恋する街 ―アフターコーヒー―




雨宮しずく







 ――カランコロン。
 ドアを開けると、上部に取り付けられているベルが鳴り響き、私達の入店を知らせた。エントランスを一通り見渡してみる。白と木目を基調とした内装は暖かみを感じさせ、色とりどりのリボンが巻かれているベンジャミンの鉢植えや、壁にかけられてる小さなリトグラフが気取っていない雰囲気を漂わせている。
「ね、いい店でしょ。ずっと弥生を誘いたかったの」
 確かに感じのいい店だ。佐智さんに誘われなければ、自分では絶対に来ようとは思わなかっただろう。フレンチレストランなんて言うから、もっとかしこまった、正装しないと入れないような店を想像していたのだけれど、とてもアットホームで居心地の良さそうな店だった。
「ご案内いたします。どうぞこちらへ」
 私達はエントランスからダイニングホールに案内された。ホールに入って一番最初に目に止まったのは、丸いテーブルに座る男女。女の子の方はまだ若く、20歳そこそこというところだろうか。笑顔の可愛らしい女の子だ。そのまま視線をずらし男の方を見た。多分私よりも少し年上で、座っているけれどきっと背は高い。私の視線に気が付いたのか、男の方が私を一瞬見た。
 あっ!
 声に出してしまいそうな自分をなんとか抑えた。男は、昔の恋人にとてもよく似ていた。すぐに目を逸らして思う。
 もしかしてあの人?
 隣にいるのは新しい彼女?
 確認するのが恐くて、私は隠れるように奥の四角いテーブルに座った。
「ちょ、ちょっとお、弥生」
 追いかけてくる佐智さんの向こうでは、取り残された店員が複雑そうな表情をしていた。


「失礼いたします。オードブルになります。こちらがスモークサーモンとカマンベールのカクテルサラダ、そしてこちらがベーコンとマッシュルームのロイヤルキッシュでございます」
 その説明に対して、佐智さんは食前酒のシェリーを片手にうんうんと頷いている。けれど私はそれどころじゃなかった。鼓動はまだおさまらない。私の細胞の一つ一つが一斉にドクンドクンと鳴っているように感じる。まるで体全体が一つの大きな心臓になってしまったみたいだ。
 そんなに広くないダイニングホールでは数組の客が食事をしている。佐智さんの肩越しに、昔の恋人によく似た男が見える。横顔しか見えなくてよくは判らないけれど、やっぱり似ている。思わず男の顔に目が行く。そしてそのたびに男と目が合ってしまう。
「きょろきょろしてどうかした? 知り合いでもいるの?」
「ああ、悪い。なんでもないよ」
 微かに聞こえてくる彼らの会話。声まで似ていた。あの日突然告げられた彼の別れの言葉を思い出す。ようやく忘れることができたのに、今更会いたくなんてない。会えば彼への気持ちが再び蘇ってしまいそうだから。
 あの人じゃありませんように。別人でありますように。誰に祈っているのかも解らず、私はただひたすら呪文のように繰り返した。


「失礼いたします。帆立とあさりのチャウダーとバケットでございます」
 佐智さんは目を輝かせてスープをすすり始めた。温かい湯気が私の顔を覆う。うん、確かにおいしそう。でも……。
 自分で言うのもなんだけど、私達はいい関係だったと思う。2歳年上だった彼とは、足りないものを補い合い、与え合った。付き合って3年目に入ってもマンネリになることはなく、たまには喧嘩もしたけれど、お互いを大切にして少しずつ愛を育んでいった。――と、私は思っていた。
「好きな女ができたから、お前とはもう付き合えない」
 彼にそう告げられたのが1年前。私は彼と結婚するだろうと、彼もきっとそのつもりだろうと思っていたのに、私達の間で繋がっていた糸は、彼の意志によって、あの日突然あっさりと切断されたのだ。私には何が足りなかったのか。それを教えてもらえなかったのがずっと心残りだった。指摘をしてもらえたなら、それを改善すれば、彼はもう一度私に微笑みかけてくれるかもしれないという期待もあったが、心の奥底では、それはもう無理だろうと諦めていた。取り乱すことなく笑顔でさよならしたのは、それが私ができる精一杯の強がりだったからだ。


