私のどまんなかを甘く激しく貫いているもの。
コロスレベル☆☆☆ 〜 初期値 〜



潮なつみ





 私は、感じやすい上に伝えたがりな性格なので、書きたいと思ったらすぐに小説を書く。結論をすぐに出したがるので、これで良いと思ったらすぐに発表する。そして、またすぐに小説を書きたくなる。

 量産していると言われたらそれまでだけれど、だからといって、私にとって作品がその程度のものかというと、そういうわけではないのだ。一時間で書き上げた小説も、三年かけてようやく仕上げた小説も、私は同じくらい真剣に書いた。それぞれの瞬間に、妥協などあり得ない。妥協するくらいなら、初めから小説など書かないのだ。

 誰かが、あんたのやっていることを一言で言えば、つまり垂れ流しだ、と言った。
 私は、それを認めるつもりも無いけれど、否定もしない。私は、自分の作品がいかなる背景で書かれたかなど、一切語りたくない。だから、他の人にどう読まれようが仕方が無いと思う。

 貶されるのは、まだ良い。
 「こうしたらもっといい作品ができるんじゃないの?」などとアドバイスをされるのは、実際、反応に困るだけだ。あなたが認識する面白さは、必ずしも万人が受け入れるわけではないのだ。
 世界に数々の作風や文体が存在するのは、皆が自分の個性を生かした作品を書いているからというわけではなく、皆その時点で自分が一番良いと思っている形を、単に追求して来た結果ではないかと思うのだ。

 そんな考え方だから、私は誰かの作品に対して、あんたの作品はすばらしいとか稚拙だとか言うつもりもない。他人が本当に書きたかった理想の形なんぞ、私には解らない。その人がそれを完璧だと言うのなら、それだけでもう、充分だ。私は、著者と作品の関係性こそが、文章を読み解く上で一番の醍醐味だと思っているのだから。
 もし、「実はこれは、納得のいかない作品だ」と言う人がいたなら、私は無垢な顔をして言おうと思う。「どうして納得できる作品を書かないの?」と。

 その逆で、アドバイスを求められるのも困る。「どうしたらすばらしい作品が書けるのだろう?」なんて。あなたがどんな作品を書けば納得するのかを知っているのは、あなただけなのに。人に答えを求めて、人に言われたとおりの作品が書けたとして、それであなたは納得するのか。そんな作品を書いて、あなたはどんな意味を見出すのか。私には解らないのだ。

 そうは言っても私は、文芸創作について語り合うのは大好きだ。
 小説を書いている人、書いていない人。書きたい人、書きたくない人。読む人、読みたい人、読めない人、読みたくない人。世の中には多種多様の人間がいることを思い知らされるのが大好きだ。きちんと自分の文芸観を話せる人には、私も自分の考えを聞かせたい。考え方が違ったところで、両者が「文芸創作について思うところがある」という意味で、完全に同等の立場であるならば、時間がいくらあっても足りないくらい、私たちは語り合えると思う。

 私はいつでも自分が書きたい小説を真剣に書いてきたから、たとえそれが何の結果ももたらさなかったとしても、後悔することはない。酷い批評を受けたことだって、勿論あるけれど、だからといって書かなければ良かったと思った作品など、ひとつも無かった。

 作品は私の全てであり、だから作品という言葉は、私自身という言葉と同義である。
 私は、そうやってしか生きていくことが出来ないのだから。