恋する街 ―彩雲―




潮なつみ





  二、

 「で? 山口的には、その時どう思ったわけ?」
「どうって……まあ、なんとなく良いなあとは思ったけどさ」
「だからダメなんだってば。ちゃんと態度をはっきりしなきゃ、伝わらないよ」
 千草は、電話の向こうで苛々したように言う。
 僕は、彼女に顔を見られていないのをいいことに、声には出さずに小さく苦笑した。だって、上手くいかなかった初恋のことで今さらクラスメイトに叱咤されているなんて、そんなのどう考えても滑稽じゃないか。しかも、幼稚園の頃、先生に憧れていたという、ありがちではあるが絶対に上手く行きそうにもない初恋なのに。まったく、どうしてほしいんだか。

 夏休み前、公園で缶紅茶を飲んだ日以来、千草は時々僕に電話をかけてくるようになった。夏休みが終わって、秋が来て、冬が来て、受験を目の前にする頃になっても、その習慣は続いていた。それでいて、学校での僕は相変わらず地味で、阻害されているともいえなくない様子で居続けたし、学校での彼女は相変わらず妙な存在感を醸しながら皆に埋もれていて、普段の僕らは言葉を交わすどころか、接触するような機会すら、ほとんど無いままでいた。
 それでも、電話で話してみれば、それなりに会話は成り立つので不思議なものだ。『普段は接点の無いクラスメイト』という存在は、謎に包まれていて面白いのかもしれない、と僕は考えた。初めは学校や受験の話を中心にとりとめの無い会話を楽しんでいるという感じだったのだけれど、お互いの事を殆ど何も知らなかった僕らのとりとめの無さは、留まることを知らないように思えた。知っても知っても、まだ何かあるのではないかとすら思ってしまうし、実際に話すべきことは沢山あった。僕らは次第にお互いの私的な部分まで話すようになっていた。
 たとえば、両親や兄弟との関係や、飼っているペットの話(奇遇なことに、僕の家も彼女の家も、犬と猫を一匹ずつ飼っていた)、あとは、隠れた特技(彼女は意外にも中学まで柔道などをやっていた。僕は、あまりにキザだとは思ったけれど、電話口でギターを弾いてみせた)とか、人生で一番古い記憶の話(僕は、初めて見た景色が明らかに日本のものではなかった記憶があったが、実際にその頃、父の仕事の関係でシンガポールにいたことは、かなり後になって知った。彼女は、二歳にして平仮名の全てを書けた時の喜びを、今でも鮮明に覚えているらしい)だとか。
 そんなわけで、今日はお互いの初恋の話になり、僕は自分の初恋が上手く行かなかったというだけの理由で、千草から説教をくらったのだ。
 僕らはいつもそんなふうに、どうしようもないくらいくだらない会話ばかりしているような気がする。尤も、千草には他にも電話友達がいるのかもしれないが、僕にとっては、千草以外から、特別な用事も無くかかってくる電話などなかったし、僕から誰かにかけることも無かった。初めは慣れなかったけれど、こんな電話も受験勉強の息抜きには丁度良いんじゃないかな、という程度に考えるようになっていた。
 それに、千草からの電話は、前の電話からたった三日でまたかかってくることがあるかと思えば、三週間も音沙汰の無いこともあった。責任の無さは、お互いにとって良い作用をもたらしているのだと思っていた。義務ではない、ということは、気楽であるということだ。

 「子供の頃からの悪い癖だと思うよ。山口は、カッコ良いところを見せようとしない代わりに、カッコ悪いところを隠そうとして、いっつもバカみたいに気取ってるからモテないんだよ」
「別にモテなくたって死なないし、どうでもいいよ。見せるほどカッコ良いところなんて無いし」
「どうしてそうテキトーなの!」
 千草は大仰に興奮したような怒りの声をあげる。彼女は、僕を煮え切らない男だと批判するのが好きらしく、いつも何かと僕のアラを見つけては、そうするのだ。
 僕は、初めこそそんな彼女の様子に戸惑ったりもした。けれど、毎回怒っても、また電話をかけてくるということは、彼女が別段、本気で怒っているわけでもないということだろうと気が付いた。そして、そんなことを数回繰り返すうちに、彼女が煮え切らない僕を批判するいくつかの理由を分析することも出来た。
 その理由は、ひとつには、千草は自分こそが煮え切らない人間であることを自覚しているため、僕の言動に対して、まるで自分を見ているかのような気持ちに腹を立てているらしいのだった。
 いわゆる同族嫌悪というやつか。
 これはまた、あくまで千草らしい――つまり、あくまで凡庸な――感情の曲がり方だ。僕はそれに気がついたときに、思わず微笑すらした。千草が僕の想像の範囲を決して超えない思考回路を持ち合わせていることは、いつしか僕を安心させてしまうほどになったのだ。

