恋する街 -昼下がり-




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   2.モナリザ
「十分くらい歩くけど、大丈夫?」
 夕子さんは、店を出るなりそう言って、言った割には私の返事も聞かないまま、早足で歩き始めた。彼女の脚は、とても長い。夕刻が近づきかける舗装道路に映る少し長めの影を見て、それから実物の彼女の腰の位置がとても高いのも確認して、自分のそれと比べてみる。ただでさえ身長差があるというのに、このストライドの差をもってして早足で歩くなんて、勝手な人だ。私は半ば小走りになってついて行く。
 いつもの私だったら、一体どこへ連れて行かれるのだろうと不安になるかもしれない。けれど、不思議なくらい軽快な足取りで彼女を追いかけていく自分を見つける。
 どうしてだろう。と、少し考えて気が付いた。夕子さんが歩いていく道は、私が毎日散歩から帰るときのルートと全く同じなのだ。あまりに歩き慣れている道なので、夕子さんがそのルートを歩いていくことを不審にも思わなかったくらい。知らないところへ連れて行かれる感覚が無いのも当然だ。どこに何があるかも解っている。この先には、閑静な住宅街しかないことも。
 私たちは、殆ど何も喋らないまま、とにかく早足で歩き通した。そして、十分ほどそれを続けると、夕子さんは私の住むマンションの前で足を止めた。

「え?」
 そうとしか聞けなかった。どうして私の家を知っているの? とか、どうしてここへ来るの? とか、幾つかの言葉が思い浮かんだけれど、どれも適切ではないような気がした。私はただ、夕子さんの顔をきょとんと見た。夕子さんは、そういう私の戸惑いは一向に気にならない性格の人のようで、こともなげに言い放った。
「ここ、私の家」
「は?」
「最上階、ここからじゃ良く見えないけど。ほら、あそこ。あの東側の角部屋に住んでるの」
「え?」
 夕子さんは、また自分が言うべきことだけ言って満足そうな顔をして、一人で勝手に入り口を入っていこうとした。私は、この人のペースに巻き込まれてばかりいて、さっきから自分で言いたいことも言えていない。このままじゃいけない、と思った。
「ちょっと、待ってください」
 彼女は、不思議そうな顔をして振り返った。
「何、どうしたの?」
「あの、このマンション、私もここ、七階に住んでるんです、けど」
「あー」
 溜息混じりに言いながら、彼女は長い髪を書き上げて一言。
「そういや、なんか見たことあるかも」
「『そういや』って…」
「でも、そんなもんでしょ。このマンションって年寄りばっかりだし、あんまり近所付き合いしないもん。ほら、あたしって住人の中では若いじゃん?」
 オートロックのカードをリーダに通して、また夕子さんはケラケラと笑った。私はただ自動ドアがゆっくり開いていくのを見ていることしか出来ない。
「あの、『若い』って、夕子さんはお幾つなんですか?」
「はな恵と変わらないと思うよ。二十七」
「私、まだ二十三なんですけど」
「うそー。老けすぎー」
 そんな暴言を吐きながら、また彼女はケラケラと笑って、エレベーターに乗り込み、最上階である十階のボタンを押した。
 私はこの建物の七階より上に行ったことは無かった。現在位置を示すランプが、八階、九階と点灯していくのを見て、妙な気持ちになった。十階でゆっくりと扉が開いて、分断されていた空間が交じり合う。毎日、当然のように使っているエレベーターなのに、なんだか異空間への入り口のように思えた。
 そんな私の神妙な気持ちには相変わらず我関せずといった風情で、夕子さんはさっさとエレベータを降りて、自分の部屋まで早足で歩いて行く。私は、また小走りでそれについて行った。
「ここ」
 と言いながら、夕子さんは軽やかな身のこなしでバッグから鍵を取り出し、玄関のドアを開ける。一応私のことを客として見てくれているのか、ドアを大きく開けたまま、私に先に入るように彼女は促した。私は、まるで導かれるように、フラフラと玄関を入っていった。
「うわあ」
「いい部屋でしょ」
「同じマンションなのに、間取りから何から全然違うんですね。すごく良いなあ」
