Laughing Whisky
「あなたぁ〜?もう少しでお昼だけど・・・」 階下からの余裕≠ニもとれる妻の声に、私は少々苛立ちながら首にかけたタオルで額の汗を拭った。そして、皮肉を交えた口調でぶっきらぼうに答える。 「ああ・・・何でもいい・・・」 「優子はパスタがいいって・・・あなたも同じでいい?」 ・・・スパゲティーか・・・。 どちらかというと、さっぱりしたお茶漬けとかの方がいいのだが。 「・・・ああ」 何でもいい≠ニ言い放った手前お茶漬け≠ニ言い直すと何となく自分に負けた気がする。私はその気持ちをぐっと押さえ、返事を返した。 4畳半ほどの私の書斎。いわば、自分の部屋。 大晦日だというのに年越しの準備と自室の大掃除で、私は朝から休む間もなく動いている。年の最後の日くらい、ゆっくりとテレビでも見て構えていたいものだが、昨日まできっちり会社にいた私にとって、年越し前の自室の大掃除は今日しかないのである。私は40代後半に差し掛かり、中間管理職という、いわばこの不況に一番危うい位置付け。リストラという無言の圧力を感じながら、休日を返上してまで働いているというのに・・・。 専業主婦の妻と高校生の娘は、有り余る時間を使ってすっかり自分のテリトリーの準備を終え、後はゆうゆうと新年を待つばかり。1階のリビングから正月のテレビの特番らしき音にまじって、二人の笑い声が聞こえる度に少しは手伝ってくれてもいいんじゃないか?≠ニ思ったりもするが、なにぶん娘には普段から「もう、子供じゃないんだから、自分の事は自分でしなさい」と言っている手前、素直にそう切り出せないのだ。しかも、娘はちょうど生意気盛り。昔はよく私にじゃれついてきて可愛かったのだが、最近は私の事を何かにつけて時代遅れだ≠ニののしる。そのくせ、妻とは上手くいっているようで、私のいない所でコソコソと何やら密談をする始末。まあ所詮、娘を持つ父親の存在なんてこんなものかと割り切ってはいるが。 そんなこんなで私は少々不機嫌モード≠ノ入っていた。 「・・・ん・・・しょっと・・・」 私は通販で購入したミニ脚立に上がり、押入れの上の戸袋の中からダンボール箱に入った電動の餅つき機を引きずり出した。うっすらと埃の被った箱。その埃を飛ばさぬよう、慎重に抱えながらそーっと床に下ろす。 「・・・ふう」 足元に置いたバケツから雑巾を取り、力いっぱいぎゅっと絞る。 よくよく考えてみれば、これって年に一度しか使ってないんだな・・・ うっすらと均等に溜まった埃を、ゆっくりと拭い取りながら、私は一年という時間の経過を感じた。なんだか、年々一年という時間の経過が早くなっているような気がするのは気のせいだろうか。 雑巾を裏返し、もう一度拭く。 すっかりきれいになった餅つき機の入った箱を抱え上げ、階段のわきに置いた。 「さて、と・・・次は・・・」 書斎を振り返りつつ自分に声をかけてみたものの、どこから手をつけたらいいものか。机の上、本棚、パソコンの周辺などなど。確かにこの散在を見れば、妻が小言を言うのも無理はないと思う。普段から片付けておけば何の問題も無いはずなのに、この歳にしてなお、いまだに同じ反省を繰り返している自分・・・。 「はあ・・・」 私はため息をつきながら、もう一度脚立の上に登り、開いたままの戸袋を閉めようと引戸の取っ手に手をかけた。 一番手前に置いてあった餅つき機の箱が無くなったせいで、その奥に投げ込まれたと思われる、ラジカセやらビデオやらの空き箱の乱雑ぶりが否応無しに眼に映る。いつの間にかここは普段使われない邪魔者たちが、放り込まれるスペースとなっていた。捨ててしまってもいいのだが、何となく捨てられない・・・そんな感じ。 それにしても、どうでも良いとはいえ、あまりにもいい加減すぎる。その乱雑さが気になって、その空き箱に手を伸ばし、軽く埃を拭いながら、一つ一つきちんと並べ直した。 「・・・ん?」 一番奥にあったせいか、まるで気付かなかった小さなみかん箱。 なんだ?あれ・・・ 手を伸ばしたが微妙に届かない。 私はいったん脚立を降り、ギリギリまで脚立を近づけて、もう一度トライしてみた。 息を止め、ぐっと腕を伸ばすと何とか届く。 みかん箱特有の脇に空いた手穴に指をかけると、指が外れないようゆっくりと手繰り寄せた。・・・思いのほか重い。 