「失礼いたします。舌平目と小海老の白ワイン蒸しブルギニオンソースでございます」
 ナイフで魚を小さく切ると、切れ目からはガーリックの甘い匂いがふわっと広がった。あの時のことを思い出す。
 彼と付き合い始めたばかりの頃、彼の実家に連れて行ってもらったことがある。その時向こうの両親、特にお母さんが私のことをとても気に入ってくれて、随分と良くしてもらった。息子の恋人をもてなすということで、豪勢な料理を作ってくれていた彼のお母さんは、「普段はこんなに豪華じゃないんだけどねえ」と照れくさそうに笑っていた。並べられた料理の中にガーリックトーストを見つけた。当時ニンニクが食べられなかった私は、せっかくお母さんが腕によりをかけて作ってくれた料理に手を付けないわけにもいかず、意を決して食べた。ところがそれは私の予想に反してとてもおいしくて、結局私はそのガーリックトーストを3つも食べてしまった。お母さんは、「パンに塗ってるのはブルギニオンバターと言ってね、ガーリックと香草を混ぜたバターなのよ」と自慢そうに話していた。それから私はニンニクが食べられるようになったのだ。
 テーブルの周辺は、ブルギニオンバターの匂いが漂っている。あの人の思い出も溢れてくる。
「いい匂い」
 小さな声で呟くと、佐智さんが嬉しそうに頷いた。


「失礼いたします。パストラミのサラダです。ドレッシングはサウザンアイランドとビネグレットソースの二種類あります。こちらのソースポットにございますので、お好みでおかけください」
 さっきからどうしても食べることに集中できない。向こうの男女に、いや、男の方に視線が行ってしまって、ちっとも料理を楽しめない。佐智さんはそんな私には気が付いていないみたいで助かってるけれど。
「弥生はどっちのドレッシングにする?」
「あ、ええと、そうだな。ビネグレットソースにしようかな」
 佐智さんは二つあるソースポットの片方を私の前に差し出した。つんとしたワインビネガーの匂いが鼻腔を刺激する。
「それにしてもお前、本当にきれいになったな」
「やめてよ。恥ずかしいよ」
「あの時言ってた言葉、嘘じゃなかったな」
「びっくりした?」
「まあ、そうだな」
 再び彼らの会話が聞こえてきた。会話の内容からすると彼らは恋人同士ではないらしい。なんだか久しぶりに会ったような、昔を懐かしんでいるような、そんな会話だった。もしもあの男があの人だとしたら、少なくともあの女の子は恋人ではないということだ。少しだけ安心する自分がいる。別にあの人であろうとなかろうと、もうあの人は昔の恋人なんだから。もう関係ないんだから。私は何度も自分にそう言い聞かせた。


「失礼いたします。牛フィレ肉のパイ包みコルドンブルー風でございます。お皿が熱くなっておりますのでお気をつけください」
「うわあ、おいしそう」
 佐智さんは歓喜の溜息を漏らした。デミグラスソースがかけられたパイにナイフを入れると、中からはミディアムレアのフィレ肉が現れた。肉汁が滴ってソースと混ざり合う。普段なら満面の笑みで料理を楽しむ私が今日は曇った顔で食事をするものだから、さすがに佐智さんも気付いたようだ。
「あんまり食欲なかった?」
「え? ううん、そんなことないよ」
 必死で取り繕った不自然な笑顔に対して、佐智さんは困ったように笑った。そして聞こえないほどの小声で、「素直じゃないなあ」と呟いた。私はその一言を聞き逃さなかった。それは、あの人がいつも言っていた言葉と同じ。
「お前は本当に素直じゃないな。かわいくないぞ」
 喧嘩すること自体そんなに多くはなかったけれど、喧嘩のたびにあの人はそう言った。自分でもかわい気がない女だということを自覚していた。そしてあの人はいつも、「全くお前は仕方がないな」と言いながら両手を広げて、私は納得いかない表情のまま自分の体をあの人の胸の中に預けた。それが私達の仲直りだった。
 私はぼんやりと、あの人の胸の温もりを思い出していた。


