飯島辰裕






 いわくつきの鏡でした。それは友人から借りたものでした。どうして、そんなものを持っていたのか。その友人は、決して教えてはくれませんでしたが、なかなか、きれいな鏡でした。円型をした鏡面の裏側には、湖水に遊ぶ鳥達の姿が刺しゅうされていました。やわらかな布が貼りこまれていて、それは、ひややかな鏡面とは不釣合いのようで、あるいは、そうではなかったようでした。二羽のうち、どちらかは雄で、どちらかは雌だと思いましたが、見分けはつきませんでした。見た事のない鳥でした。現存していない鳥だったのかも知れません。羽は緑で、尾は紫。頭は金色、目玉は真っ赤という具合の、まるで、でたらめに縫ったような色づかいの、刺しゅうでした。

 友人の話によると、その鳥達。たまに鳴く、との事でした。鏡面のほうをおもてにして伏せておくと、くぐもった鳴き声が響いてくる、と。彼は、おおげさに身振り手振りを加えながら、話してくれました。と言うのは、裏返しにしたらどうなるかと、友人の冗談話に付きやってやるつもりで尋ねたからでした。すると、彼。何も言わず、呆けたような表情を見せながら腕をかるく上下させて、鳥が羽ばたく格好をしました。刺しゅうの鳥達が慌ただしく羽ばたいて飛び立とうする、との事でした。しかし、飛び立つ事ができず苦しそうにもがく、との事でした。金色の羽がうごめいて水色の糸をうねらせる、との事でした。

 しかし、私の目の前で、はたして、鳥達は鳴かなかったし、羽ばたきもしませんでした。その鏡をたまにのぞきこんだり、はたいたりしてみましたが、やはり何も起こりませんでした。次の日も、その次の日も、何事もありませんでした。そうして一週間ほど、いわくつきの鏡、と過ごしてから、その友人宅へ出向いて、鏡を返す事にしました。「どうだった?」 彼には、つまり神経症のきらいがあって、虚言をする癖もありました。そして、いつも相手の反応を確かめたがっていました、その、虚言に対しての。その事を思い出しながら、言葉を選んで、「ああ。たしかに鳴いてた。でも、飛び上がったりはしなかった」と、それらしい嘘をつきました。すると、彼。「そうだろ? 変な鏡だろ?」 やけに嬉しそうな調子で、まくし立てました。

 ある晩、その友人から電話が入りました。「どうしよう。鳥がいないんだ。どうしよう」 わけが分からず、とりあえず、彼の元へ、いわくつきの鏡、の元へ再び向かいました。程なくして友人宅に着いてから、そこで見た、いわくつきの鏡、は見るも無残な姿になっていました。鏡面には、ひびが入って、小さな破片が床に散らばっていました。刺しゅうが入っていた所は、むしり取られて、確かに鳥がいなくなったように見えました。確かに。友人は、せまい部屋の中を行ったり来たりしながら、どうしよう、どうしようと呟いていました。ほうっておけば、いつまでもぐるぐるとやっていそうでした。「飛んでっちゃった?」 声をかけたら、彼は歩を休めて、首をかしげました。「いや」 彼は続けました。「外に出たがってたから。手伝ってやろうとしたんだけど」 そう言いながら彼は拳を突きだしてきました。指の隙間から、色とりどりの糸きれが覗いていました。「うまくいかなかった。もう鳴かなくなった。ほら死んじゃった」 彼がゆっくり手をひらくと、糸きれは力なく床に落ちていきました。

 それからというもの、彼は、その鏡には、あまり興味を示さなくなったようで、彼特有のざれごとも、なりをひそめてしまいました。ただ、あの鏡だけはいまだに彼の手元にありますし、あいかわらず鏡面はひび割れて、もちろん、鳥の刺しゅうがはがれたままになっています。なぜ、捨ててしまわないのか。一度だけ、彼に尋ねた事がありました。すると彼は、こたえてくれました。「捨てちゃっても構わないんだけど、困るだろ?」 再び尋ねました。「誰が?」 「鳥が。もし戻ってきたりしたら」 「帰る場所がないんじゃないかって?」 「そうそう」 「戻ってくるとおもう?」 「まさか」 彼は、何をいまさら、馬鹿馬鹿しいとでもいったふうに手をひらひらとさせました。そしてタンスの上に横たえている、あの鏡を一瞥したきり、何もしゃべらなくなってしまいました。「もう帰るわ。またね」 返事をしない彼をほうって、外に出てから彼の部屋の窓を振り返ったら、彼が顔を覗かせていました。彼の金髪が、風になびいていました。