Like a Little Lyry Girl 土手の頂上は丁寧に踏み固められて土手の傾斜に近づくまでろくに草も生えていない。土手下には遊歩道があって、そこもこの時間ともなると犬の散歩がてら歩く人の姿も見えるし自転車の通行もある。ほとんどは学生か主婦だった。老人はあまり見ない。 深い紺色のコートの下から中学校の制服のジャンパースカートのプリーツが頬を撫でる程度の風に揺れる。穏やかだが、空気は冷たい。Pコートジャケットの上から赤いマフラーを巻いているが、肩までの長さの髪の大半を巻いたマフラーが中に収めている。風で揺れるのは前髪ぐらいだ。遡良(ソラ)の姿のほかにも学生服姿はちらほら見えた。 ゆっくりと背の短い草を踏みながら土手の下りの腹を降りてゆくと、その先にベンチがいくつか環状に並び中心に花壇がある。今の季節は何もない。そのベンチのひとつに座る男の隣に腰掛けた。 男は手に持っていた包みを渡す。 「はい、これ。デニムスカート」 「あ、ありがとう。わたし今日持ってきてないや、借りたズボン。洗濯してくれたんだ、ありがとう」 彼女は紙袋の中を確かめながら礼を言った。 「いや、いいよ。タイツと下着は言われた通りうちで処分した」 星野は黒地で綿の詰ったナイロン製のボアの付いた上着のポケットを探り、煙草を取り出した。風が水面(みなも)を走る。びゅう、と。土手の上で挨拶を交わす声がひどく現実感を欠いていた。 「まだお話を書いていますか?」 星野は静かに尋ねた。 「うん。できればそういうのを書いて暮したいと夢見ていたんですけど」 「勉強はしなくていいんですか?そろそろ受験では?」 「わたし、高校は行きません」 「どうしてですか?」 それには答えなかった。代わりに星野が唐突な願いを申し入れた。 「何か、聞かせてください」 「わたしが書いた話を?読むんじゃなくて?」 遡良は驚いて訊き返す。 「何も書いて本にして読ますだけが能じゃないよ。音読というのもある」 「まぁ、そうだけど。”そら”で読みあげるの?」 「空に読み上げるんだ」 「お話を?」 「言葉を集めて紡ぎ、話を」 遡良がすぅと大きく息を吸い込んだその瞬間。ひっきりなしだった風は凪ぎ、冬の何もかも褪せたような紗幕が剥がれ落ちて洪水のように季節がいくつもルーレットの中を巡る。晴天の海に浮ぶ島や大陸のような雲が早回しで流れるようだった。鳥は羽ばたくのをやめ、木々はざわめくのをやめた。唯一、星野の合図。 「思いうかべること、感じたままを、言葉に話す」 あれて はてた とちの みずぎわに かげろう あれは はてた ゆめの みずの たれるおと あれは かれた むこうみずな われもこう あるいは わかれた ゆめの もうかたほう おう おう くろいくもが おおう あう あう たちこめる あんうん しあわせな らいせの おうせ ふしあわせな おうせき どうせ あれは あれて はてた ゆめの みずぎわの かげろう つかまえろ かれた むこうみずな われもこう そのむこう とおくのほう とんでゆくよ そら とんでゆくよ わかれた もうかたほう そら とんでゆくよ ゆめの もうかたほう じしんを しろくも くろくも したくないけど しろくも くろくも しかたないけど 「どうしたの?」 遡良は驚いて横を見た。赤いマフラーの先、フリンジが舞っていた。目の前の宙を風が川からさらってきた水の微粒子が視界を横切るようにスローモーションで浮遊していた。その横薙ぎの風に太陽の日差しが反射し、キラキラと虹のように煌いた。細かい微粒子はシャボン玉のように弾けては消え、そしてまた風が吹くたびに生まれた。遡良はその光景越しに眩しそうに星野を見た。 「…何でもない」 「でも、泣いてるよ」 彼女は心配そうに言った。星野は膝に手を置いたまま俯いて涙を零し続けた。涙がスエード生地のスニーカーの甲に落ちて、色を変えて丸い染みをつくった。 「光りの言葉だ」 星野は誰にも聞こえないぐらい小さく呟いた。 「あのマフラー好きだったのにな」 彼女はそう言った。 (第2話 おわり)
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