 「……で? 須藤の初恋の話は?」
 ひとしきり責め立てられた僕は、今度は千草に話を振る。この流れも、毎回のパターンになりつつあった。
「うーん」
 少しの沈黙を挟んで、千草はゆっくりと喋り始める。
「私はね、誰かを好きになると、毎回『これが初恋かなあ』って思うの。それなのに、その人が好きじゃなくなると、というか、次の人を好きになると、『あれは初恋じゃなかった。こっちが本物なんだ』って思っちゃうの。毎回、その繰り返し。だから、まだ初恋を経験してないのかなーって感じ」
「……おまえな、」
 ゆっくり喋った挙句に、曖昧な事しか言わない千草に、僕は少し苛立った口調で合いの手を入れる。
「男に初恋なんてクソ恥ずかしいことを無理やり語らせたくせに、自分はそうやって誤魔化して、隠すわけ?」
 本当は、僕は少しも苛立っていない。どっちともつかないことしか言えない、そういう曖昧さこそが、千草だと思うからだ。そして、僕の合いの手を受けて、千草は少しむきになって反論したり、する。
「隠すつもりなんてないけどさ。本当にそう思うんだもん。クラスが変わった子とか、転校しちゃった子とか、先に卒業しちゃった先輩とか、いいなあって思ってた人も、離れたらみんなどうでも良くなっちゃうの。初恋ってそういうものじゃないような気がするんだけど。もっとこう、淡くて、熱くて、甘酸っぱい? そういう感情とともに、どうしようもなく思い出されちゃって切なくなったりするべきだと思うんだけど、そういうのがないの。だから、どれも違うような気がしちゃってさあ」
「ふーん」
 ――要は、恋に恋してるってことか。
 僕は、千草には悟られないように小さく溜息をついた。この溜息も勿論、決して悪い種類のものではない。どちらかと言えば安堵だとかそういう良い種類のものに近かったと思う。しかし、どうして自分がそう思ったのかは、解らなかった。そう、これだ。こういう態度だから、彼女は僕の煮え切らなさを指摘したがるのだ。だけど、これが正直な気持ちであって、それ以上でもそれ以下でもないのだから、もうどうしようもない。

 僕は、ある種の勢いで、千草に対して「好きだ」と言った。あの時は僕の間抜けさの為に、それどころでは無くなってしまったし(今思い出しても、ゲンナリするくらいだ)、あれ以来、それについての話は一切触れていない。僕も、彼女も。
 それに関して、彼女はどう考えているのだろうか、と思う。あの出来事と、僕に頻繁に電話をかけてくることと、何らかの関係があるのかもしれないし、そうでないのかもしれない。それすらわからない。
 だけど、なんとなくバツが悪く、蒸し返すような話でもない気がするので、僕はあのことについて、弁解も出来ないままで居る。「弁解」という言葉をここで使うのは正しくないかもしれないけれど、正直そう思う。何を弁解しようとしているのかも、僕自身、解らない。けれど、僕がそれを「弁解」であると認識する以上、それは弁解に近い行為なのだと思う。
 事実は、こうだ。千草は、確かに僕の興味の対象である。しかも、その興味というのは、好意的なものであるのは確実である。観察していれば楽しいと思ったし、近づいてみて実際に自分に対して何かしらの反応をする千草は、とても可愛いと思う。そういった気持ちを最も簡単な言い方で表すとすれば、「好きだ」という言葉になるというのは、それなりに筋の通ったことだとは思う。僕はそれを否定するつもりもない。
 だからといって、十七歳の男が同級生の女の子へ抱いているそんな単純な気持ちを、「好きだ」で表現するのは、いまいち的外れという感じがする。少なくとも今の僕は、この気持ちが果たして恋のようなものかどうかを正確に判断する自信がまるでなかった。

