舞うこの季節に、再びこの場所を訪れた。二人でベンチに座る。
 「わーママみてー。おそらがまっかだねー。」
 「そうだね。きれいな夕焼け。」
 少し風が出てきた秋の夕暮れ。12年ぶりに丘から見下ろした景色は懐かしく、あの頃を思い出させる。
 「おばあちゃんげんきにしてるのかなあ。」
 「そうだね。早く会いたいね。」
 「パパもくればよかったのにねー。」
 「じゃあ今度はパパのお仕事が無い時に三人で来ようね。」
 「うんっ!」
 あの頃と全く変わらない景色が私を安心させ、逆に不安にもさせる。私は「彼」が納得出来るような大人になれただろうか。あの時私がしたことを、「彼」は許してくれただろうか。
 「ねえママ。ここってかぜがつよいんだね。ボク、ちょっとさむいよー。」
 「じゃあ手を繋ごうか。ほら、これで温かいでしょ。」
 「うんっ、ママのてあったかいよ。」
 その時突風が吹いた。あの日のように激しくて荒々しい風が私とマナブの間を通りぬけて、私は反射的に目を閉じた。そして、目を開けたらきっと、「彼」がその答えを教えてくれると思った。強い風を受けて紅葉の葉がわさわさと揺れる音が聞こえる。その時マナブの手にギュッと力がこもった。

 「わあママ、みてみてー。ぱちぱちーしてるみたーい。」
 ハッとして立ち上がり目を開けると、そこにはまるで幾千もの赤い手が、拍手をしているようにざわざわと風に揺れている。風に乗って落ちてきた一枚の紅葉の葉が、ふわりと頭に舞い降りて、私の髪を優しく撫でた。
 「ママー。」
 そう聞こえたような気がした。

 ああ、生まれ変わったあなたが、今ここにいるのですか。
 私が再びこの場所に帰ってきたことを喜んでくれているのですか。

 目の前の景色が一気に滲んでぼやけてくる。もうどれが夕焼けの空でどれが紅葉の木かも判らない。私の視界は靄のかかった赤い世界だった。我慢できずに両手で顔を覆う。溢れる涙を止めることが出来ずに、ただただマナブに気付かれないように、私は声を殺して泣いた。

 「もおママってばー。はやくおばあちゃんのところにいこうよー。」
 私を呼んだのはマナブだったのか。てっきり「彼」かと思った。
 「そうだね。じゃあそろそろ行こうか。」
 「うんっ。」
 私は急いで涙を拭き、再びマナブと手を繋いで、実家への帰路を急いだ。その道は、もしかしたら未来に向かって続く道なのかもしれない。過去に囚われて後悔を拭い切れなかった自分をここに残し、その代わりに「彼」の思い出を拾い上げて、私は「彼」と一緒に歩き出した。彼のおかげで歩き出せた。

 「ママー、ほんとにはくしゅにきこえるねー。」
 風がどんどん強くなっていく。葉の騒めく音がより一層大きくなり、落ち葉がひらひらと踊る。
 「もみじさんたちばいばい。」
 マナブがそう言って手を振ると、風に揺れながら舞い落ちるたくさんの赤い手が、一斉に手を振り返した。