 私は見たままを思った通りにそう言った。実際に壁のクロスや、部屋を仕切るドアの色も違ったし、南側の大きな窓から見える景色も、最上階だけあってとても良い。だけど、夕子さんは少し顔をしかめて(多分、夕子さんのそんな表情を見るのは初めてだと思う。とても違和感があった)、黙った。
 けれど、それは一瞬のことだった。次の瞬間にはもう、私は他のことに気を取られて、思わず声を上げてしまったからだ。
「夕子さん、これ…」
「ああ、そう。それ、私よ」
 私が指さしたのは、西側の壁に掛けられた大きな油絵で、それは女性の肖像画のようだった。というより、特に芸術にあかるくない私にでも解る。これは、ダ・ビンチの『モナリザの微笑』にそっくりなのだ(もちろん、細かいところまではよく知らない。ただ、ぱっと見ればその絵を模倣しているものだと誰でも解るだろう)。そして、その顔の部分だけが、夕子さんの顔にすり変えられていたのだった。
「誰が、描いたの?」
 純粋に疑問に感じたから、私はそう聴いた。けれど、夕子さんはますます黙るばかりだった。沈黙の間にも、私はその絵から目を離せずにいた。奇妙な美しさを醸す、存在感のある絵だ、と思った。
「お茶は、もう良いでしょう?」
 絵を見ながら半ば呆けている私に、夕子さんはそう言った。
「『斜陽』のコーヒーを飲んで帰った後は、お茶とかコーヒーとかを飲む気にならないのよね」
「あ、解ります。何を飲んでも、あの店の味には勝てない気がしちゃう」
「お酒は大丈夫でしょう?」
 私の答えを待ちもせず、夕子さんは冷蔵庫から缶ビールを二本取り出して、一本を私に手渡した。私は夕子さんさんの滑らかな動作を真似するように、缶のプルタブを開けた。プシュッといい音が鳴る。
「まずは乾杯」
 十階の窓からは、夕焼けの空が映像のように綺麗に見える。私はとても良い気分で、ビールを一口、ゴクリと飲み込んだ。
 それからしばらく、夕子さんとビールを飲みながら他愛のない話をした。このマンションの二階にいるおかしな老夫婦の話とか、近所のパン屋さんに売っているパンで何が一番美味しいか、とか。平日は殆ど家にいない先生とは、普段こんな話は出来ないから、私はとても楽しく会話をしたと思う。こういう他愛のないおしゃべりというのは、実は短大を卒業して以来、なかったかもしれない。
 そんな話で盛り上がっているうちに、缶は空っぽになってしまった。
「あんた、結構飲めるでしょう」
 夕子さんがニヤニヤしながら私に二本目の缶ビールを手渡したと殆ど同時に、インターホンの無機質な音が鳴った。ピンポン。
 夕子さんは、素早く受話器を上げて、「早かったねー」などと言いながら、慣れた手つきでオートロックを開ける暗証番号を押す。そして、受話器をゆっくりと置くと、私に向かって言った。
「ちょっとさ、友達が来ちゃったんだけど、一緒に飲んでもいいよね?」
「え?」
 正直、初対面の人とお酒を飲んだりするのは、あまり好きではない。夕子さん自体が、まだ私にとっては得体の知れない人なのだ。さらに、その友達なんて。
 だけど、もう少し彼女との会話を楽しみたいと思ったのも事実だった。友達が来ても、私がここにいて良いと言うのなら、そうしたい気もする。どうせ、先生は今日も帰りが遅いのだ。躊躇はしたものの、私は小さく「うん」と言って頷いた。
 それから少しして、玄関のインターホンが鳴った。夕子さんが玄関まで鍵を開けに行くと、すぐに何人かの話し声と足音が聞こえてきて、私は心の準備もままならないうちに夕子さんの友達を迎えなければいけない状態になってしまった。
「おじゃましまーす」
「あ、初めまして」
「なんかこの子、夕子の友達には珍しいタイプじゃない?」
 部屋に入ってくるなり、口々にそんなことを言った夕子さんの友達を見て、私は早くも逃げ出したくなった。
 なぜなら、夕子さんの友達とやらは、三人が三人、全員男の人だったのだ。
 自慢じゃないけれど、中学の時から先生と付き合ってきてそのまま結婚してしまった私は、高校も短大も女子校で、時々はコンパの誘いもあったけれど、常に断り続けてきたのだ。初対面の男の人が三人もいるところで、お酒なんて飲めるわけがない。