「・・・う・・・」 手繰り寄せたまではいいものの、その行動に少々の後悔が生まれた。 その箱の上は見るからにすごい埃。明らかにここ2〜3年では済まされないであろう状態。その見事なまでの埃の厚みに、私は一瞬、身体が固まった。 ・・・とりあえず・・・ 雑巾でその埃を慎重に中央に集め、その塊を雑巾越しにむんずと掴んだ。 そのまま雑巾を下のバケツに放り込むと、そのみかん箱を床に下ろす。 封をされた紙製のガムテープはすでに所々変色し、剥がれかけていた。 表には乱雑な文字で「服」と書かれ、その上から×印がしてあり「ゴミ」と書き直されている。これは明らかに私の文字だ。脇の手穴から、確かに服らしき物が見える。 もう一度、雑巾を絞り直し、箱全体をきれいに拭き上げた。 なんだこれ・・・ ゴミと書かれた物をわざわざ開けることも無かったのだが、この際ゴミならゴミで、確認して捨ててしまおうと思い、私はその箱を開けてみることにした。 粘着力を失ったガムテープは、簡単にぽろぽろと外れていく。 「・・・ん?」 そこには確かに服と思われるものが、ごちゃ混ぜ状態でひしめき合っていた。 まるで慌てて放り込まれて、封をされたようだ。 うわ・・・ 箱から出す事さえためらわれる状況だったが、とりあえずひとつひとつ手にとって確認する。ベルボトムのジーンズ、横文字の書かれたTシャツ、幅広のベルトなどなど。よくもまあ、これだけ詰め込んだものだ。確かに見覚えがあるとはいえ、十年以上も前に着ていた若かりし頃のお気に入りばかり。とっくに処分されていたものだと思っていた。 なぜ、こんなところにこんなものがあるんだろう この家に引っ越してきた時、捨てるのが面倒くさくなって、とりあえず放り込んでおいたのだろうか?自分自身、まるっきり記憶がないのだが。ただ、すでに着れるような状態ではないのは確かで、所々黄ばんでいたりほつれていたりと、様々な腐食の後が見られる。そもそも、この歳で着れる物でもないが。 ・・・確かに、ゴミだな そう思いながらも、私は次々と出てくる懐かしい代物を楽しんでいた。 ・・・これはまだ程度が良い方か・・・ そう思いながら手にとったGジャンはヨレヨレでカビ臭い。昔はよく好んでこんなGジャンを着たものだった。Gパン・Tシャツ・サングラス。それが私の若さの象徴だった。今ではもうすっかり頭髪も薄くなり、祖父そっくりの顔つきになりつつあるのだが。 そのまま床の上に広げてみる。 「ん?」 背中の隅に小さく、油性ペンの殴り書きでJack≠ニ記されていた。すでに薄く消えかかったJack≠ニいう文字。 ・・・これは・・・ 私の中に急速に蘇ってくる昔の記憶。 音楽で飯を食っていこうと、本気で考えていた時代。 そして、私が音楽をやめるきっかけとなった出来事までも。 「・・・ちょっと、待てって!」 「・・・」 某ライブハウスの入った雑居ビルの非常階段。 ギターを背中に抱え、足早に階段を下りてゆく私の腕を純一の手がぎゅっと掴んだ。 その前に一度振り払っていたせいか、今度は痛いほどの強い力で。 外気にさらされた階段の踊り場で、続く言葉も無く、私の腕を掴んだまま息を荒げている純一。 私はそんな純一に振り返ることもできずに、ただただ、じんわりとゆがんだ目の前の階段を見つめていた・・・。 私が大人になってから、人前で涙を流したのは、これが最初で最後だったように思う・・・。 純一と知り合ったのは、高校に入ってまもなくのこと。学園祭がきっかけだったと思うが、はっきりした出会いはすでに憶えていない。私も純一もそれまで独学でギターを学んできたが、コピーをするよりも 当時、そのジャンルはまだ地元では珍しく、思いのほかもてはやされた。 密かに抱いていた「プロになること」への夢。それが純一との出会いによって、現実へと近づき始めていた。 高校を卒業後、私達は親の反対を押し切って、音楽の道を選んだ。 家を出てアルバイトをしながら自活し、音楽に没頭する生活。想像していたよりも大変な事だったが、内面は充実していた。公の場で自由なライブ活動ができるようになるにつれ、共にプロを目指す多くの友人達と知り合う機会も増えていく。 そんな中、沙耶子というひとりの女性と出逢った。 彼女と知り合ったのは、私が21歳の時。彼女はキーボードを使っての、いたってシンプルな弾語りをした。彼女の声は、伸びやかで透明感があって・・・。