恋する街 -昼下がり-




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   3.夜の風の中

 浮き足立っている、というのは、こういう事を言うのだと思う。私は、そんなことを考えながら、一人で「ふっ」と笑った。
 まったく、今日はなんて日だろう。
 いつも通りの朝だったのだ。いつも通り先生を送り出して、いつも通り少々の家事をこなして、いつも通り散歩に出た、それだけのことだったはずだ。いつも通り、いつもの店にコーヒーを飲みに行ったはずだったのに、それが、いつもと違う今日への扉を開くことになるとは、思いもよらなかった。
 私は、リビングの大きな窓を全開にして、自分を夜風にさらした。左手には、ワインを少しだけ注いだグラス。飲むつもりではない。先生が帰ってきたときのための、カモフラージュとして、持っている。
 右手には、温もりを握り締める。
 それが、あまり良いことでないのは、知っている。

 無理に冷静さを保つかのように、私は今日一日で得た情報を、頭の中で整理し始めた。
 話を聞けば、夕子さんは二十歳くらいの頃まで、ファッション雑誌でそれなりの人気を博していた専属モデルだったらしい。私も、その雑誌を見たことは多々あったけれど、まったく気が付かなかった。メイクの変化などもあるだろうけれど、かつて雑誌に載っていた頃の彼女とは、雰囲気が随分違うのだ。しかし、元モデルならば、あんなに背が高くてスタイルがよく、華のある顔立ちなわけも頷ける。彼女は、専属を辞めた後に色々なモデル(『そりゃあいかがわしいのもあったわよ〜』と、彼女はやはりケラケラと笑った)をやっていたけれど、いつからか雑誌などのメディアに載るのは完全に避けるようになって、今はもっぱら写真や絵のモデルとして、仕事を続けているらしい。
 そして、今日出会った三人の男の人。
 ひとりは徳村さんといって、フリーライターをやっているという。夕子さんとは、仕事がらみで知り合って、同い年ということもあって意気投合して以来、こういう風に時々遊ぶようになったという。けれど、夕子さんはその時のことをあまり語りたがらなかった。多分、『いかがわしいの』の一つだったのではないかと思う。うちの先生は出版社に勤めているけれど、フリーで仕事をするこの類の人間は、安いから使うけれど、あまり好きじゃないようなことを言っていた。そういうのも含めて、何か陰というか裏のありそうな印象を持った。三人の中では、一番ハンサムなのに、一番とっつき難い人だと思う。
 もう一人は、土屋さんという人だ。この人は、徳村さんとは逆で、あまりハンサムとは言えないけれど、とても感じの良い人だ。徳村さんとは高校からの友達で、時々飲みに行くそうだけれど、そんなこんなで一緒に遊んでいるうちに、夕子さんとも知り合って、こうしてたまに飲みに来るのだそうだ。今は秋山美術大学の事務局で働いているそうで、とても若々しくて、気さくなお兄さんといった感じなのも、普段学生と接している所為なのだろう、と思う。
 そして、その土屋さんに連れられて来たのが、土屋さんが勤める秋山美術大学の、現役の大学院生で、田辺くんという。私と同い年だそうだけれど、随分幼い印象を受けた。もっとも、私が何かと老けて見られがちなので、彼のほうが年齢に相応しいのかもしれない。大学では日本画という渋い分野の研究をしているらしく、それに対して私は興味を持ったのだけれど、彼は夕子さんや徳村さんや土屋さんの話を聞くのに一生懸命で、ほとんど自分のことを話さなかった。だけど、人の話を聞くときの態度を見ていると、好奇心旺盛な、少年みたいな感じで、なぜか、見ていてとても気分が良くなった。
 私も、田辺くんと同じように、殆ど黙ったままで、彼らの話を聞いているのがやっとだった。一つには、妙に業界めいた話ばかりで参加しにくかったというのがある。そして、それ以前の問題として、皆がとても早いペースで話を進めるので、なかなか入って行くタイミングが無かったというのもあった。一体何の集まりなのかは、結局解らず仕舞い(というよりも、何の集まりでもないのだろう。ただ、暇な人たちが集まって飲んだという、それだけ)だったけれど、ただ聞いているだけでも十分に刺激的で面白い話だったことに、変わりは無い。
