クイズ・みのもんた!




岡崎梓







■2002.1.2−2002.10.10
 「ラヴ・アンド・ピース、フォーエヴァー」。あけましておめでとうございます。
 わたくしが今年、いちばん最初に読んだ本は、大塚英志さんの『サブカルチャー反戦論』(角川書店、2001・12)という本でした。要するにこの本に何が書いてあるのかというと「戦争はよくない」というこの一点です。すばらしく明瞭。言葉づかいもやさしいし、読みやすかったですよ。
 さて、大塚さんはおかんむりです。文学は「いまどうしたらいいのか」という読者の質問(欲求)に答えていないのではないか、というのです。大塚さんによれば、今回のアメリカ同時多発テロとその報復としてはじまった戦争に関して、文学者と呼ばれる人々がきちんと文章でもって反応をとることはほとんどなく、活字になってあらわれた戦争に関する反応の多くはサブカルチャーに携わるひとびとによってなされたということです。大塚さんはこのことを強く批判していて、たとえばまっさきに槍玉に挙げられているのが柄谷行人さんです。柄谷さんは自身のホームページでもって、戦争に対して次のように発言しているそうです。
 「しかし、1999年の時点で、私はもうそんなことについて一喜一憂する気はなくなった。戦争に向かうに決まっていたからだ。だから、そのころから、私は『戦後の思想』について考え始めた。それは第二次大戦後のことではない。これから起こる戦争の『後』のことだ。とはいえ、それは第二次大戦の『戦後』と無関係ではない。われわれはあの愚劣な『戦後』をこそ反復してはならないのである」。
 文学者たるもの、今から戦後のこと考えてるより、戦時下にこそ発言をすべきだ、と大塚さんは言う。タレントのような純ちゃんに人気が集まり、日本国民全員が右傾しつつあるなか、文学者こそが反戦を訴えるべきなのだ。「戦争反対!」と言うことがどことなく恥ずかしく非論理的にきこえるのは、そのぶん右の論理が世の中に出回っていて聞きなれているに過ぎず、戦争反対ならば戦争反対と言える状況を作るためには、言葉のプロである物書きが戦争反対の言説を世の中にばらまかなければならない、と大塚さんは主張する。
 ところが大塚さんは、この本の中で自身を「サブカル屋」と表現する。それは「ぼくはサブカル屋なのに文学者の代わりをやったってるんだぞ。もうちょっとしっかりしろよ、文学者っ」という逆説的なエールに聞こえました。なぜなら「サブカルチャー」という言葉自体が、文学などの「ハイカルチャー」と対照関係になければ、存在することのできない言葉であるからです。文学を殺してしまいたかったら、「文学」という言葉はおろか、「サブカルチャー」という言葉すら使うべきでなかったのです。
 そう、たぶん大塚さんは、文学を殺そう、とは思っていないのだと、わたくしは思います。むしろ大塚さんは、文学に積極的に参加しようとしているのかもしれません。これは「反戦」という言葉についても同じで、「戦争反対!」という言葉は、「戦争賛成!」という言葉と向き合っています。反戦を叫ぶことはもしかすると、まわりまわって戦争に加担することにはならないでしょうか。柄谷行人さんが戦争を無視して戦後について語ろうとしたのは、戦争を語らないことによって、戦争に加担することを避けようとした結果なのかもしれません。
 わたくしは戦争には加担したくありません。だから「戦争反対!」と言いたいです、ぜひともそうしたい。けれども、そう言ってしまったら、戦争に加担したことになるかもしれない。じゃあ、戦争については何も話さないようにしてみよう。しかし、それは無責任なんじゃないか。わたくしはいったいどうしたらよいのだろう、とわたくしは思うのです。
 最近、小林エリカさんの『空爆の日に会いましょう』(マガジンハウス、2002・8)という本を読みました。かのじょは去年の10月8日、アフガニスタンに対するアメリカの空爆がはじまった夜から、反戦運動をはじめました。その内容は、空爆のあった日には「ひとのウチに泊まりに行かなくてはいけない」、「そこでセックスをしてはいけない」、「そのときの夢日記を書かなくてはいけない」という三か条でなりたっています。  空爆はいっこうに終わらなかったわけですから、かのじょはずっとウチへ帰らず、友人・知人から、面識のない「知人の知人」まで、あらゆる「男子」のウチに泊まり、しかしセックスをしてはいけなく、夢を覚えていなければならない、という浅い眠りの日々を送ります。これはとても意味のある行動であると、わたくしは思いました。その意味というのは、「反戦運動」だから「意味がある」、という単純な図式にはおさまらない、とてもひねくれた意味です。
 小林さんは一夜限りの淡い恋心ともいえない恋のようなものをし、セックスについての思考を繰り返します。それから、泊まりにいった人のウチでいろいろごちそうになるので、数キロふとります。それから、そうした運動を通じておともだちの輪が広がってゆきます。そうした日々は、ふだんセックスなどとは程遠い日々を過ごし、いつもひとりでごはんを食べて、ひとりでねむっているわたくしにしてみれば、とてもたのしい生活のように見えるのです。小林さんの反戦運動は、わたくしの日常と比べてみたときに、とても裕福なものに見えて、わたくしは嫉妬すら覚えました。
 しかしそれでもわたくしは、小林さんの反戦運動を「無意味だ」とか「自己満足だ」とか、言うつもりはありません。小林さんの反戦運動は、「日常」と「戦争」をごたまぜにして、みずから「東京の難民」になってみること、ここにポイントがあります。それはある点において裕福に見えるかもしれない、そして自己満足に見えるかもしれない。けれども、そのような反戦運動は、「小林さんの日常(戦争)」を生きる小林さんにしか、価値がわからないものなのです。
 そのとき、わたくしはどうやって日常(戦争)を生きてゆけばよいのでしょうか。
■2002.10.9−2002.10.10
 というわけで、原節子は荒川区に住む専業主婦なのである。と一文書いてみて、わたくしは疲れてしまった。こういう言い切り方は、照れくさい。でき得る限り、照れくさくないようにしてみたのだけれど、どうも、照れくさい。きょうはビールをのんで、眠ろうと思った。富山市掛尾町のディスカウント酒屋「やまや」で買った、「BackShoot」という名前の安い輸入ビールである。明日になったら、続きが書けるかもしれないし、書けなかったらもう一度、考え直そう。
 さて、原節子はバブルの最盛期に短大を卒業して、すぐに神田の小さな印刷会社に就職した。初出社の日、十歳ほど年齢の離れた男の先輩が原節子に仕事を教えた。お茶を汲んでください。わたくしがお茶を買ってくるのですか。リプトンの紅茶です、緑茶ではありません、印刷会社には出版社のひとがよく来ます、そうしたら、話題に困るでしょう、出版社の方は、そして印刷会社の者もですが、お天気の話をあまり好みません、雨が降ると本が濡れるからです。出版社の方は傘をささないのですか。天気の話は厳禁です、出版社のひととは東京堂書店の話をしてください、そこにある、東京堂書店です、出版社の人は雨が嫌いで、東京堂書店が好きです。東京堂書店はどこにあるのですか、すなわちそこというのはどこのことですか。
 原節子はその先輩に連れられて、その初出社日のアフタアファイブに東京堂書店に行き、スペンサー・ジョンソン『チーズはどこへ消えた』(扶桑社、2000・11、門田美鈴・訳)を23冊購入し、地下鉄神保町駅近くの天丼の専門店で天丼を先輩におごってもらい、少し歩こうか、と言われて歩き、ラヴホテルに連れられてセックスをし、次の日に結婚をして退社して、その次の日に子供が生まれたのだけれど、その子供は旦那の子供ではないわけで伯母さんに預けて、2002年10月5日、子供の14歳の誕生日のことである。
 朝、原節子は食卓に、ごはん、目玉焼き、ハム、ほうれん草のソテー、海苔、わかめの味噌汁、を並べていた。原節子の旦那は文句を言った。わかめが少ないぞ、おうい、わかめが。原節子の旦那は、頭髪が薄くなってきていた、だからわかめの分量には気を使うのである。テレヴィジョンには、昨日の夜に録画しておいた『筑紫哲也ニュース23』(TBS系列、1989−)が流れている。そのエンディング、坂本龍一の音楽が流れ出したとき、ふと原節子の旦那は、アデランス、と言った。何ですって。いや、アデランス、アデランスに電話しておくように。
 原節子は、もうだめだ、と思った。
 あのころ原節子には、神田の小さな印刷会社のほかにも、何社も何社も、就職斡旋の声が掛かっていた。現在の就職難が嘘のようである、ひょっとしたら本当に嘘なのかも知れないし、本当のことかも知れない。原節子には、よくわからない。筑紫哲也の言っていることはみんな本当なのかと問いたい、問いただしたい、旦那を。ともかく短大時代の原節子には、神田の小さな印刷会社のほかにも、何社も何社も、就職斡旋の声が掛かっていた。たとえばゼミの教授から。たとえば演劇部の先輩から。そのなかから原節子は、いちばん地味な会社を選んだ。東京がボディーコンシャスでお立ち台だった頃、原節子はそれが嫌で、堅実に働きたい、と思っていた、結婚相手を見つけるために会社に行くわけではない、と思っていた。けれど、原節子は結婚した、三低の男と、である、情けない、自分が情けない。しかも、旦那は禿げてきた。アデランス。ア、デランス。アデラ、ンス。ア、アデラ。