 たとえば、千草という一人の女の子といつも一緒にいたいというような、いわゆる独占欲みたいなものは、僕にあるだろうか。
 などと、自問する必要も無いくらい、そんなものが僕の中にないことは明白だった。学校での千草は、男女問わず皆に囲まれて楽しそうに笑っている。それは、僕が千草を観察し始めたときから何も変わっていないことであるし、変わって欲しいと願うことも決してない、ただそこにある現状に過ぎない。そして僕も以前と全く変わらず、少し離れた場所から観察するだけで、充分に楽しめるのだ。
 千草は時々、教室の中で他の男と異様に仲が良さそうに振舞っていることすらある。身体を触れ合ったり、目線だけで会話したり。千草に目をつけている男も、一人だけいることが解った。それでも、僕にとってそんなことは観察対象のひとつでしかなく、嫉妬する必要もないように思われた。
 そもそも、僕は千草とやりたいのか。と、考えたこともあった。答えは自分でもよく解らなかった。何度も電話をして、お互いに心を開きかけている今、ひょっとしたら彼女のほうから誘って来るなんていう展開もあるかもしれないなどと夢想して、何度かのマスターベーションに耽ったという事実は、正直な話、あるけれど。ただ、僕は童貞であり、チャンスさえあればいつだって女を抱いてみたいのは当然だった。その相手は、生理的に受け付ける限り女であれば良いのであって、別に千草である必要は必ずしもない、というのが正直な気持ちだった。
 そうして、そこまで夢想しておいて、やっぱり千種のほうから誘ってくるなんて、絶対にあり得ないと思う。そんなことはあって欲しくない、とも思う。ちょっと仲良くなったくらいでヤレるほど簡単そうな女だったら、千草が僕の興味の範疇に入ることなんて、初めからなかっただろうと思うのだ。
 彼女は性に関しても、あくまで中庸である、と思う。決して性にだらしない女でもないし、かといって潔癖すぎて近寄れない女でもない。普通に性に興味があって、だけど未知なる世界に少しの恐怖心は抱いている、そういうごく普通の女の子だ、と思っている。
 そして、そういう普通の女の子の足を開かせるためには、普通に「愛」という切り札が必要なのだろうけれど、僕はその切り札を持っている自信がまるでない、というだけの気弱な話なのだった。

 「ねえ」
「なに」
「恋って何なんだろうね?」
「さあ、ねえ……」
 千草は、電話口では随分気の抜けたような声を出すことが多い、と、僕は最近になって気がついた。教室で見る普段の千草は、もう少ししっかりした声で、しっかりした喋り方をしていると思う。人にペースを合わせるのが上手な所為か、早すぎず、遅すぎず、とても聞き取りやすい声で喋るのが彼女の特徴だというのに、電話口だと人が変わったように、ゆっくり、曖昧な発音で喋る。一度だけ、眠いのかとたずねたけれど、そういうわけではないらしい。
 僕は暖房の良く効いた部屋の、独特の気だるさが、あまり好きではない。体質に問題があるのか、暖房を入れると吐き気がしてくるのだ。そのため、僕の部屋は冬を迎えるとよく冷え込む。その中で、僕は身体を丸めながら喋りつづける。長電話をすることを覚えた最近は、ベッドに転がって電話をするのが常になってきており、寒い夜には布団をかぶって話す。それでも、電話機を持つ指だけは、どうしてもかじかんでしまう。
「……」
「……」
「……わからないよねえ」
 僕はそういうときに、電話機をもう一方の手に持ち替えて、冷えた指を程よく温まった布団の中でほぐしたりする。その間、特に何も喋らないこともある。
 千草との電話が慣れてきた頃から、こうして電話口で沈黙することも、多くなった。もちろん、僕だけが黙ってしまうわけではなく、千草も喋らないまま受話器を持って考え事をすることがあるらしい。彼女は(やはり中庸であるので)、やたらおしゃべりというわけではないとは思うけれど、見ている限りでは決して物静かな感じでもない。教室などでは常に誰かと会話をしている、ように見える。彼女が黙っているのは授業中くらいのものなので、僕は彼女が電話の向こうで沈黙しているときは、授業中の眠そうな横顔を思い浮かべたり、している。すると、
「山口と話してるとさぁ、『話題作らなきゃ』って焦らなくていいから、超ラクチン」
 などと、突然思い出したように千草が言い出すので、僕は『俺には気を使わないってことかよ』などと不平を言ってみたりするけれど、別に不平に思っているわけでもなかった。もともと長電話をするという習慣がなかったから解らないけれど、僕は別に沈黙することで気が重くなることもなかったし、喋らない間にも、ちゃんと千草との会話に関連した考え事をしている。千草も千草で、ほほの筋肉をほぐしながら、何か考え事をしているらしく、時折、その一部を声として漏らすような、「あー」とか「うー」とかいう意味不明な会話も、なかなか面白いと思った。
 そう、それは面白かった。
 だから、千草との電話は、回数を重ねるごとに通話時間が長くなっていった。回数を重ねるごとに話が盛り上がって長くなってしまうというのではなく、わざと空白を作って同じ時間を共有するようなやり方で。少なくとも僕は、もう少し話をしたいと感じながら沈黙した。
 だけど、僕たちの通話時間がどんどん長くなっていくのには、もうひとつ、性格的な問題があった。
 三回目くらいの電話までは、さすがの千草も妙に僕に気を遣って、勉強の邪魔になっちゃうから、なんて言いながら、それなりに手短になるよう、話を切り上げる努力をしていたのが解った。多分それは、彼女にとっては精一杯の気遣いだったのだろうけれど、残念ながら、僕は彼女の想像ほど勉強しているわけではなかった。それが解った時点で(地味な奴は勉強ができると彼女は思ってきたらしいけれど、それは単に馬鹿さを露呈していないだけだと僕は教えてあげた)、彼女は遠慮などする必要がないと悟ったのだ。
 いや、遠慮しないというのは、言い方が悪過ぎるかもしれない。彼女は本来、自分から話を切り上げるのが酷く苦手なだけだった。気を遣わないで良いのであれば、切り上げるタイミングの決定権は、僕に委ねたいと思うようなのだ(彼女がいつもみんなの中で中庸で居られるのは、実はその決断力の放棄に拠るものなのだろう。そして、彼女がそれを実にさりげなくやってのけているということは、僕も彼女と頻繁に電話で話すようになるまで気がつかなかったことである)。
 そして奇遇なことに、僕という人間もまた、自分から話を切り上げたり、何かに区切りをつけたりするという行為が、得意ではなかった。ましてや、千草と電話線を通じて会話をするということは、僕にとっては受験勉強をするより遥かに楽しいことだったのだ。上手く終わらせる努力自体、とてもじゃないけれどする気も起きなくて当然だった。