何の変哲もないピアノの音色が、なおさらその肉声を際立たせる。初めてブッキングされたライブで、私はその彼女の歌声に鳥肌が立ち、すっかり引き込まれていた。 それから、度々ライブハウスで同じステージに立つ機会に恵まれ、彼女と話す機会も多くなり、私達は急速に親しくなっていった。2つ年下の彼女は、調理師の専門学校へ通っていて、スタジオで練習する私達に時折、手作りのクッキーなどを差し入れてくれたりもした。 そんな風にどんどん親しくなればなるほど、私の中で彼女の存在が大きくなってゆく。彼女の声、何気ない笑顔や素振り、内面の優しさ・・・気が付けば、彼女のことを考えている毎日。そんな私の想いを吐き出す場所はいつも純一だった。私は純一と二人だけの時、密かに彼女に好意を寄せていることを告げていた。純一もそんな私に笑顔でエールを送ってくれていた。 そして・・・とあるライブハウスが主催する定期オーディションの日。 ざわついた廊下とリハーサルの音が、ビル内に蔓延している。 純一はトイレに行くと言ったきり帰ってこない。 遅いなぁ・・・≠ニ思いつつ、私は先にギターのチューニングを終わらせてしまおうと、できるだけ静かな場所を探していた。ビルの喫煙スペースの脇に外に出られる場所があったのを思い出し、私はその扉を開けベランダ伝いに、ビルの裏側へと向かう。そこにはほんの少し広いスペースがあった。純一と偶然見つけた、音合わせには丁度良い穴場。 私は建物のわきを抜け、そのスペースへ・・・。 そこには二人の姿があった。 純一と沙耶子。 ふいに現れた私に、二人はあわてて離れたが。 それは、同じ一人の女性を愛してしまった為に、何年間も続いた私達の堅い結束があっけなく崩壊した瞬間だった。 信頼していたからこそ、心を許してきたからこそ、その反動は大きな波となって私の内面に押し寄せてくる。全てのものに対する不信感。ねたみ、苦しみ、空白、虚脱がリピートしながら、自分を巻き込んでゆく。自分の中でいろんな言葉が飛び交い、そのたびに自分という人間が醜く、卑しく思えてくる。時間が経つにつれ、重くのしかかってくる自己嫌悪感。 そんな状態から逃れるために、私はJack≠ノ関するモノ全てを廃棄し、誰にも何の連絡もせずひとり静かに地元を離れた。それ以来、音楽もきっぱりやめた。 このGジャンは、当時Jack≠ニして活動していた時に愛用していたもの。 なぜ、ここにあるのかはわからない。何かの拍子に紛れ込んだのか・・・。 私は床に広げたGジャンを再び箱の中へしまおうとすると、指先に何か堅いものが触れた。 探るとポケットの中からピックが数枚と裸のカセットテープが出てきた。 だいぶ汚れたテープ。表には殴り書きで「Laughing Whisky(デモ)」と書かれている。 こんなものまで、残っていたなんて・・・ その出来事が起こる少し前に、純一が持ち寄った新曲。デモテープ用にと、スタジオで簡易録音されたものだ。結局そのことをきっかけにJack≠ヘ解散し、公の場では演奏されなかった未発表曲。Jack≠ニして活動した最後の曲だ。 私はそのカセットテープをデッキの中に入れ、再生ボタンを押した。 「Laughing Whisky」 ウィスキーを飲んで全てを忘れたい それが望みさ 夜明けを飛ばぬ鳥が告げるまで 叶う事なら この手を魔法仕掛けにして お前の心を引きとめてやれるのに 戸張が孤独で愚かに降りても 歪んだこの眼はまだ見えるものか 苦い痛みを求めるだけで 笑い出すのか 俺は このまま・・・ 夜をどうにかして 遠避けてくれ・・・ 風を擦り抜けて 憂いを振り捨てて 眠れ・・・ 「誰?・・・この人たち・・・」 間奏に入った途端に、背後から声をかけられ、私は驚いた。曲の中にすっかり入り込んでいて、階段を上ってくる足音さえ聞こえなかったらしい。振り向くと、娘が怪訝そうな顔つきでドアから覗き込んでいる。 「ああ・・・これは・・・昔の知人のテープだよ・・・」 別に娘に隠すつもりはなかったが、なぜかそう答えていた。 「ふーん・・・」 普段ならそう言って、興味無さそうに居なくなるはずの娘が、なぜかスタスタと書斎に入ってくるなり、私のデスクの椅子に腰掛けた。そして何も言わずに、ただじっとそれに耳を傾けている。曲を止めるわけにもいかず、私は困ってしまった。 