 原節子は、アデランスに電話する代わりに、オー人事、オー人事、と人材派遣のテンプスタッフに電話をかけた。はい、テンプスタッフです。わたくしはこのところ主婦だったのですが、それなら家政婦です、間違いなく、はい。原節子はしゃべろうとした台詞の途中でテンプスタッフに言葉をさえぎられたことに気を取られて、テンプスタッフの声を聞き落としてしまったので、パードン、ミー、と言った。家政婦をしてください、ハウスキイパアをプリーズです、地下鉄新宿線瑞江駅から徒歩23分の場所です、ファイナル・アンサーですか。はい、ファイナル・アンサーです。では、Bの2002年10月25日から出勤ということで、お願いします。
 正解。
■2002.2.27−2002.10.10
 香山リカさんは『多重化するリアル』(廣済堂出版、2002・1)でこんなことを書いている。「現実感がない。自分が世界や出来事、さらには自分自身にとっても”傍観者”だとしか思えず、”当事者”だという意識が持てない。この感覚が強まりすぎて日常生活にまで支障をきたした状態を、精神医学では『離人症』と呼ぶ」。「自分にも身体にも外界にもリアリティを感じられず、すべてのものや出来事との間に一枚、膜ができてしまい、いつも”傍観者”でしかいられないという事態に、大きな苦痛や奇妙さを感じる。『これが現実だ』というヒリヒリしたリアリティを感じ取る感覚は鈍麻しているのに、『現実だと感じられないのは異常だ』と感じる感覚はむしろ鋭敏になっている。このパラドキシカルな感覚の二重性もまた、離人症の人たちの大きな特徴だと言われている」。
 このように香山さんは障害(病気)としての「離人症」を紹介しながら、テロ事件のことを例に出して、わたくしたちがみな離人症的な状況にあるんじゃないか、と指摘する。あの時、わたくしは、ニュース映像が映画のようであると感じた。しかし、わたくしは、実際に恐怖を感じているし現実として受け止めようともしていた。だが、同時に、テロ直前の事件(小学校に殺人鬼が現れた事件とか、歌舞伎町のビル火災とか)なんかを何故か思い出して、「殺人鬼がいれば、ビル火災があって、テロもある」なんて醒めた感想を抱いて。なおかつ、そんな自分や社会を恐怖して。そんなふうにあの夜をすごした。こんな状態こそ、香山リカの指摘する離人症的な状況にほかならない、とわたくしは自己分析する。
 さて、そのような離人症的状況を打破するためにはどうすればよいのか。ということが述べられる本書だが、最終的には、この状況の行き着く先は、自分が一つでなく現実も一つでないという状況を「離人症」という病気として捉えるのではなくこれこそがスタンダードなのだという価値転換を図るか、芸術家の妄想のような恍惚や不安や狂気や死が隣り合わせの世界に生きるか、の二者択一しかない、という。なんてこった。もう解離した自己を統合する手段はわたくしたちには残されていないというのである。「たとえば、だれもがインターネットを使える環境をすぐさま閉鎖し、携帯電話のメール機能を停止する。そうやって世界が多重化しないように、コミュニケーションがなるべく目の前の現実の中にとどまるように、と最大限の注意を払いでもしないかぎりは、解離の進行を止めることはできない」。そんな無茶な。
 アイデンティティの崩壊。広い世界から「わたくし」というものを他の事物と「区別」する、こんなあたりまえのこと(だって、わたくしとあなたは違うし、わたくしは椅子でもガラスでもトマトでもなくあくまでわたくしなのだから)が、いま、揺らぎつつあるのではないか。わたくしは次に、河合隼雄・成田善弘(編集)『境界例』(日本評論社、1998・3)という本を図書館で借りてきました。「境界例」という病気を正確に定義することはむずかしく、幾通りもの定義の仕方があるようだが、わたくしの理解の範囲でまとめてみるに、「境界例」とは「境界に悩むこころの状態」のことだ。まあ、あたりまえだね。じゃあ、「境界」ってなにとなにの境界のことですか。自分と他者、あるいは自分と自分のいる空間、その間に存在するはずの境界、をうまく認識できない、わけである。
 紹介した本の中で、辻悟さんはわたくしたちが赤ちゃんだった時のことを、書いています。「発達的にみれば、誕生とともに、人間はやがて現実を認知するようになる。必然的にそれまでは、現実と非現実とが区別されずに、合一的に受け止められていることになる。そこでは自分と自分の受け皿である状況とも区別されず、合一的に体験されていたであろう。誕生後の世界では、認知の程度の展開にはいくつかの段階があるにしても、まず現実が見えてきたその時には、見えているものがすべてで、見ている自分に気づくのは次の段階と考えられる。見ているものがすべてという段階では、自分は見えているものに合一されている。境界例の体験の受け止め方は、この段階に対応している」。
 さて、境界例の具体的な症状だけれど、分裂病っぽくて、うつ病っぽくて、人格障害っぽくて、といった感じで、いろんな病気の境界線上に乗っているのが、境界例、ということらしい。「境界例」の「境界」という言葉は、自分と他者の境界、自分と自分のいる空間の境界、がわからなくなる、という「境界例」ということばの概念的な「境界」だけでなく、病気と病気の境界、という医学的区別の「境界」をもさしていて、つまりあらゆる「境界」の隠喩として用いられているのだ。
 自分と他者の区別ができないことで、どんな風にこまるのだろうか。他者との距離感がうまく取れないのである。つまり、他者に近づきすぎたり、近づけなかったり、するのである。人間は、場面に応じて、「自分は自分」として行動することもあれば、誰かと心を通わせることもある。けれど境界例の人々は、そうした使い分けができず、自己中心的に振舞ってしまうことがあれば、他人を完全に拒絶したり、見捨てられることに過剰不安を抱いたり、してしまうのだ。
 河合隼雄さんはこの問題を「性」をモティーフにして考えている。セックスというものはいままで、それぞれ別個の個人と個人が一時的に融合することのできる現象だ、と思われてきた。けれど、現代になってからは、「性」にまで科学が入り込み、学問的研究がなされるようになった。「このため、性体験における主観的側面がなおざりにされてしまった」。「このような性に対する現代的傾向の歪みを、境界例の人たちはモロに受けているように思われる。一方の極は、性に関する完全な拒否である。そこにおいて生じるかもしれぬ融合に対する拒否のため、まったくの『切断』を行なう。あるいは、逆に無意識には融合の可能性としての性に惹かれつつ、それを無理矢理に対象化しようとして、性に関する肥大した関心や、感情抜きの好奇心などが示されたりする。あるいは、性体験を次々に重ねるのだが、自分の欲している融合体験とは、ほど遠いので満足できず、自暴自棄になりながら性関係を求めるようなことにもなる」。
 ここまでを改めてまとめておくと、わたくしたち人間はどうやら、アイデンティティの崩壊に直面しているらしいです。そのアイデンティティの崩壊というのは、自分と自分の周りの区別がつかなかったり、赤ちゃんぽくなったり、他の人とうまく関係を結べなかったり、他の人に頼りすぎてしまったり、狂気や死の世界と共に生きるという、けっこう絶望的な状態です。
 けれど、そこにも希望の光は射すのだ、あっはっは。
 病気、ばんざい。スタジオにお返しします。
 香山リカさんはこんなふうに言っている。「私たちは近代以降、ずっと『統合された自己』というものの存在を前提に思索し、社会システムを作り上げてきたわけだが、はたしてそれは正しかったのだろうか。『ひとつの心、ひとつの現実』じたい、私たちが作り上げた幻想でしかなく、自己も現実も実はもともと多重多層なものではないか。そうだとしたら、私たちはやっと世界の真実の姿を目にしはじめ、あるべき自己の姿を取り戻そうとしているところなのかもしれない」。
 同じようなことを河合隼雄さんも言っています。境界例の「治療者にとって必要なことは」「近代自我を拒否するのではないが、それをよしとして、自我の強化のみを治療の目的にするのではなく、近代自我とは異なる視点から」「ものごとを見ようと試みることではないだろうか」。つまり、「境界例がまさに『境界』の問題を提起するものとして、現代におけるあまりに強い二分法的思考に対する自然からのプロテストとしてみることができる」というわけです。
 ものすごくくだけた言い方すれば、あんまりものごとカッチリ分けて考えずに、曖昧な思考も認めて行こうや、というこっちゃな。そうしたときに、わたくしたちは今生きている近代という制度から抜け出すことができるんだ。そんならわたくしは、近代においては病気と判断される精神状態をもってしても、次の時代が見てみたい。わたくしがすでに病気であるから、それが病気と思われない世界を構築したい、と自分勝手に思っているだけなのかもしれないけれど、でも、新しい世界を夢みることは、けっして悪いことじゃないと思うんだ、どうかな。
