恋する街 -昼下がり-




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   6.恋する街、恋する人
 西側の出窓から差し込む鮮やかなオレンジ色の夕日は、まさに『斜陽』という店の名前に相応しく、その空間を劇的に演出しているように感じられる。けれど、夕焼けに頬を染めて、私は少し機嫌が悪かったと思う。一口飲んだイタリアンローストが思いのほか苦かったというのもあるけれど、田辺くんはなかなか現れないし、こういうときに限って夕子さんもいない。その上、背後のテーブル席でOLらしい二人の女の子が話に花を咲かせているのが耳に障って仕方なかった。私と同じくらいの歳の子たちだけれど、随分幼く見えた。
「じゃあ、結局その妻帯者と付き合うことになっちゃったワケ?」
「うん、まあ付き合ってるって言うかさ、週に何回か会って、お食事して、エッチしてって感じかなあ」
「それ、立派に付き合ってるじゃんよ。ていうか、不倫だよ」
「うふふ、まあそうとも言うけどね」
 不倫をしているというその女の子は、何だかやたら幸せそうな顔で相手のことを話し続ける。きっと、不倫相手のことをとても好きなのだろう。
 気持ちは良く解った。そういう気持ちの下では、相手が結婚していようが、自分が結婚していようが、そんなことはまったく関係が無いのだ。
「『今日は奥さんのところへ帰らないで』とかワガママ言ったりしちゃうのー?」
 友達のほうも、多少非難めいた口ぶりではありながらも、興味津々といった感じだ。
「そんなことしないわよ」
「本当ぉ〜?」
「だって、あの人、絶対に帰るもん」
「なにそれ、やることはやっても、結局奥さんのほうが大事ってわけ? ひどーい」
「違うの。猫が家で待ってるんだって」
 猫だって。
 先生みたいなことを言う人が、世の中には意外といるものだなと思いながら、私はその話を盗み聞きしていた。
「結婚するよりもずっと前から飼ってる猫で、未だに奥さんにもなつかないから、自分が世話してあげなきゃいけないんだって」
 私みたいな女も、世の中には意外といるものだな、と。
 思った。
 いや、思えなかった。
 鳥肌が立っている。夕子さんと先生が話しているのを見て感じたあの厭な感覚が、あまりにも明確に思い出された。
 私はもう少し早く気づくべきだったかもしれない。先生が、外では違う顔をしていることを。そして、他の女を抱いているかもしれないことを。その相手が、そこに居る彼女だとしても、そうでないとしても。
 やりきれなくなって、私がその女の子のほうを振り返ろうとしたその瞬間、『斜陽』の重いドアが開いた。
「おっす」
 田辺くんだった。
「ごめんごめん、今日中に図書館に返さなきゃいけない本を部屋ん中で探してたら、遅くなっちゃったよ」
 そう言いながら、彼はごく当たり前のように私の隣の椅子に腰掛けようとし、私はそれを制して立ち上がった。
「田辺くん、私ちょっと、今日は外に行きたいんだけど、付き合ってもらえる?」
「え? どうしたの? ちょっと…」
 田辺くんに説明する間もないまま、私はマスターに黙ってコインを手渡した。マスターがまるで何もかも解っているかのような顔で頷きながらそれを受け取ったのを確認して、私は店を出た。不倫していると話していた例の女の子の顔は、結局見ないままだった。
 行く先も決めないまま、闇雲に歩き始めた私の腕を、田辺くんが強く掴む。
「ちょっと待って。どうしたの。ねえ」
「たまには、田辺くんとお酒でも飲みたいなーって」
「そうじゃなくて」
 彼は、私をとにかく立ち止まらせて、親指で私の頬を拭った。
 私は泣いていたらしかった。

 結局のところ、私たちはお酒を飲みには行かなかった。
 田辺くんは、何が何だか解らず泣いている私を落ち着かせるために、とにかく自分のアパートに私をつれて帰った。
 決して広くない、白くない、自分の家とは確実に違う匂いのする部屋で、私は何か夢中になって話した。田辺くんはとにかく黙ってそれを聞いた。気の済むまで言葉を吐き散らすと、私は疲れてしまったのか、まるで貧血か何かで倒れるみたいにふっと体の力が抜けて、座っているというのにバランスを崩した。彼は、それを受け止めて、
「外で会ってる限りは、抑えられると思ってたのに」
 とか何とか言い訳をしながら、私にキスをして、愛撫を始めた。あまりにも自然な流れ。私も、彼の身体のいたるところを愛した。それはどちらかというとスポーツのようなやりかたで、私たちは一つの目的のために一緒にプレイする、チームのようなものだと感じた。
 私にとっては、先生以外の男の人を受け入れるのは初めてのことだった。けれど、それは思っていたよりも大した問題ではないのだと知った。

