切り取られた世界、誰がための寓話
渋滞にいらついた車の排ガスが五月の砂ぼこりを巻き上げ、乾いた空に散らした。 この北方の都市にも、ようやく春らしい春が訪れる。本来自然と相反して然るべきアスファルト路面にさえ、ある種のノスタルジアを発見する、雪国の春。ビルの間を吹き抜ける風も清々しく、街行く無機質な人々の顔にもどこかしら解放感が窺える。暗く長い冬の重圧から逃れ、来るべき生命の季節へ思い馳せる人々。本来的に春とは、希望に満ちた季節であるべきなのだ。 しかしもちろんそんな幸福な季節にだって、悲劇は起こりうる。ちょうどディズニーの映画でも殺人が起きるように。それは空から降ってきた。 女はオフィス街を歩いていた。上下紺のリクルートスーツ、肩にひもを掛け脇に挟んだショルダーバックには、クリアケースにファイルされた書類がのぞいている。ビルからビルへ、西から東へ移動している最中だった。女はオフィス街を行く人々が大抵そうであるように、真っすぐ前を見て風を切るように早足で歩いていた。まるで誰かと競争でもしているみたいに。 目の前に黒い固まりがあらわれたとき、彼女は勢い余ってそれを蹴飛ばしてしまった。それがなんなのか、うまく認識することができなかった。視覚として目で捕らえたそれに名前を与えることができなかったのだ。彼女は言葉を喪失してしまった。ダイレクトな視覚情報が言葉を飛び越え、イメージに警告している。三秒ほど経ってから、初めて彼女は悲鳴を上げた。 それは人間の死体だった。 人間だったものの脱け殻だった。 人間の形をしない人間だった。 八階建てのビルの屋上から、男は跳んだ。 男は誰もいない屋上に登り、力ない足取りで金網に近付いた。慣例に習って靴を脱ぎ、遺書を添える。この期に及んで型に縛られている自分が可笑しかった。何かを確認するように蒼い空を見上げ、しばらく目を細めた後で、金網を乗り越え外側に回る。都会の喧騒が耳に届く。まだ少し肌寒い春風が吹き上げる。下を見ると車が流れ、人が流れ、時間が流れていた。男は、自分と街との関係についてもう一度考えてみた。友達や、恋人や、親や、思い出や、仕事や、色々なことを思った。するとそれまでささやかに飼い馴らしてきた疎外感が、急速に存在感を持って膨らみだした。いびつな自分の型が不安になる。誰とも噛み合わない、いびつな自分が、不安でたまらなくなる。男は結局、自分と街との関係について、ひとかけの確信すら持てずに終わった。 男は思いついて携帯電話を取り出す。 通話ボタンを押して、自分が誰かと繋がるのを待った。 短い会話を交わす。 やがて電源を切る。 スーツの懐にしまう。 大きく深呼吸。 そして、男は跳んだ。 よく晴れた空は絶妙な蒼さで高層ビル群の背景を塗り潰していた。あまりに出来すぎたその蒼さに、刹那、死への逡巡がよぎる。薄いレコード盤のような春の雲を羨ましく思った。雲はいつも、ただそこに流れている。自分もこのままこうして浮いていたい、と思った。 しかし次の瞬間、男の身体は抗いがたい重力の束縛を受ける。 身体が落下する。 視界に空は、もうない。 意識が落下する。 視界が狭まる。 地面が近付く。 何もかもを考える。 言葉のない領域で、男はすべてを思い返す。 さらに地面が近付く。 恐くなる、すべてが。 恐くなる、すべてが。 諦める、すべてを。 諦める、すべてを。 「もしもし」 「ああ、あなたなの」 「どう、そっちは順調?」 「まあね。一応格好はついたわ。あとはお客さんが来てくれるのを待つだけ」 「来るかな」 「来るわよ。いつだって誰だって音楽を必要としているもの」 「そうだね。きっとうまくいくよ」 「ありがとう。がんばってみるわ」 「ところで、僕の言ったレコードは用意してくれた?」 「プライマル・スクリームの『ロックス』でしょ。ちゃんと仕入れてあるわよ」 「そのうち買いにいくよ」 「お金はいらないわ。もう、封を切っちゃったし。…いい歌ね、これ」 「ありがとう」 「じゃあまたね」 「またね」 |