 中村一義くんの新しいアルバム『100s』におさめられた「新世界」という曲の最後の部分に「マインド・ゲームの終わり、マインド・ベースの世界。」という歌詞があります。わたくしはこの夏休みに、遅ればせながら中村一義くんの音楽に出会って、かれのオフィシャル・ホームページを見たら、わたくしと出身地が同じだったので、ほぼそれだけの理由で中村くんに惚れてしまいました。いまも中村くんのCDを聴きながら、これを書いています。
 わたくしは1980年きっかりの生まれなので、どうしても90年代の文化を基礎にして生きてゆくことになるのだろうと思っているのだけれど、それを振り返ってみるに90年代はあまりに「マインド・ゲーム」に溢れた時代であったと思います。たとえば、わたくしは中高生の頃、テレヴィドラマにのめり込んでいたのですが、猟奇殺人とプロファイリングをテーマにした『沙粧妙子最後の事件』(フジテレヴィジョン、1995)、大竹しのぶさんが多重人格者を見事に演じきった『存在の深き眠り』(NHK、1996)、人間の深層心理を刑事ドラマのパロディで分析した『ケイゾク』(TBS、1999)など、90年代には人間心理をテーマにしたさまざまな名作が生まれています(人間は自らの心理に関心をもって当然だ、しからばそういうテーマのドラマはいつの時代にもあるはずだ、との批判もありましょうが、時代の雰囲気として90年代に深層心理がもてはやされたことは間違いないと、わたくしは思います)。
 わたくしは、そうしたドラマを異世界のものとして、あるいは芸術として鑑賞していました。しかし、「マインド・ゲーム」はもう終わりです。いままでゲーム(ロジック、芸術)としてたのしむことができていた、客観視することができていたものは、いまや実際にわたくしの精神を蝕んでいます。「マインド・ベースの世界」を生きるわたくしは、近代の次の時代へ進みます。ゴー、ゴー。でもね、近代の次の時代なんて言っても、それはとても漠然としていて。もっとたしかな、具体的な希望をみつけたい。その希望とやらを探して、わたくしの文章はまだまだ続きます。
■2002.10.5
 わたくしは富山県に住んでいます。きょうは「イオン高岡」にはじめて行ってきました。なんでも「北陸最大級のショッピングセンター」らしくて、できたばっかりなんです、新しいんです、はい。JR高岡駅の南口を出て、まっすぐ歩くだけ。道順は簡単だから、みんなも行ってみてね。でも、歩いても歩いても到着しないものですから、「ほんとにこの道でいいんかな」なんて思って。道がまっすぐだから余計に不安でした。砂漠のなかでオアシス探してる感じで、「ガンダーラ、ガンダーラ。ゼイ、セイ、イット、ワズ、イン、インディア」と歌いながら、わたくしは歩きました。タケカワユキヒデさんって子供が何人居るんだっけ、きっとセックスが好きなんだと思いますよ、うん。でね、結局23分歩き続けて、眼前に現れたのは、とても大きな建物でした、「イオン高岡」。ここ数年「北陸最大級」を誇っていた「ファボーレ」というショッピングセンターができたときにも「ひょえ」っと思ったのですが、「イオン高岡」は「うげっ」というような大きさでした。なんというか、「ほんとにこれ、ショッピングセンターなのかな」と疑ってしまうくらい、大きかった。アメリカンなテイストで、あんな建物、見たことなかったよ、ほんとに。
 『ジングル・オール・ザ・ウェイ』(1996)というハリウッド映画を知っていますか。アーノルド・シュワルツェネガーさんがパパ役の映画で、子供のクリスマス・プレゼントを買い忘れています、ダメなパパ。子供が「絶対欲しい」って言っていた人形があって、でもものすごい人気で、「たまごっち」くらい品切れな感じで。だから、クリスマスの当日に買おうと思っても、無理な話なんですよね、だけど、それを「無理」って言ったらパパの面目丸つぶれなんで、そのロボット探しに奔走するんです、パパ。そこでクリスマスで大盛況のショッピングセンターが出てきます、正確にはトイザラスみたいな感じの巨大オモチャ屋さんなのですが、「イオン高岡」に行って、わたくしはそれを思い出したのです。わたくしはこれまで、ハリウッド映画をとりわけ熱心に見てこなかったのですが、この『ジングル・オール・ザ・ウェイ』という映画に関しては、なぜか何回も見てしまって。この映画の一番かんたんな見方というのは、家族にありがちなシチュエーションをコメディーにしている、ということなのだと思うんですが、わたくしはどうもこの映画を笑えないのです。ウェブサイトをいろいろ見てみると、公開当時かなり酷評された映画で、ゴールデン・ラズベリー賞なんかをとっています。しかし、わたくしはこの映画を、「駄作」の一言で片付けられずにいるのです。
 その人形のキャラクターである「ターボマン」というのは、正義のキャラクターです。そしてその正義は、シュワルツェネガーさん演ずるところのパパが、子供のために人形を購入するためならば何でもしようとする正義の姿に、重なります。ところが、パパは途中で泥棒したりしようとするんだ、それにショッピングセンターのバーゲン会場でライバルのパパと殴り合いしたり。はたして泥棒が正義になることもあるのかどうか。暴力が正義なることもあるのかどうか。それにこの映画には、国家権力(大統領や警官)の姿、人種的マジョリティとマイノリティの問題、経済的な階層の問題なんかが、比較的イージー(無神経)な形で扱われています。「だから駄作です」、という言い方をすれば論理的にも片付くのかもしれない。けれど、きちんと作者の意図を汲み取れていないわたくしがいるので、わたくしはまだまだこの映画をレンタルし続けることになると思います。
 わたくしは、『ジングル・オール・ザ・ウェイ』を見るたびに(思い出すたびに)、いろんなことを考えます。きょうは、わたくしは「イオン高岡」のなかにある「イタリアントマト」というカフェで、チリドックを食べながら、アイスカフェオレーを飲みながら、正義のことを考えていました。3時間か4時間ぐらい、でした。そうして、家に帰ってきたら、「東京文芸センター」の潮なつみさんという、いままで面識のなかった方からメールが届いていました。そのメールは、「文学を殺す」というテーマで何か書いてみませんか、とわたくしを誘ってくださっていました。わたくしに、そのような声が掛かったのは、はじめてのことでした。だから、わたくしはとてもうれしくなりました。わたくしのなかを「文学を殺す」ということばが通り抜けました。そして、わたくしの心臓は、ざわめきました。わたくしは、参加します、と即座にメールを返信しました。きっとたのしい執筆作業になるだろう、と淡い期待を抱きました。しかし、そのあと、後悔もしました。なぜこんな難しい文章を、書くことになったのだろう。でも同時に、書かなくちゃならない、という身勝手な正義感も、うまれていました。
 「文学を殺す」と書いただけでは、いったい文学とは何なのかもまったくわからないし、どうやって殺すのかもまったくわからない。「文学を殺す」ことがよいことなのか悪いことなのかもわからない。このキャッチ・コピーはとても卑怯で、だからこそ競作のテーマにふさわしいのだ、とわたくしは思いました。「文学を殺し」たら、血が出るんだろうか。うめき声を出すのだろうか。苦しさに小便をもらすかもしれないし、目玉が飛び出るかもしれない。ううん、わたくしはこんなメタファーに拘泥してはなりません。わたくしが「文学を殺す」というテーマで何かを書くのならば、きれいなキャッチ・コピーの下にある暴力を、リアリティのある形で、愚直に書き直してゆくに尽きる、と思いました。そして、その文章はすでにこうして、はじまっています(誤解の無いように記しますが、わたくしは「文学を殺す」というテーマや企画に対して、批判をしているのではありません。批判をするくらいなら、最初から参加しなければよいのですから)。
■2002.10.5−2002.3.15
 浦沢直樹『MONSTER』(小学館、全18巻)。わたくしがなぜ『MONSTER』はすばらしいと思ったのかというと、第2巻192ページからのなわとびのシーンと、第8巻25ページの腕立て伏せのシーンが好きだからなんだ。「テンマは一日にしてならず」というか、ヒーローの人間くさいとこがよく出ていて、わたくしはすきです。テンマくん、だいすきです。
 それはそうと、最近わたくしの家の近所で道路工事が多くって。年度末だからかしらん。ただでさえ渋滞する道だというのに、工事で一車線減っちゃって、まいったね。なんて愚痴を言うその前に、工事現場にぽっかりとあいた四角い穴をのぞいてみると、けっこうオツなもんです、はい。わたくしは、きのうの夜、近所のコンビニへ行く途中で、それをしてみました。もちろん最初は何の気なしに覗いたのである。穴の中が大きな白熱灯でもって照らされている。そして、わたくしはその四角い穴の底に一本パイプが横たわっていることを確認する。あのパイプの中にはなにが入っているんだろう。水道水、下水、電線、都市ガス、電話線、いったいなんだろう。そんなことを考えていて、全く別のものにわたくしの関心がうつった瞬間、わたくしは愕然としたのであった。
 穴の壁面も、底面も、赤茶色の土なのである!
