接頭語




森下








 共和的な、封建的な、神秘的な、内在的な、懐疑的な、神聖な、多義的な、実存的な、形式的な、存在論的な、父権的な、モダンな。そういう言葉を思いつく限り並べてみる。そして、それらに対して抱く 「好きか嫌いか、肯定か否定か」 程度の簡単なイメージを、速く、率直に、書き出していく。

 前衛の作法は反省の特産物だ。と、僕らは聞く。引き裂かれたキャンバス、静寂の音楽会、白い頁。なるほど、これらは確かに発展思想の申し子たちかもしれない。生まれ、成長し、死ぬ、といった終末論的な。どこかに向かって進んでいる、といった線状的な、有能な技術者と感性豊かな芸術家のユートピア思想。彼らが苦心の末に与えるのは 「死」 なる発展的形式。さて、彼らの白い頁が過去を笑い飛ばしたか?、或いは 「死の形式」 を与えざるを得なかった自らを嘆いたか? そんなの僕らは知らない。

 過去の名所をゆらり旅。気まぐれバックパッカーの手帳には観光地のスタンプがずらり。未知の秘境へ思いを馳せ、冒険の技術を競う向上心よりも、過去の作品や既存のイデオロギー間をひやかし程度に横断するために気楽さが欲しい。進化論的発展思想を脱出して横蹴りを入れ、これまでの反省を並列的に、包括的に着床させよう。僕らには、中庭に植えたあらゆる形式を観賞する心と、ガーデニングの技術が必要だ。それがあれば、君の場所は世界を攻略する指令本部となる。ああ、反吐も出ない。

 ようするに僕らは、優性系統が劣性系統を駆逐して支配するような、進化論に基づく科学と文化の発展を信じない。合体ロボットやプラグスーツ、共産党宣言や構造改革は愛でるべきフェティッシュでしかない。また、集中より拡散、執着より乖離を掲げて発展の足を止め、多様性を享受しようとする態度には飽きてしまった。結局それは永遠にアプローチショットを繰り返すだけで、その形式美に収斂する気がしてしまう。詰め将棋の美しさは分からないでもないけど、それで余生を過ごすには、僕らは、若すぎると思う。

 何かを殺そうとか破壊しようとする時の分かりやすい仕方は、形を壊してしまうことだけど、そんなのどこにでも見つけられる。「発展か停止か、一様性か多様性か」 といった形の二者択一なんて、在るのかどうかすら分からない。それよりも、真っ先に殺すべきは僕らの絶望的な癖。破壊すべきは、あの、蛇が誘ったおしゃべりの実。

 文章は冷たくて、僕らは疎外感だけを得ていた。どんな形の文章も、まるで理解を妨げる目的で在るかのように、思わせぶりなだけ。饒舌な私小説ですら 「書かれていないことを読め」 と要求する。言葉の連なりが喚起するイメージ、行間に潜むメッセージ、隠された真実。それらの 「発見者」 は文章と秘密の関係を結ぶことができる特権階級? 自由が好きで抑圧が大嫌いな僕らは、もちろん、そんな前時代的階級思想を認めない。見えないから真実に見える、なんてカラクリでいつまでも騙せると思ったら痛い目を見る。既にみんな 「君たちと僕らが大切そうに隠していて、そのくせ見せびらかしたい宝物は、ガラクタです」 と言っている。

 だから、「神秘的な---好き」 とか 「実存的な---嫌い」 とか、そのくらいのイメージだったら僕らにも分かるから、それだけ書いてあれば文章側は、もういいよ。あとはこっちで好き勝手にやらせてもらうから。そんな--