「失礼いたします。ミルクレープとスリーズソルベ季節のフルーツ添えでございます」
「ああん、もうデザート? まだ料理が食べたいのにね」
 残念そうな表情で、佐智さんは私に同意を求めてきた。結構なボリュームがあったはずなのに。私は食欲がないながらも全ての料理を完食していて、もう充分お腹一杯だった。本当に食べ足りないんだろうか。
「名残惜しいけど……心して食べよう」
 そう言ってはいるけれど、佐智さんの頬は緩んでいた。やっぱり女はみんな甘いものが大好きなのだ。
 またあの男を見てしまった。しかし、もう目は合わなかった。久しぶりの再会に話が弾んでいるのだろう。テーブルの上はコーヒーが残っているだけだ。もう食事は済んで、会話を楽しんでいるようだった。
 ケーキの隣には、芸術と思えるほど複雑な形にカットされたイチゴやメロンが並んでいる。私はイチゴをデザートフォークで刺し、形が崩れないよう慎重に口へと運んだ。甘酸っぱい。その味は、今、私の心の中に渦巻いている感情と似ていた。


「失礼いたします。コーヒーになります。コースは以上でございます。どうぞごゆっくり」
 いつもなら楽しいはずのデイナーがちっとも楽しくない。おいしいはずの料理がちっともおいしくない。今日は来るべきじゃなかったと心の中で呟いたその時だった。店を出ようと席を立った男の顔がはっきり見えた。男は――あの人ではなかった。
「ごちそうさまでした。おいしかったね」
「アイハラとの再会記念のディナーに相応しい店だっただろ?」
「うん、フジムラがこんな店知ってるなんて意外だった」
「中学生の時ならともかく、大人の女になったお前にまた缶紅茶ってわけにもいかないからな」
 向こうの方から聞こえてくる会話に、私は安堵した。なんだ。全然関係ない人じゃない。こんなにいろいろ考えちゃって、なんだか損をした気分。
 味わって口にできたのは食後のコーヒーだけ。カップに半分だけ残っている冷めたコーヒーが、今日のディナーで一番おいしいご馳走だった。

 けれど、安心したはずの私の心は、完全には晴れていなかった。気付いてしまったのだ。もう完全に忘れたと思っていたあの人は、まだこの胸の中で大きな存在のまま残り続けていることを。一年も経っているのに、あんな終わり方をしたというのに、私はまだあの人のことが忘れられないのだ。
 あの日、あの人の前で見せなかった涙が、今更になって溢れてきた。目の前で突然泣き出したというのに、佐智さんは驚く素振りを全く見せず、暖かい表情で私を見つめている。もしかしたら彼女は、全て解かっていたのかもしれない。
 私は膝の上に広げていたナプキンを手に取って涙を拭いた。そこにはベージュ色の文字で『C'est la vie』と書かれている。確か、この店の名前がそうだった。
「ねえ佐智さん、これ、なんて読むの?」
「これはね、『セ・ラ・ヴィ』って読むんだよ」
「ふうん、どんな意味?」
「フランス語で、『それが人生』って意味」
 そうだ。あの人と出会ったことも、あの人と別れたことも私の人生なんだ。そしてこれから先も、私はこの人生を歩んでいかなければならないんだ。いつまでも彼の思い出にしがみついてたって仕方がない。あの人が自分の道を歩んでいるように、私も自分の道を歩み始めなければ。このコーヒーを飲み終えたら、私は今度こそあの人のことを忘れようと思った。
「佐智さん、今日は連れてきてくれてありがとう」
 やっと笑顔になった私を見て、佐智さんは言葉にはせず、私に負けないほど眩しい笑顔を向けた。
 今度こそ、本当にさようなら。
 心の中でそう呟いてカップを口に運ぶと、飲み干した冷たいブラックコーヒーは、ほろ苦くて切ない思い出の味がした。