 だから、どうした。わたくしの住所がいくら地方だとはいえ、都市に住んでいる以上、わたくしの住むまちの道路は、アスファルトによって舗装されている。舗装されている、ということは、舗装される以前の、もともとの地表がかつては存在していたということになる。そして、そのもともとの地表は、たいていの地域において、土で覆われたものだった。ここまで当たり前のことばっかり書いてあります。けれど、わたくしはそれを、知識でしか、知らなかった。というか、わたくしはアスファルトの下には土があるということを、なかば忘れていたのである。そして、その赤茶色は奇妙にわたくしを感動させ、言い知れぬ不安にも襲われたのである。その色の中には、とてつもない怪物が潜んでいるような感じがしたのです。
 『MONSTER』の舞台となっている旧東ドイツやチェコといった地域は、第二次世界大戦の終結から1980年代末まで、社会主義という名のアスファルトでおおわれていた。この物語の大きなモティーフとなっている旧東ドイツの孤児院でおこなわれた教育もしくは実験、それは、生活の息づかいが聞こえてくるようなまちを、都市計画という秩序にもとづいたまちに変更するように、純粋で感受性豊かな少年たちを、感情を持たない東側の論理を体現するためだけの機械に変えたのだ。その結果としてうみだされたヨハンという怪物。アスファルトに抑圧された感情が、悪意と言う形で爆発した。
 ベルリンの壁がとりのぞかれて、東西ドイツは統合された。それは当時、とても喜ばしいニュースだった。わたくしはまだ小学生だったが、みんなが歓喜の声をあげながら壁を叩き割っている姿は鮮明に記憶に残っている(もしかしたらその鮮明な記憶はカップヌードルのCMなのかもしれないけれどね)。さあ、冷戦が終わった後の東側の国々は、ほんとうに自由になったのだろうか。壁が壊されるように、アスファルトの舗装道路も壊されたんだろうか。たしかに社会主義という名のアスファルトはとりのぞかれた。しかし赤茶色の土はふたたび資本主義という名のアスファルトに舗装されなおしたにすぎないのだ。これは第11巻150ページ、旧チェコスロバキアの秘密警察の大物がヨハンの幼少時の声が入ったテープをよこせと言うシーンで象徴的に示されている。「あのテープと資料を、ドイツの友人が欲しがっていてね」。「よほどの金が動くようだな」。「そう……これはビジネスだ」。社会主義の闇の真相が資本主義によって覆い隠されていく。
 わたくしたち日本人は、ずっと西側の秩序の中にいる。そんなわたくしたちが、このような冷戦に翻弄された都市の物語を読んだとき気がつかされるのは、わたくしたちのまちに走る舗装道路は、あくまでも舗装道路なのであって、その下には赤茶色の土がきちんと存在しているはずなのだ、という事実である。そして、土の存在をなかば忘れて、舗装道路が当たり前なのだと思っていると、ある時、抑圧された感情がアスファルトをつきやぶって、爆発するかもしれない、という危険性を、わたくしたちに教えてくれている。たしかに人間の感情には、感動するような美しさの反面、きたないところがあるのだろう。しかし、それをイデオロギーで覆って均一な世界を目指すとき、人間の感情に潜んだ怪物は目覚め、わたくしたちを地獄へつきおとす。ニューヨークの二棟のビルヂングが瓦礫の山と化したように。
 日本人医師テンマケンゾウが自分のとっさの判断で選択しておこなった手術。その手術で命を助けた男の子こそヨハンであった。自分があの時ヨハンを救ったせいで連続殺人が起こっている。しかも殺されるのは自分に関係のある人ばかり。ヨハンが送るメッセージなのか。とうとうテンマに連続殺人の嫌疑がかけられてしまう。そして、ヨハンを追いかけ自らの手で始末することに使命感を感じたテンマの長い旅がはじまる。作品中になんどか出てくるセリフだが、テンマは「世界中の正義をすべてひとりで背負ってしまったような男」である。しかし、テンマくんが一度だって「オレが正義だぜ」と言ったことがあっただろうか。「テンマは正義の人だ」と言うのは、テンマの周囲の人物ばかり。とうのテンマは常に悩んでいる。ヨハンは私が生み出した悪魔だ。私が殺さねばならない。しかし私は医師だ。医師なのに人を殺していいのか。いったいなにが正しいんだ。テンマは悩む。感情に翻弄されて、土まみれだ。だからこそ、テンマは正義の人、にみえる。正しさというものは本来的に、常に揺らいでいるし、そんなにきれいに生まれない。
■2123.5.23
I・E(以下I):今月は、N・Cくんは、どれを拾ってみようと思うかネ。
N・C(以下N):パナソニック太田くんの短編「たのしい園芸」(『ちょー新潮』5月号)が秀逸であったなあ。先々週かネ、たまたま太田くんと下北沢の南口にある「喫茶と軽食、皆様の雷鳥」で会ってネ、この作品について小一時間、議論を戦わせたわけだ。パナソニックくんによれば、なんでも150年だか200年くらい前の人間が作った「たのしい園芸」というテレヴィジョン・プログラムを、日本テレヴィジョン・アーカイヴで見つけて、それにインスパイアされて書いたらしいんだがネ。そんな歴史を感じさせない軽みというか、むしろ近未来科学小説としても読めるところが、わたくしは気に入ったのである。I・Eくんはどうかネ。
I:わたくしはやはり、ポチ悦子くんの「ベイベー、パーティーを抜け出そう、脱走」(小誌先月号)だと思うな。先ごろコンパクト・ディスクが発見され、若者たちの間でブームになっている、忌野清志郎と篠原涼子のデュエット・ソングの歌詞を題材に、コミュニケーションとディスコミュニケーションというかなり古典的なテーマを描ききっている。特に「ヤマシタ・ヤマシタ」という女がよく描けている。あの女がベット・サイドのランプを消して、暗がりの中で服を脱いでいく描写があるね。あれがもう、圧倒的な筆力で、思わず本から目を離して、自分の部屋のベット・サイドに「ヤマシタ・ヤマシタ」が居るんじゃないか、なんて確認してしまったよ(笑)。
N:たしかにあの女にはグッとくるもんがある(笑)。しかし、あれは結局「ヤマシタ・ヤマシタ」の人物造型の基盤に、現代の(そして同時に過去の)セックス・シンボルである篠原涼子女史を据えているからこそ、成り立つ描写であった、とわたくしは思うのだ。そのように言うときっとI・Eくんはポチ悦子くんが女性(メス)であるからして、などと言うだろう。しかし、ポチ悦子くんはエッセイなどで、「わたくしは犬でありながらも人間である」などと、自らの身体の生物学的特徴について発言し続けてきた。そのポチ悦子くんが、「ふつう」なんて言ったら怒られるだろうが、所謂「ふつう」の人間の一対を描こうとしたら、やはりセックス・シンボルを用いるしかなかった、という顛末であろうと思うのだが、どうか。
I:問題はやはりこの点にあるだろう。つまり「わたくしは犬でありながらも人間である」というポチ悦子くんの発言だ。このテの発言は必ずこの形でなされてきた。すなわちポチ悦子くんは「わたくしは人間でありながらも犬である」と発言したことは、ただの一度もないのだよ。いままでポチ悦子くんは自らの作品のなかに必ずドッグ・ウーマンを一匹人は登場させていた。ところが今回の「ベイベー、パーティーを抜け出そう、脱走」では、ドック・ウーマンが一人匹も登場しない。たしかにこの作品のテーマ自体は直球であろう。しかし、それをポチ悦子くんの作家性とあわせて考えてみたとき、そこには重大な決断があるように思うのである。ところで、「たのしい園芸」はどこを評価なすっているのだ。
N:わたくしたちの幼い頃、オイリーという燃料があったろう。冬なんかオイリーターで部屋を暖かくして眠っていたものである。そういえば、わたくしが中学へ入学した年だったのだが、原宿のなんと言ったか、ファッションビルヂングが、オイリーターの爆発事故でなくなってしまったネ。あれは惨事だった。覚えているだろうか。そうだ、「ラフォーレ原宿」である。
I:ええ。
N:あのオイリーのもう一世代前の燃料であるオイル、つまり石油という燃料の枯渇問題、そしてすでに完全崩壊して久しい資本主義経済の問題、そういった20世紀から21世紀にかけての人類の課題が、園芸というモティーフの裏に隠されている、とわたくしは考えたのである。わたくしたち人類は近代を超えた新代を生きてきたわけだが、その新代がもはや壊滅的で、危機的な状態に、わたくしたちは生きているわけだ。そのときに近代の終末期を考察することは、非常に重要であると思うのだな。
I:なるほど。たしかにあの小説の登場人物たちは全員、石油化学でつくられた衣服を身にまとっていることが強調されているし、石油ストーブを使っているシーンも印象的に語られているのだな。作品の前半ではあくまで趣味として語られる園芸作業が、しだいに生きる糧となっていく過程も興味深い。
N:そうさ。しかし近代、新代と来たら、次をどうネーミングするか、問題だネ。
I:そしてその時、文学はどうなってゆくのか。
編集部:小誌来月号の特集は「文学を殺す」であります。
N:そうか、なかなかたのしみだネ。
I:がんばってくれたまえ。
(『群像ティック』2123年6月号「創作合評・首しめるのかナイフで刺すか」より引用した)
■2002.10.11−2002.10.13
 わたくしはテンプスタッフの出勤日を心待ちにし、わたくしの夫はアデランスから一向にテレフォンが掛かってこないことをいぶかしんでいました。食事どきのたび、夫がわたくしのほうをちらと見て、何か言いたげであるふうな素振りをしている、そのことにわたくしははっきり気づいていました。けれども、わたくしは黙っていました。それがわたくしのバリケイドでした。とどのつまり、おうい、くだんのアデランス、どうなのだ、と夫が言ったのは、2002年10月23日のことでした。