最後の願いだ・・・ ・・・どうか俺の冷めた心 溶かしてはくれないか、せめて・・・ 虚ろなままのこの眼に代わって・・・ 重く過ちがこの身を裂いても 時計の針がこの胸を刺しても 今はただ物憂げに声をからして 笑い出そうか 俺も このまま・・・ 今日を夢にして 取り去ってくれ・・・ 闇を漕ぎ出して 怒りを投げ出して 眠れ・・・ 夜をどうにかして 遠避けてくれ・・・ 風を擦り抜けて 憂いを振り捨てて 眠れ・・・ ・・・ この歌詞に刻まれた、私と沙耶子の間に挟まれた純一の苦悩。 当時の私には気付く余裕すら無かった。許すとか、許さないとか、そんな問題ではなくて。 純一にしてみれば、これが精一杯の私に対するメッセージだったのかもしれない。 当時、聴く気もしなかった純一の言葉を、今こうして素直に聴くことができるのも、私の中で過去の事として、ひとつ整理がついているからなのかもしれない。 やはり、時間が全てを解決するものなのか・・・。 人間とはいい加減なものだ。ただ、そのいい加減さに私自身も救われている事も事実だが。 そしてそのまま、曲は静かに終わりを迎える。 「ふーん」 娘は腕組みをして何かに納得したようにうなずいた。 なんだか評論家のような顔つきの娘。 「・・・お父さんって、こういう曲が好きなんだ・・・」 「んー?まあ、・・・な・・・」 普段、音楽の話を一切しない私が、音楽を聞いていたことが珍しかったのだろう。 娘はまだ、ジャニーズの誰々のファンだと言って、部屋にポスターだの色々貼り付けている年頃だ。こんな辛気くさい楽曲に興味がないのはわかっている。 私はカセットデッキを止めた。 「その服、どうしたの?」 娘がみかん箱の脇に置かれたそれを指差しながら言った。 「ん?・・・ああ、それは昔お父さんが着ていたものだよ」 「へぇ・・・」 娘は椅子から立ち上がると、無造作に置かれたGジャンを手にとって「うわ、カビくさー」と言いつつ、まじまじと見ている。 「だろう?さすがにもうこの歳じゃ着れない・・・捨てようと思ってたところだよ」 私はみかん箱から出したものを、再びその中へと投げ入れ始めた。 「・・・ねぇ、お父さん」 「ん?」 「このGジャン、もらっていい?」 思いもよらぬ娘の言葉に、私は一瞬唖然とする。 「あ?それ、男物だぞ?・・・だいぶ汚れてる・・・」 「そんなの関係ないよ、私が着るんだから。ね?ね?」 娘にそんな顔までされて、こう言われてはどうしようもない。 どうせ捨てようと思っていた物だ。 私は苦笑いを浮かべ「わかったよ」とうなずいた。 娘は「やった」と言いながら、その汚れたGジャンを抱え喜びをあらわにする。 自分の娘ながら、考えてることは全くわからない。この前は流行りのスカートを買ったと思ったら、今度は父親の古着か・・・。 よくよく考えてみると、現代の音楽はまさにファッションと同じ。時代ごとに新しいモノが取り入れられ、着々とその姿を変えていく。その一方で昔のものが再起したりで。 私はみかん箱の蓋を再び閉じて、その上に再び「ゴミ」と油性ペンで書いた。 ほんの一瞬だけ鮮明に蘇ってきた私の青春時代は、私の頭の中にあるだけでいい。 娘が抱えるGジャンと、このテープがあれば、それで十分だ。 私はカセットデッキからそのテープを取り出す。 「優子ぉー?」 階下から、妻の不機嫌そうな声がする。 「あ!忘れてた。お父さん、お昼ご飯だって!」 慌てたように私に耳打ちしながら「今、行くーっ!」と階下の妻に向かって声をあげる。 「早く、早く・・・」 廊下に出て足踏みをしながら、手招きをする。 私はとりあえず手に持っていたテープを机の引出しにしまい込むと、先ほど階段の上り口に置いた餅つき機を抱え、娘と共に階段を下りる。 私の前を下りる娘が、不意に振り返り私にこっそりと言った。 「・・・さっきのあのテープ、なかなかいい曲だね・・・」 はっ≠ニして娘を見る。 「後でダビングさせてね」 娘はそんな私に笑みを浮かべ、再び淡々と階段を下りていった。 私はひとりふっと苦笑いを浮かべた。 今宵は久しぶりに、ウィスキーでも開けてみようか。 リビングに下りて抱えていた餅つき機を降ろすと、妻がすまなそうな顔つきで近づいてくる。 「あなた、申し訳ないんだけど・・・パスタの買い置きが足りなくって。・・・お茶漬けでもいい?」 私はそんな妻の肩をポンポンと叩きながら、「問題ないよ」と笑った。 |