文学を殺せ
「文学」という言い方が嫌いである。そもそも。 「文学」=「文章による学問」などと定義した時点で、 我が国における文学の魅力は半減してしまった。 「文章による学問」イコール「学校の授業」、 すなわち「他人に強制されること」である。 そんなものに魅力を感じられるようになるには、 ある程度の人生経験をつみ、 ホップなレベルでの倒錯心理を体得していなければ不可能であろう。 そういった意味で、「音楽」という言葉は実に美しい。 「音を楽しむ」のである。発音してみただけで気持いい。 残念ながら、クラシック音楽だけは、 「学校の授業」に吸収されてしまった感があるが、 いまだにジャズとか、J-POPとか、ヒップホップとかトランスとか、 「音楽」とは「授業以外」にも存在するのだということを、 あれこれ名前を変えて主張するだけのバイタリティを持っている。 若者たちが支持し続けるのも当然である。 その点、文学は。 声に出しただけで、無意識のうちに眉間にシワがよってしまう。 本来あるべき「文楽」の名を、 古典人形劇(といえばいいんでしょうか、よくわかりませんが)に奪われたまま、 密室的イメージの中でもがいている。 本来「自発的に楽しむもの」であることを、 すっかり忘れ去られている。 結果、「文学者はアタマがいい」「秀才である」 「なんだか知らないけど、とにかく偉い」 といった迷信が、いまだにまかりとおっている。 インターネットの、創作系の掲示板などを見ていると、 すぐに学歴とか、読書歴とかをひけらかす阿呆が出てきて、 議論をぶちこわすのがいい例だ (特別ことわりを入れていなくとも、 ネットとは根本的に匿名性の強い媒体である。 人類のホンネが凝縮されているといっても、 過言ではないだろう)。 なるほど、過去の偉大な作家たちは、東大出身者が実に多い。 だからといって、彼らがみな秀才だったとは考えがたい。 だいいち、わたしたちの周りにいるメガネの秀才君たちが、 ハタチそこそこで、 突如「限りなく透明に近いブルー」とか「ベッドタイムアイズ」、 「四畳半襖の下張」のような文章を書きだすとは とても思えないし、事実書かないだろう。 ではなぜ、偉大な先人たちが、 学歴をも偉大だったかといえば。 我が国が「神の国」であるなどとホンキで信じていた時代に、 4年制大学に入れてもらえるだけのカネを、 親が持っていたからである。 カネ持ちであるということをは、ヒマだということである。 余計なことを考える時間が多いということである。 四六時中余計なことを考えていれば、余計な本も読みたくなるだろう。 読書が過ぎれば、眼も悪くなるであろう。 いつのまにか、秀才然とした風采になっているであろう。 しかし。 彼らは別に、「文章という学問」を「勉強」していたわけではないのである。 わたしたちが、サーフィンに興じたり、スノボーに出かけたり、 ナンパを試みて撃沈したりするのと同じように、 文章を読んでいたに過ぎないのである。 さまざまな体位に挑戦してみるのと同様に、 物語を想像して楽しんでいたに相違ないのである。 茶髪、ロン毛&計算された不精ヒゲ野郎に変身するかわりに、 メガネをかけて出っ歯になったのである。 サーフィンが上手で、RV車を乗り回していて、 ブランド品にくわしいからといって、 けっしてキムタクにはなれないように、 高学歴で、文学部を主席で卒業して、 あらゆる名著を読破したからといって、 誰もが芥川賞を取れるわけではない。 「文学」が「文章による芸術」、いや、 「文章によるスノーボード」、さらにいえば 「文章による秘技四十八手」であると気づくことから、 すべてははじまるのである。 というか、そうでも思わないと、 小説なんか書いてられんよ。実際。 以上 |