 あら、アデランス、本人が電話しなくてはいけないのだって、辺見えみりさんがそうおっしゃられていましたわ。あの辺見えみりが電話に出たというのか。ええ。吉岡美穂ではなく、辺見えみりなのか。たしかに、えみりさんでしたわよ。そうか、そうだったのか、テレフォン・ヘアチェック。そう言った夫の頭皮は、少し赤くなっていました。
 わたくしは食卓に、ごはん、目玉焼き、ハム、ほうれん草のソテー、海苔、わかめの味噌汁を並べました。旅館くさい朝食でもお食べになっていれば、よいのです。わたくしの夫は、ありがたそうにわかめを啜っているのですから。わたくしは夫を会社へ送り出したのち、王子にあるテンプスタッフの事務所へ行って、テンプスタッフからテンプスタッフの諸注意を受け、テンプスタッフから出勤先の鍵を預かり、テンプスタッフとの契約にサインし、テンプスタッフのポケットティシューを3つもらい、テンプスタッフの石鹸を1つもらいました。
 2002年10月25日、晴れ。わたくしは家政婦になりました。わたくしの勤務先は、わたくしの夫が建てた35年ローンの家よりふた周りほど小さい印象で、庭もありませんでした。ポーチもなく、わたくしは公道に立ったまま、その家の玄関ドアーを開けました。なぜこんな家が家政婦を雇うのか、不思議でなりません。家主はすでに不在でした。テンプスタッフが言っていた通り、玄関の靴箱のうえに日本人形の飾り棚があり、そこにテンプスタッフシートがありました。テンプスタッフシートには、一日の勤務内容が書かれて、あります。わたくしはそれを明るくさわやかに大きな声で読み上げてから、勤務をはじめなければなりません。
 洗濯。洗濯機の横にあるバスケットにあるものを洗濯機に入れ、スイッチを入れるよう、お願いいたします。終了の合図は電子音でなされますので、そうしたら二階にあるヴェランダに干しておくよう、お願いいたします。料理。息子が夕食にハンバーグが食べたいと申しておりますので、お願いいたします。三人前、お願いいたします。材料はすべて冷蔵庫にそろっておりますが、合い挽き肉を半分、豆腐を半分にしていただくよう、お願いいたします。焼くのは自分でしますので、タネのみ、お願いいたします。掃除。二階の廊下を雑巾で拭いていただくよう、お願いいたします。濡れ雑巾のち乾拭きで、お願いいたします。雑巾は洗濯機の下に置いてありますので、お願いいたします。きょうはそれだけでお帰りくださいますよう、お願いいたします。
 わたくしは、そのように、テンプスタッフシートを読み上げてから靴を脱ぎ、お邪魔いたします、と言ってから家に上がりました。まずは洗濯をしようと思い、リビングと台所を通り抜けて、お風呂場の前にある洗濯機へゆきました。バスケットの中には、ピンク色のブラジャーがひとつ入っていました。わたくしはそれを拾い上げ、匂いをかいでから、洗濯機に入れました。洗濯ネットがありませんでした。スイッチを押しました。ブラジャーの色が濃くなりました。胸のふくらみが押しつぶされてゆきました。アタックを入れました。まわりはじめました。ブラジャーが舞いました。泡の中へ消えました。わたくしは洗濯機のふたを閉めました。
 わたくしは黄色い雑巾を濡らし、青い雑巾を乾拭き用に持ちました。台所とリビングを通り抜け、玄関に戻りました。玄関の前に階段がありました。昇りました。2階には両側に1部屋ずつありました。突き当たりにヴェランダへ出るためのサッシーがついていました。廊下は12歩で端までゆけました。短い廊下でした。薄暗い廊下でした。わたくしはサッシーの前でしゃがみました。塵ひとつない廊下でした。ワックスが効いていました。濡れ雑巾をしたら、ワックスが剥げてしまわないでしょうか。アデランス。ヤデヤンス。ア、ペヤング。アペ、ヤン。
 わたくしは、濡れ雑巾で7回、乾拭きで16回しました。そして立ち上がりました。そうしたら、音がしました。洗濯の終了の合図でしょうか。ブラジャー1枚にしても、早すぎるのではないでしょうか。その音は続けて聞こえました。まるで誰かがしゃべっているように聞こえました。ええ、間違いなく、誰かがしゃべっています。2階の左側の部屋から、誰かのしゃべり声が聞こえてきました。わたくしは、テンプスタッフシートに記載されていること以外の行動を、テンプスタッフから禁じられていました。わたくしはブラジャーを洗って干し、雑巾がけをして、豆腐ハンバーグをつくるだけでよいのです。それさえすれば、わたくしは自分の家に帰ることができ、『ジャスト』(TBS、1998−)を見ることができるのです。
 わたくしは、2階の右側の部屋を覗きました。ドアーは内開きでした。おそらくは夫婦の寝室なのでしょう。シングルのベッドがふたつ、くっつけて置いてありました。仲が良いというよりも、ベッドをふたつ置いたら部屋が埋まってしまったようでした。セミダブルひとつに変えたほうがよいと思いました。わたくしは細く開けたドアーを閉じました。練習が済みました。わたくしは振り返り、左側のドアーを細く開けて、部屋を覗いてみました。おそらくは中学生の少年が、学習机に向かって本を広げていました。少年はマールボロ・メンソールを吸いながら、英語の教科書を開いていました。煙の匂いで、マールボロ・メンソールであることがわかりました。スプリング、ハズ、カム。イト、イズ、エイプリル、ナウ。ナウ、ゲット、ザ、チャンス。レッツ、プレイ、ザ、ウイーケスト、リンク。カセット・テープが流れていました。
 わたくしは、背後から誰かに見られている感じを受けました。いいえ、わたくしが少年を見ているのです。いいえ、少年を見ているあなたを、わたくしが見ているのです。背後で声がしました。カセット・テープの声とは別の声でした。どこかで聞いたことのある声でした。わたくしはすぐに振り返ることができませんでした。わたくしはテンプスタッフの言いつけを破ったのです。不意にノブから手を離してしまうと、ドアーは勝手にきわめて静かに閉まりました。それでもわたくしは後ろを振り返れませんでした。わたくしは背後にいるはずのものに意識を集中させました。
 わたくしの背後にいるものはいつも快活に笑っていました。わたくしの背後にいるものはゴミ捨て場でクレジット・カードの明細票を漁っていました。わたくしの背後にいるものはバスガイドとして観光バスの中で歌をうたっていました。わたくしの背後にいるものは背丈の低い女の人でした。わたくしの背後にいるひとはたしかにわたくしが以前見たことのあるものでした。わたくしの背後にいるひとはわたくしと同じように家政婦をしていました。デュエット、デュエット、デュエット娘は、開閉です。手を使わずに、開閉です。わたくしの背後にいるひとが、歌いました。わたくしは思い切って、振り返りました。
 サッシーが開き、ものすごい風が廊下を吹きました。わたくしの髪の毛が風に舞って、視界を遮ろうとしました。わたくしは必死で髪を振り払いました。とても冷たい風でした。市原悦子でした。市原悦子は『まんが日本昔ばなし』(TBS系列、1975−1994)のオープニングの龍にまたがっていました。龍は夫婦の寝室のドアーをやぶり、寝室の奥へとのびていました。龍のうろこはブロッコリーでできていました。龍は頭をUターンさせて、自分の首のあたりにある先が少し赤くなりかけたブロッコリーを、口でつまんで食べました。龍は自給自足なのです。テンプスタッフの言いつけを破ったのだな、おぬし。その声はナレーションそのものでした。わたくしは、そんなことしていませぬだ、そんなことしていませぬだ、と言いました。かなり大きな声が出ました。テンプスタッフシートの時より大きな声で言いました。少年が部屋から出てきてくれれば、少しは気が落ち着くと思ったのです。しかし、少年は英語の練習に没頭しているようでした。
 わたくしは土下座をしていました。けれども、市原悦子は一向に怒りを鎮めていないことが、気配でわかりました。わたくしは逃げようと思い、階段を駆け下りようとしました。すると、風がいっそう強くなり、サッシーについていたレースのカアテンが、はずれて、わたくしを追いかけるように飛んできました。わたくしは短い廊下を逃げました。市原悦子が、ムアーテエー、ムアーテエー、と言いました。レースのカアテンがわたくしのふくらはぎをつかみました。わたくしは足をとられました。わたくしはそれでも逃げようとしました。わたくしは階段を降りはじめたところで、こんがらがったカアテンと共に、階段を転げ落ちてゆきました。少年は一向に部屋から出てくる気配がありませんでした。市原悦子は龍にまたがったまま、ゆっくり、ゆっくり、1階へ降りてこようとしました。
 わたくしは自分が頭を打っていないことを確認しました。わたくしは立ちました。歩けそうでした。歩きました。走れそうでした。わたくしは玄関で、おそらくは少年の、かかとが潰れたスニーカーをつっかけて、ドアーに体当たりするように外に出ました。もう振り返りませんでした。わたくしはまだ青い雑巾を握りしめていました。市原悦子は、ムアーテエー、ムアーテエー、と言っています。わたくしは走りました。わたくしはおそらくテンプスタッフはクビなのだろうなと思いました。わたくしはブラジャーを洗濯機に入れっぱなしでした。わたくしは豆腐ハンバーグをつくることができませんでした。わたくしは絶対にテンプスタッフはクビなのだろうなと思いました。わたくしはどこに逃げればよいのだろうと思いました。まだ市原悦子はわたくしのことを追いかけてきているのだろうかと思いました。鎖骨のあたりが苦しくなりました。それでもわたくしは走ることをやめませんでした。わたくしはもう振り返りませんでした。足がだるくなりました。
 原節子は一度も来たことのない、知らない街を走っていた。原節子は情報を取り入れようと、次第に周囲に目を配りながら走るようになっていった。マクドナルドの看板、デニーズの看板、エネオスの看板、都バスの停留所、そんなものばかりが目に入った。それらはみな、原節子が住む荒川区にも存在しているものばかりだった。原節子は見たことのない、しかし理解できる、情報のフックのようなものを求めていた。しかし、それは目に入ってこなかった。原節子は長い橋を渡った。直線的な橋はとても長く感じられた。小さな虫が口に入った。その瞬間、原節子は、もう走りたくない、と思った。とても、いやな感じだった。原節子は自分がどこを走っているのか、まだわからないでいた。原節子は、立ち止まるタイミングをも、失っていた。