 結果として、僕らは毎回、電話を切るタイミングを見失った。だいたい二時間や三時間はどうでもいい事を喋り続け、ある瞬間――午前零時を回ってしまったからとか、三回も欠伸をしてしまったからとか、母親が早く入浴するように急かすから、とかいう理由が見つかったとき――に、急に電話を切ったりするのが常になる。僕と千草の間には、どちらかが話の途中で突然「じゃあね」と言って電話を切っても、お互いに不平不満は言わないという暗黙の了解まで出来上がっていた。
 今日も、そのタイミングだった。うちの親父が、飲んで帰ってきたのだ。そのときを待ちかねていたわけではないけれど、こちらから切り上げてやらないと千草が困るような気がするという変な焦燥感の中で、僕はいつも唐突に言うことになるのだ。
「じゃあ切るよ」
 いつもの通り、ほとんど千種の返事を待たずに、電話を切ろうとした。
「ちょっと、待ってよ」
 その日に限って、千種は珍しく、電話口で大きな声を出して、僕が電話を切ることを制止しようとしたのだ。
「何だよ?」
「解ってるんでしょ?」
「え、何が?」
「あたしが、……あたしが考えてること、くらい」

 このときの気持ちをなんと言ったらいいか、僕は今でも、解らずにいる。突然、指がかじかんでいたのを思い出して、受話器を逆の手に持ち替える。その間に、頭をフル回転して『何か』を考えなければいけないと思ったけれど、『何か』が何なのかすらわからない状態だった。
 千草が考えてること?
 そんなこと言われたって、僕には千草の頭の中を正確に把握することなど出来るわけがない。
 ただ解ったのは、それまでとは明らかに違う『女』の声でもって、千草が僕の煮え切らなさを訴えた、ということだ。それは恐らく、僕が「好きだけどね」と言ってしまったことと、関わりはあるような気がする、けれど、どう関わっているのかまでは判断できなかった。
「解らないよ」
 僕は、咄嗟にこう答えていた。
 何かが怖くなったのかもしれない。
 あくまで自己主張をしないはずの千草が、急に表明した変なパッションを受け止めてしまい、方向性を見失ったのかもしれない。

 千草は電話口であからさまな溜息を吐いて、それから言った。
「お互い、解らないもんだね」

 静かに電話が切れて、僕は呆然とした。それから、一ヶ月経っても、千草からは電話が掛かってこかった。
 その間、僕に解ったのは、僕から千草に電話をかけるような勇気など、自分は持ち合わせていないという事実だけだった。