 私は夢中になりすぎていた。ふと時計を見ると、夜の十一時を指していたので、大慌てだった。
「ああ、もう帰らなきゃ」
 私がそう言うと、夕子さんが笑った。
「どうせすぐ下に住んでいるんだから、時間なんて気にすること無いじゃない」
「でも、せん…旦那が帰ってくるから」
 私は、特に何の意識もなくそう答えたのだけれど、夕子さんを含めて全員が全員、ハッと顔を上げて私を見た。
「『旦那』?」
「はな恵ちゃんって、既婚者なの?」
「私も知らなかった。このマンションに住む金持ち老夫婦のお嬢さんだとばかり」
「そうなのかあ。…田辺くん、残念だったね…」
「何でオレなんですか!」
 なぜか、田辺くんが茶化されて、顔を紅くする。私はそれを見て、クスッと笑った。
「じゃあ、とりあえず私はこれで」
 そう言って帰ろうとする私の右手を、一瞬にして、田辺くんの手が包んだ。
「待って、折角だから、送るよ」
「送るって、エレベーターを三つ下に降りるだけよ」
「それでもいいの。送らせて」
 田辺くんは、私の右手を握り締めたまま、半ば強引について来た。不思議なくらい、嫌な気持ちにはならない。
 妙な冷やかしの声を受けながら、「じゃあ、また」と夕子さんに告げて、私は夕子さんの部屋を出た。
 田辺くんは、決して私の右手を離すことなく、ゆっくりと私の隣を歩いた。並んでみると、とても背の高い、ひょろっとした細い身体をしているのに気が付く。
 エレベータを待つ間に、田辺くんは小さくつぶやいた。
「はなちゃん――」
 彼は、そう言ったきり、しばらく迷っているような表情で、黙ってしまった。エレベータのドアーが機械的な音とともに開く。乗り込みながら、男の人に『はなちゃん』と呼ばれるのは初めてかもしれない、と思った。
 エレベータがゆっくりと下へ降りて行くのを感じながら、握られたままの右手が熱くなるのを感じながら、その沈黙が急に恥ずかしくなって、私はとうとう自分から言った。
「もうすこし、田辺くんの話も聞いてみたかった気がする」
 私の言葉を受けて、彼はニッコリと笑った。
「オレも、はなちゃんと、もっと話したいと思ってた」
 エレベータのランプが七階に点灯して、ドアーが開く。私はゆっくり自分の家へと歩き出す。私の右手を握る彼の左手に、一層力が入った。
「だけど、ごめんね。今日は、もう帰らなきゃいけないから」
 私がそう言うと、今度は急に淋しそうな顔をする。こんなに私の一言ひとことに、影響を受けてしまうなんて。
 私は、自分専用の新しい玩具を手にしたような気持ちになって、ちいさく笑った。
「ねえ。また、会おうよ」
 いつも導かれるままに恋愛をしてきたこの私が、自分から男の人にこんなことを言うなんて、とても現実味が無い。
 けれど、彼はそんなことすら疑問に思わせる隙もなく、嬉しそうに頷いて、言った。
「ここに来れば、会える?」
「解らない。旦那がいても良いのなら、夜は確実に家にいるけれど」
 田辺くんは、すこし立ち止まって、もう一度、私の手を握る手に力を込めた。
「とりあえず、気が向いた時に来てみる」
「気が向いたら待ってる」
 『内山』と書かれた表札の前で、私はそんな約束をしたのだった。
 まだ、右手が熱い。
 今日の記憶を、まるで録画したビデオみたいに、私は頭の中で何度も再生した。四回目の再生が終わったところで、ニャーと猫が鳴く声が聞こえた。どうやら先生が帰ってきたようだ。
「おかえりなさい」
「どうしたんだよ、窓あけっぱなしで」
 先生は、未だ酔った風情の私に、少し驚いているようだった。
「夜風に当たりたくて」
「酔ってるのか?」
「ちょっとね、友達と飲んできたの」
「珍しいな。短大のときの友達?」
「うん? うん、そう。急に呼び出されてね。女の子ばっかり五人も集まったの」
 なぜだか、咄嗟に私は嘘をついた。夕子さんやその他の皆のことは、先生には話してはいけないような気がしたのだ。
 先生に嘘をつくのは、たぶんこれが初めてだったんじゃないか、と思う。