 わたくしの前方から歩いてくる老人が、青い帽子をかぶっているのを見て、わたくしはようやく我に返りました。帽子の色があんまりにも雑巾の色に似ていたのです。不気味に青い、化学染料の青でした。わたくしは立ち止まってみました。立ち止まろうとして、右足をくじいてしまい、わたくしはうずくまりました。もう市原悦子の声は聞こえませんでした。わたくしは老人がわたくしのところへ歩いてくるまで少し待ちました。老人は黒い杖をついていました。老人は茶色のチョッキを着ていました。老人は咳をふたつしました。老人がようやくわたくしのところへやって来たので、わたくしは老人に声をかけました。恥ずかしいくらい、息が切れていました。
 すみません。あん。すみません、ここはどこでしょう。ここって、ここは亀戸だよ、まっすぐ行けば、錦糸町、両国。ありがとうございます。ところで、あんた、どうしたんだい、あんた原節子だろ、なんでこんなとこ走ってきた。何でもありません、ありがとうございます。原節子はJR錦糸町の駅までくじいた右足をひきずって歩いた。錦糸町の駅前には魚寅という大きな魚屋があった。原節子はそこで天丼と鶏のから揚げを買った。それは魚寅の名物だった。錦糸町の駅ビルの地下で、キューピーマヨネーズのミニボトルを買った。原節子は駅ビルのなかのベンチに腰をかけ、鶏のから揚げにキューピーマヨネーズをたらして、それを食べた。天丼も食べた。ひどくのどが渇いた。わたくしは、もうだめだ。原節子は、そう思った。原節子は缶のコカ・コーラを飲みながら、JRAの場外馬券売り場のなかへ消え、そしてそれぎり、テンプスタッフにも旦那のもとへも戻らなかった。原節子の座っていたベンチには、青い雑巾が残された。
■2002.7.13−2002.10.19
 飯島洋一『現代建築・アウシュヴィッツ以後』(青土社、2002・5)を読む。「その時代には、その時代を代表するビルディング・タイプがある。たとえば古代には神殿が、中世には教会が、それぞれ時代の建築を表していた。その意味で言えば、機械主義を執拗なまでに称揚する十九世紀以降の産業革命期、もっと言えば、その遺産が文化面で開花した二十世紀前半のビルディング・タイプは、まぎれもなく『工場』であったとしていいだろう」。
 ところがその「工場」というビルディング・タイプは、二十世紀中葉にははやくも臨界点を迎えてしまった。それを飯島は「アウシュヴィッツ」に見ている。ヒトラーによるナチスのユダヤ人迫害(ホロコースト)。ハイデガーはアウシュヴィッツ絶滅収容所を「死体製造所」と呼んだ。「工場」はその発展の結果、わずか百数十年で、「死」をも「製造」するに至ったのである。結果、「二十世紀後半に生きる建築家たちは、アウシュヴィッツ以後、もはやそれを真正面から捉えようとしなくなった」。「それ」とはもちろん「工場」のことである。そして、そんなアウシュヴィッツ以後の建築のありようを探っているのが本書であるわけだが、この本のなかに提示されたさまざまな切り口の中で、わたくしが注目してしまうのは、「高層ビル」の話である。  わたくしはこの本で「ビルディング・タイプ」という言葉をはじめて聞いた。もちろん中学校から英語を勉強させられてきたから、「ビルディング」という言葉が「建築一般」を指す言葉であることは知っている。しかし、わたくしが(日本人が?)カタカナ語で使う「ビルディング」は、「高層ビル」のことを指している場合が多いような気がする。飯島は言明していないが、二十世紀後半の「ビルディング・タイプ」は「高層ビル」である、と定義することはできないのだろうか。
 てもとにある『ロングマンアクティブ学習英英辞典』で「building」の項をひいてみると、第一の意味として、「something with a roof and walls, such as a house, a factory, or an office block」(家、工場、オフィスビルなど、屋根と壁を持ったもの)とある。わたくしたちは現代において、カタカナ語「ビルディング」を「an office block」として使うことが多い。とすれば、建築の専門家さまにどう言われるかはわからないが、一般ピープルの言語的側面から、二十世紀後半の「ビルディング・タイプ」を「高層ビル」としてもよいのではないか。
 さて、さきほどの英英辞典では、このような例文が載っている。「The World Trade Center is one of the world’s tallest buildinds.」(世界貿易センターは世界中の高層ビルのなかで最も背の高いもののひとつです。) この例文は、みなさまご存知の通り、もはや無効となってしまった。飯島は本書の中で「高層ビル」の歴史にについて書いている。そしてそれはアメリカの建築史に大きく関わっているようである。
 1890年に「フロンティア」の消滅が宣言されたとき、アメリカの建築家たちは悩んだ。「何がアメリカなのか」と。そして流れはふたつに分かれた。自分たちがやってきた「ヨーロッパ」の伝統を受け継ぐ建築様式を確立すべきだとする者たちと、「フロンティア」こそがアメリカの故郷であるとして荒野のイメージを建築に重ねる者たちと。そんななかでフィリップ・ジョンソンは「第三の道」を企画する。それが「インターナショナル・スタイル」というものだ。そしてその企画は「ナチスに追われるようにしてアメリカに逃れていた」ドイツ人建築家ミース・ファン・デル・ローエの「一切のロマンティシズムを排した鉄とガラスの冷たい箱型のビル」として完成に至る。
 インターナショナル・スタイルは「ある地域や地方や国家に限られることは決してなかった」。それゆえにとするべきか、それはアメリカ全土を席巻し、さらには「国際様式」の名を借りた「アメリカ様式」として、ディズニーランドやマクドナルドのように世界中に伝播して行ったのである」。そして「二〇〇一年九月十一日の自爆テロで二棟とも崩壊した『世界貿易センタービル』(一九七六年)も、このインターナショナル・スタイルの代表作である」と飯島はいう。
 飯島は911テロの映像をリュミエールの無声映画に重ね(飯島は解説も何もついていない無音のテロ映像を眺めていたという)、テロ映像を「最後の映画」と表現している。「ハリウッドはもうこれ以上リアルな映画はつくれない」。たしかにあの映像はハリウッド映画の進んできた方向の臨界点であったのではないか。しかし、ここでわたくしが言いたいのは、あの高層ビルの崩壊を、二十世紀後半の「ビルディング・タイプ」の喪失、として捉えることが出来てしまう、ということである。だとすれば、この先、建築はどのように進んでゆくのだろう。次なる「ビルディング・タイプ」は「何」が担ってゆくのだろう。
 書けた、書けた。久しぶりにカッコいい文章が書けた。わたくしはそんなふうに思っていました。そうしたら飯島さんは、さらに『現代建築・テロ以前/以後』(青土社、2002・9)という、『現代建築・アウシュヴィッツ以後』の続編を出しました。なので、わたくしはやはり読んでみたのです。そうしたら、わたくしの上の紹介(読み取り方)がすごく間違ったものであるようなのです。真剣に読んでいただいているみなさん、ごめんなさい。ここから方向修正をしてゆきますので。
 飯島さんは『現代建築・テロ以前/以後』のあとがきで次のように書いている。「テロ以後、世界は変わったという。ほんとうに、世界は変わっただろうか。私はこの問いに対して、世界は何も変わってはいないし、相変わらず、過去の出来事の『焼直し』をただ繰り返しているだけだと考える」。つまり、生産性を重視する近代にあっては「『生の生産』と『死の生産』とは、極限において同一化する」、というパラドキシカルな近代観をもつ飯島さんにとっては、アウシュヴィッツの「死体製造所」も、日本に落とされた原爆も、1989年(昭和と冷戦の崩壊)も、阪神大震災も、地下鉄サリン事件も、近代の特徴が爆発した事態のひとつにすぎず、全米同時多発テロもそうした事態のひとつに回収されてしまうだろう、と飯島さんは言うのである。
 飯島さんは世界貿易センター(WTC)の印象を以下のように述べている。「WTCは、冷たいビルであった。そこには人を寄せつけないような冷たさがある。建築というよりも、『技術』や『システム』をそのままに拡大し、形象化して見せたのがWTCであったと言えるほどである。そこで働いていた人々が、日々、労働を生産していたように、WTCはその生産を支える器でありながら、同時に資本主義の生産性というイデオロギーも体現していた」。そのような目的を果たすためには、WTCは「『どこまでも大きく』つくられて行く必要があった」。そして、それはヒトラーが「第三帝国の建築において、つねに『巨大であること』を求めていた」ことに対応する、と飯島さんは言っている。とするならば、WTCは「まだそれが破壊される前から」「死のにおい」が「すでにそこに貼りついていたビルだったとしていいだろう」。
 飯島さんは以上のように、「アウシュヴィッツ以後」の都市空間を、「反復=フラッシュバック」、または「空転」、そして「焼直し」の、平坦で均質なものとして、捉えていたのである。なのに、わたくしはWTCの崩壊を<近代の終わり=近代後のはじまり>と勝手に捉えてしまった。ここがわたくしの大きな誤りである。わたくし自身は、911を契機に世界が変わったかどうかなんて、わかんない。ただし、911テロをきっかけに、わたくしは変わってしまった。そして、そのような個人的な根拠を前提にしてはじめて、わたくしは世界を語ることができる、と自信過剰になっていた。だから、飯島さんの論を勝手に解釈してしまったのであった。ごめんなさい。