 終わった後、田辺くんは私の髪をゆっくり撫でて、少し申し訳なさそうな顔をした。
 ただひたすら寡黙に、二人して何かの余韻を追いかけているような空気が流れる。私は、コーヒーを飲みながら喋ることばかりに夢中になっていた『斜陽』での私たちが、もう見る影も無くなってしまったことを知った。
「今日は、もう帰るね」
「えっ」
 午後七時を回ったばかりだったので、彼はもう少し私と時間を過ごすつもりだったらしく、酷く驚いた顔をした。
「旦那が帰ってくるまでに、平静を装えるか解らないもの」
 私が小さく笑うと、彼は少しホッとしたような、軽く傷ついたような、絶妙の表情をして見せた。可愛かった。
「また会えるよな?」
「勿論」
 私は、靴を履いて玄関のドアを開ける前に、思い出して一言付け足した。
「気が向いたらね」

 男の人に付いているものはどれも一様に同じようなものに見え、それでいて自分の中に受け入れてみるとそれぞれに違う感触を持つ。だからといって役割が変わるかというと決してそういう訳ではなく、とりあえずは女を満足するように出来ているらしい。田辺くんのそれも、先生のそれも、例外ではない。そして同様に、満足させられる女は、私でも私以外の女でも結果は同じ。解ったのは、ただそれだけだった。
 そんなことを考えながら、帰り道を一人で歩いていると、後ろからポン、と私の肩を叩く人が居た。
 振り返ると、私の後ろに立っていたのは先生だったので、私はまさに心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
「珍しいね、外でばったり会うなんて」
 私の驚きとは裏腹に、先生は落ち着き払ってニッコリと笑った。
「ど、どうしたの? こんな早い時間に帰るなんて。何かあったの?」
「はな恵に、急いで話さなきゃいけないことがあったから、早めに仕事切り上げて帰ってきた」
「え…」
 その時、私の頭をよぎったのは、離婚だとか結末を意味するような言葉だったので、私は一瞬にして「あの女のところに行くの?」とか「田辺くんとは一度きりだったのよ」だなんてメロドラマのような安っぽい台詞を口にする自分を思い浮かべたのだけれど、私の予想は大きく外れていた。先生は、あまりに突拍子のないことを言った。
「大阪に、転勤になっちゃったよ」
「は?」
「大阪の子会社に、二年間の出向だってさ。いろいろ経験してこないと出世は無いとか、脅されちゃったよ」
「いつから?」
「公示では、もう来週初めからってことになってるけれど、実際は仕事引き継いで、準備が出来次第だから、二週間後くらいかな」
 先生は、肩をすくめて笑った。
 私は、あまりに驚いたので、リアクションのしようも無かった。

 引越しの手配はあっという間だった。先生は荷物の梱包も運搬もすべて運送業者に任せてしまったので、私たちは殆どすることも無く、ただ籠に入れた猫を連れて、新幹線で大阪へ向かうことにした。結局バタバタしてしまっていたために、あれ以来『斜陽』には行く暇も無かった。
 夕子さんも田辺くんも見送りに来なかったけれど、引っ越すことなど伝えていないのだから、それは当たり前だった。このまま会えなくなるのは寂しいような気もするけれど、だからといって繋ぎとめても仕方の無いようなものだと、どこかで冷静に割り切ってしまえた。
 乗り慣れない新幹線がとびきり早いスピードで走り始める。幾つかの風景が飛ぶように流れていくのを見ていたら、私はふと先生に訊いてみたくなった。
「ねえ、先生」
「何?」
「先生は、浮気したこと、ある?」
「何言ってるの、あるわけないだろ」
 先生は、まるで屈託のない様子で笑って、サラリとそう言ってのけ、
「人間はね、自分が後ろめたいことをすると、他人のことも疑いたくなるんだよ」
 などと、おどけた調子で言った。
「何よ、じゃあ私が後ろめたいことをしてるって言うの?」
 私も、内心ドキドキしてはいるものの、もちろんその動揺は見せることなく、やはり屈託のないような素振りで笑ってみせる。
「うそうそ、はな恵はそんなに器用じゃないからな」
「もう。そうやって、結局いつも子ども扱いなんだから」
 大げさに膨れっ面をして見せれば、仲の良い若い夫婦がじゃれ合っているように見えるのだろう。私たちの乗った新幹線は、あっという間に見慣れた街を飛び出して、その窓から私たちに新しい風景をプレゼンテーションする。
 さよなら、私が恋をした街。
 心の中だけで、私は小さく手を振ってみた。
 何年か後にあの街に戻ることになったとしても、きっと田辺くんには、二度と会うこともないと思う。

 「はな恵、もう着くよ」
 先生に起こされて、ハッと目を覚ます。思いのほか座り心地の良いシートですっかり気持ちが落ち着いてしまい、私はいつのまにか眠ってしまったらしかった。窓の向こうに流れる風景は、随分様子が変わっていて、それは今までに生活をしたことの無い真新しい場所のように思えた。
 新しい街。
 この場所で、先生はまた同じ事を繰り返すだろうか。私は?
 多分、繰り返す。人間は、恋したがりの動物なのだから。
 減速する車内で、先生に促されて、多少座りつかれた重い腰を上げる。先生の膝の上に置かれた籠の中ですっかり安眠していた猫も、びっくりして、ニャ、と短く鳴いた。

− 了 −