 しかし、飯島さんも実は、WTC崩壊が<はじまり>になればいいな、と期待はしているはずだ、とわたくしはさらに続けてみたい。でなければ、再び「反復」されたに過ぎない出来事に対して、反応をとる必要もなかろう。
 この本の中で、飯島さんは、阪神大震災以降に登場した日本の若い建築家たちについて触れている。1960年代生まれ、現在30代の建築家たちは「ユニット派」と呼ばれ、「<インテンショナリーズ>、<みかんぐみ>、<建築少年>、<アトリエ・ワン>」といった複数名「ユニット」を組んで活動しているという。そうした建築家たちは、作家の固有性を主張せず、「『反モニュメント』的態度」や「『フラット』感」の目立つ建築を目指しているという(WTCもフラットな建造物であった)。飯島さんはそこに「ユニット派」の「ニヒリズム」を感じている。その「ニヒリズム」をわたくしなりにわかりやすく言い換えてみれば、「つくったってどうせまた壊れるんだから、そんな個性的な建物をつくったって無駄だよね」というふうになる。それじゃだめなんだ、と飯島さんは言う。それこそが「空転」なのだ、と飯島さんは言う。「結局は『建築すること』、あるいは『つくること』でしかこの時代を越えていくことはできないと私は確信している」。
 1995年「五月三十一日に東京都知事、青島幸男(当時)が決定を下した『世界都市博覧会―東京フロンティア』の中止」。当時、東京都民であった中学生のわたくしは、会場がご近所ということもあって、この行事をわけもわからずたのしみにしていたのだが、東京都の財政難で中止になると聞いたときは、もうがっかりだった。ところが飯島さんは都市博中止の原因を別のところに見出している。それはすなわち、「人々の心を突き動かすような都市ヴィジョンの提示がなかったというのが、実はほんとうの中止の要因ではなかったか、とさえ思えてならない」。
 近代後の新しい都市のかたち。どんなものだろう。ちょうどいま書店に並んでいる(この文章が発表される頃には「前号」というかたちになるだろうか)雑誌『ブルータス』の2002年11月1日号に、飯島さんが批判の対象にしていた「みかんぐみ」や「アトリエ・ワン」が設計した住宅の写真が載っている。たしかにフラットな印象だ。だけど、建築素人のわたくしには、これらの住宅もオシャレだし、アイデアにも満ちているように見える。
 そこでわたくしは提案する。都市集住という形にこれ以上希望を見出すことは非常に困難なのではないか。むしろインターネットなどによって、人間は集住という形態をとらずとも快適に生活してゆけるようになるのではないか。都市なんかいらなくなる。そうしたら、おともだちの少ないわたくしは、よりいっそう孤独になるのだな。飯島さんに言わせれば、きっと、これは究極のニヒリズムである。でも、都市をいったん解体してしまうことも、新しい構築のためには必要なことなのではなかろうか、とわたくしは思うのだ。そうしてわたくしは、東京から富山へ逃げてきてしまった。
■2002.10.19−2001.9.12
 わたくしは4時30分に大学の集中講義を受講しおえ、それから3時間くらい、比較文学演習室で、アルバイトの準備をした。わたくしは毎週火曜日と木曜日、家庭教師をしていた。高校3年生の生徒に、受験英語の長文問題を解説するのが、わたくしの仕事だった。問題集の別冊解答がとても頼りなげだった。わたくしは、生徒くんに25分で解かせる問題を、3時間かけて解いて、解説の支度を整えた。大学から生徒くんの家まで、自転車で30分もかかった。割に合わない仕事であった。けれど、わたくしはとてもたのしかった。受験生って、たのしい。
 マクドナルドで、激辛サンドウィッチを、食べる。ポケットに入っていた、キューピーマヨネーズのミニボトルを、サンドウィッチにつけて、辛味を和らげる。鶏肉のソテーと茹でた玉葱、トマトをはさんだバンズ、チリソースのサンドウィッチであった。マクドナルドの店員が話す言葉は、とうぜん日本語ではなかった。しかし、わたくしは、日本のマクドナルドを思い出して、メニューの写真を指差しながら、このサンドウィッチのセットを手に入れた。オレンジジュースとポテトフライは、日本と変わらない。メキシコシティの空はとても青かった。わたくしは食べ終わってもしばらく、座ったまま、考えごとをしていた。特にはっきりとしたイメージもなく、明確な結論もない考えごとだった。わたくしは、3時間か4時間か、そのくらいマクドナルドにいた。そして、立ち上がる。マクドナルドを出る。大通りをはさんで、両側に、高層ビルが整列していた。スーツを着た人々が、早足で、わたくしを追い越し、わたくしの横をすり抜けていった。人々の顔が、白色であったり、褐色であったり、した。わたくしの顔は、きっと黄色くみえている。この段落の参考文献は、『ブルーガイド・ワールド/メキシコ』(実業之日本社、1997・4)である。
 わたくしは、もうしようがない、と思っていた。以前ならこの時間、わたくしはすでにワイシャツに袖を通し、ネクタイをゆるく締めて、妻のつくった朝食を食べ終えるころだ。妻はわたくしに気を使って、いつもわかめの味噌汁を作ってくれていた。火曜日のだし巻き卵も、わたくしはすきだった。いま、わたくしは、パンツいっちょうで、スーツを選んでいる。もう家を出ないと、バスに乗り遅れてしまう。わたくしは、昨日どのスーツを着て出勤したかも忘れていた。わたくしはアデランスを着用して、気持ちを落ち着けた。わたくしは、きっと妻に嫌われてしまった。わたくしは、もう誰かをすきになったりはしない、と決めた。しかし、わたくしは恋をした。なんていうこともなく、決心はあんがい普通のことになってゆく。わたくしはもう、誰とも心を通わせることはない。わたくしは家を出る。
 道路をいっぽん奥に入ると、そこはスラヴの雰囲気だった。映画のセット裏のようだった。そこでは誰とも会わなかった。しかし、廃屋のなかから、無数の視線が、わたくしに向かって伸びていた。わたくしは、あきらかに孤独だった。大通りに出ると、黒くて四角い公衆電話が目に入った。わたくしは街の中央広場へ向かった。ヨーロッパのような古い建築物が広場を囲んでいる。広場には何もなかった。広く青空が開けていた。ホテル日航メキシコは、高級なホテルだった。夕方になって、ホテルの7階からみる窓の外は、ひどいスコールだった。雨粒の落下線が、風にたわんでいた。昼間の快晴が嘘のようだった。ほんとうに嘘だったのかもしれない。窓辺の赤い花が、ゆっくりと目を閉じていった。わたくしは夜、ホテルの部屋で、緑のたぬきをひとつ食べた。仕事を探さねばなるまい。わたくしは、もうだめだ、と思った。わたくしは眠る。この段落の参考文献は、『ブルーガイド・ワールド/メキシコ』(実業之日本社、1997・4)である。
 わたくしはバイトを終えた。生徒くんのお母さんが冷えたジョージア無糖を2本、メロンがのったショートケーキをひとつ、くれた。わたくしはケーキが箱の中で倒れないように、ゆっくりと自転車をこいだ。勾配が小さくて、とても長い坂道を、ゆっくりとのぼった。夜空に白い雲がたなびいているのがわかった。大学の演習室でちょっと休憩して帰ろう。真っ暗な人文学部の廊下を進んだ。演習室の冷蔵庫にジョージアを仕舞った。ふだん先生が座っている、ふかふかの椅子に座った。『タモリのジャングルTV』をつけた。ジャングルクッキングはピザだった。関根勤は「カンコンキン・シアター」の稽古で、番組に不参加だった。関根勤の代わりは、雨上がり決死隊だった。ケーキの箱を開けた。クリームの甘いにおいだった。
 目覚めて、メキシコシティは快晴であった。わたくしは7時に目覚めた。わたくしはテレヴィジョンをつけた。朝からダンスしていた。陽気な音楽だった。わたくしはテレヴィジョンを消した。わたくしはシャワーを浴びることにした。トイレと風呂が一緒になった、洗い場のないタイプのものであった。脱衣かごに服をまとめ、バスタブの中からシャワーカーテンをしめる。シャンプーは備え付けのヴィダル・サスーンである。わたくしは目をつぶった。髪を少し湿らせてから、額から持ち上げるようにして、シャンプーをのばしてゆく。そしてうなじからも同様である。泡がたつ感じが指先に伝わった。指を立てて、頭皮をマッサージするように、洗ってゆく。シャワーの栓を探り、左側がお湯の栓であったことを思い出しながら、それをひねった。お湯の温度は、ちょうどよい。しかし、なんだかお湯がヌメヌメしているような気がする。お湯が身体にまとわりつくような感じがする。あらかたシャンプーが落ちただろう、と目を開けたわたくしは、愕然とした。わたくしは、もうだめだ、と思った。わたくしの身体にまとわりついていたのは、シャワーのお湯ではなく、わたくし自身の髪の毛であった。全身をみおろすと、わたくしの身体は髪の毛にまみれ、バスタブの底にも濡れた髪が散乱していた。わたくしは咄嗟に風呂場を出て、ベッド脇の壁につけられた大きな鏡に、全身をうつした。わたくしは、泣いた。わたくしの頭は、干からびたアザラシのようだった。夫よりもひどかった。アデランス。わたくしは、もうだめだ、と思った。
 筑紫哲也が出てきた。「ニュース23より早い時刻ですが、ここからはニュースです。ええ、大変なことが起きました。アメリカはニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が突入する事故が起こりました。おそらくはテロリストの犯行と思われます」。わたくしはジャングルクッキングを見ていたかった。どのようにこねると、ふっくらしたピザ生地ができるのだろうか。わたくしの家には電子レンヂしかないのですが、電子レンヂのオーヴン機能でチーズに焦げ目をつけるにはどうすればよいのですか。わたくしは知りたかった。けれど、それは許されなかった。「ブッシュ大統領が『許さない』との声明を発表しました」。「アメリカが止まっています」。「これはジハードです」。「アメリカは宣戦状態です」。「CNNからはオーマイゴッド、アンビリーバブルが繰り返されています」。「沖縄の在日米軍が、厳戒体制に入りました」。「小泉総理大臣は、警察庁と自衛隊に緊急警戒を指示しました」。わたくしには何一つとして理解できなかった。
 どうにかしなければならない。わたくしはフロントに電話を掛ける。赤いボタンを押す。すぐにつながる。すみません、わたくしがそう言うと、外国語がなにやらまくしたてて、無言になった。ここはメキシコシティである。陽気な音楽が流れた。このまま待機しろということらしい。わたくしはコードレスであるその受話器を首に挟んで、バスタオルをとりに、風呂場へ戻る。陽気な音楽は続く。わたくしは、踊った。マイム、マイム、マイム、マイム、マイム、レッセッセ。バスタオルで身体を拭く。タオルに髪の毛がへばりつく。音楽は流れる。わたくしは泣きながら、踊る。小槍のうえで、アルペン踊りを、さあ、踊りましょう。音楽がやむ。もしもし、日本人に変わりました、サキタエツコと申します。すみません、禿げてしまったのですが、どうしたらよいでしょう。はい、はげたともうしますと、どういったことでございましょうか。いえ、ですから、禿げたのです、わたくしの頭が、禿げたのです、わたくしの頭から、わたくしの髪の毛が抜け落ちていったのです、シャワーを浴び終えましたら、わたくしは泣いた。奇妙な空白の後、サキタエツコさんは言った、お客さま、どうか落ち着いてください、なにか当方の不手際がございましたのでしょうか、たとえば、と言いましても、そうですね、シャンプーがお肌と合わなかったであるとか、サキタエツコさんは落ち着いている。そうではないと思います、だいぶん疲れがたまっていたので、そのせいかもしれません。わかりました、とりあえずお部屋のほうへうかがってもよろしいでしょうか。わたくしは黙っていた、なんと言ったらよいのか、わからなかった。お部屋へお伺いいたしますので、いったん電話をお切りしてもよろしいでしょうか、失礼いたします。電話が切れる。
 筑紫哲也がニューヨークの記者を呼んだ。記者は「これ、なにしゃべればいいの?」と言った。筑紫哲也はおもわず笑い声を上げた。筑紫哲也は「もう、なんでもいいから、しゃべってください!」と叫んだ。TBSがコマーシャル・メッセージに入った。わたくしはフジテレヴィジョンを見た。木村太郎が軍事評論家と喧嘩していた。木村太郎は「ウサマ・ビンラディン」という言葉を、いかにも外国語というふうに発音した。それは知識の正当性を主張するような発音だった。安藤優子がヒステリックに叫んで、喧嘩を仲裁した。安藤優子は「いまは事件の原因や背後について議論をしているひまはありません。そんな議論をしたいのなら、スタジオを出てください」と言った。決然とした態度だった。わたくしはケーキを食べる。コンピュータの電源を入れる。2ちゃんねるに繋ぐ。誰かの声が聞きたかった。
 部屋を暗くした。灰皿にレシートや折った割り箸を入れて、ライターで火をつける。ティッシュペーパーをくべる。火が大きくなって、その高さは1リットルのジュースのパックを越える。妻が出て行ってから、夜そんなことをするのが癖になった。白い煙がよろよろと天井へのぼってゆく。タバコを1本取り出し、灰皿の焚き火から火をもらう。わたくしはパンツいっちょうである。マールボロ・メンソールをパッケージをひねりつぶして、焚き火にくべる。ビニールがとけてゆく。タバコを切らした。わたくしはアデランスを着用する。白いTシャツを着て、上下の黒いジャージーを身につける。玄関で、茶色の健康サンダルをひっかける。わたくしは家を出る。ドアーが閉まる。
 ドアーが開いた。サキタエツコさんは、面長で、よく陽に焼けていた。こげ茶のジャケットに黒いスカート、ホテルの制服である。赤いテンガロン・ハットを手に持っていた。わたくしはホテルのバスローブをまとい、頭はバスタオルで巻いて、隠していた。サキタエツコさんは入り口で、おじぎをした。サキタエツコさんは、微笑んだ。大丈夫といったふうに微笑んだ。サキタエツコさんは風呂場へ行って、すぐに戻ってきた。ま、お風呂場はすぐに清掃員を呼んで掃除をさせますから、それから、この帽子、よろしかったらお使いになってください、わたくしのものなのですが、プレゼント、ね、それから9時30分になりましたら、当ホテル専属の医務員が出勤しますから、診てもらいましょう、サキタエツコさんはわたくしの頬をハンケチでぬぐい、わたくしの肩を抱くようにして、わたくしに伝えた。わたくしはただうなずいていた。サキタエツコさんは、わたくしをベッドに座らせてくれた。部屋は静かだった。サキタエツコさんはわたくしの手を握っていた。わたくしは、その手を見ていた。
 夜の街は静かだった。まだそんなに遅い時間とは思えないが、車通りが少ない気がした。どの家も電気がついている。そして、テレヴィジョンの音が響いている。わたくしはサンクスへ向かった。サンクスが光っている。サンクスは目の前だ。サンクスの棚をひとめぐりして、わたくしは夜食にペヤング・ソースやきそばをひとつ、手にとった。マールボロ・メンソール。店員にそう告げる。レヂスターの奥の壁時計が、逆回転している。わたくしは散歩をすることにした。さいきん近所に新しい児童遊園が出来た。久しぶりにブランコにのってみたかった。会社帰りにのることには、気が引けていた。わたくしは歩く。そして道に迷う。そこは見たことのない街である。わたくしは家がどちらかも、サンクスに戻ることもできなくなった。わたくしは、もうしようがない、と思った。こうもりが頭をかすめた。わたくしは、ひやりとした。
 わたくしは部屋を出る。サキタエツコさんが、ハンケチを残して、コーヒーを持ってきますから、と出ていった直後のことである。わたくしはバスローブを脱いで、服を着た。ショーツ、ブラジャー、ジーンズ、Tシャツ、テンガロン・ハット。宿泊費とハンケチをサイドボードに置いた。わたくしは部屋を出た。階段を駆け下りた。ロビーを走った。帽子をおさえている。大通りへ出て、バスにとび乗った。行き先はわからない。バスはすぐに終点になった。わたくしはバスの出口で、両手にありったけのコインを並べて、運転手さんに見せた。運転手さんは3つ摘まんだ。運転手さんは微笑んだ。わたくしも微笑む。終点はバスターミナルだった。ロータリーをカフェやレストランが囲んでいる。そこにはデニーズがあった。わたくしはデニーズに入った。この段落の参考文献は、『ブルーガイド・ワールド/メキシコ』(実業之日本社、1997・4)である。
 いち、にい、サンガリア。にい、にい、サンガリア。わたくしは疲れていた。朝になっても、家にはたどり着かなかった。健康サンダルが足に食い込んで、痛いので、わたくしは裸足で歩いた。目の前に、デニーズがあった。コーヒーでも飲んで、気を落ち着けようと思った。わたくしはデニーズに入った。わたくしは人差し指を出して、ひとりで来たことを示した。うなずいて、たばこを吸うことを示した。わたくしはカウンター席へ案内された。朝からほぼ満席である。わたくしは水を出しにきた店員に、メニューを広げてみせ、ホットコーヒーを指さした。ふらふらである。声も出やしない。わたくしは苦笑する。節子。わたくしと節子とでは、いかにも不釣合いであった。十も年齢が離れていた。美しい節子と、惨めなわたくし。中年太り、おやじ臭、禿げ。ぐずぐずである。涙が流れた。疲れてるんだ、いやだなあ。
 わたくしはカウンター席に座っていました。隣に案内されてきた男は、泣いていました。テーブルの上にペヤング・ソースやきそばが入ったサンクスのビニール袋を放り出し、水を一気に飲み干しながら、泣いていました。茶色いグラスに残った氷を、口の中に流し入れました。がりがりと噛みました。隣の男は出されたコーヒーに口をつけました。隣の男はミルクも砂糖も入れませんでした。隣の男は、裸足でした。隣の男は黒いジャージーを身につけていました。それはわたくしの夫が、夜中タバコを切らした時に、近所へ出かけるときの服装でした。わたくしの夫は、マールボロ・メンソールを吸っていました。わたくしの夫は、アデランスを着用していました。わたくしは赤いテンガロン・ハットをかぶっています。わたくしは、コーヒーにミルクを入れて、のみます。デニーズは混雑しています。カウンターの奥にある厨房から、皿が落ちて割れる音が聞こえてきました。わたくしの夫は、マールボロ・メンソールを灰皿でねじり消します。きっともうすぐ、わたくしの夫はデニーズを出るのです。タバコの消し方で、それがわかりました。最後の一本を消すときの、決心がこめられていました。わたくしは目を閉じ、そして開きました。おなかが熱くなりました。崩れてしまいそうでした。ア、アデラ。
 デニーズではきまって、父がサーロインステーキにライス、母が和風ツナスパゲッティ、わたくしがスパゲッティミートソースを食べていました。テーブルの中心には、ポテトフライとチキンバスケットが置かれていました。チキンバスケットにはガーリックトーストが2枚しかついていないので、わたくしたちはいつも取り合いをしました。コンピュータのディスプレイを眺めるわたくしの背後から、大きな悲鳴が聞こえていました。逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。わたくしは振り返りました。悲鳴はテレヴィジョンの中から聞こえていました。ビルヂングが崩落してゆきました。わたくしもどこかへ逃げなければなりません。そうして逃げながら、探すでしょう。みのもんたは、正解とも、残念とも、言わずに、わたくしの顔をにらみ、わたくしをあざ笑います。コマーシャル・メッセージに入ってしまいました。わたくしはテレヴィジョンを消しました。コンピュータも消しました。時計が秒針を進めているのを確認して、わたくしは電気を消しました。