恋する街 ―ジャンクフード―




神田良輔







 今日はかなり疲れた。主に気疲れだ。
 結婚式なんてばかげてるし面倒だ、とかそんなふうに思いながらも、出れば出ただけ気分も浮き立つものではあった。いろんな人と話することも出来たし、なにより結婚するのは先輩であって、俺は全然関係がない。おめでたい顔さえしていれば良いのだ。少なくとも、家でヒマを潰してるよりはよっぽど楽しかった。

 俺たちは駅のホームにいた。雨がまだ降っている。
「電車は、あとどれくらい?」
「すぐ来るよ」
 古崎は言った。披露宴で飲んだせいで、顔が赤い。
 今頃は二次会をやってるはずだった。一応誘われたが、会社の同僚とは別の友人たちが中心になっているようで、なんとなく断る雰囲気を感じたものだった。先輩と旦那さんは大学の頃のつきあいで共通の友人も多いのだ。断るべきだったろう。
 今頃は先輩もリラックスしてることだろう、と俺は思った。式の最中、先輩はがっちり化粧して、常に緊張しているように見えた。別にいつもと違ったことを言うわけでもないし、動きがぎこちなかったというわけでもないのだけど、それはよく伝わってきた。
「一回ですむ訳ないっしょ」
とか職場では言ってた。でもはしゃいで言ったということはわかる。彼女は元来は古風な女性なのだ。
「先輩すげえ緊張してたよな」
「そう?」古崎は応えた。「あんまりわかんなかった」
「ガチガチだったじゃん」
「だとしても、表にでなかったな」
「いや――泣かなかったろ?絶対泣いてみせるとこだったのに。それすっかり忘れてんだぜ。それ今度突っ込んどこ」
「そういやそうだな」古崎は笑った。「たしかに、チャンス逃してたね」
「そんなチャンス逃す人じゃないのにな」
 アナウンスがなった。みんながばらばらと停止線に集まる。ようやく電車が入ってきた。
 電車の中は思っていたより混雑しるようだった。土曜日の19時代の電車はあまり乗ったことがないのだけど、もっと空いているものだと思っていた。スーツも学生も良く分からないのもたくさんいる。少しうんざりした。
 古崎は慣れているようだった。手に持った傘を閉じなおし、気後れせず電車に入りこむ。俺もしかたなく、後に続いて入っていった。
 でかい紙袋は持ってるだけで手に余った。引き出物はズレを狙った(だろうと思う)でかい絵皿で、鞄の中に収まるようなものではない。その上披露宴の写真だ折り詰めの和菓子だなんだといろんなものが入ってて、ものすごくかさばった。だいたい鞄なんて持ってこなくても良かったのだ。仕事しにいくわけではないのだから。俺は紙袋と鞄と傘を片手にすべてまとめて持ち、片手でつり革をつかんでなんとか身体を落ち着かせた。古崎の肩もすぐ鼻先にあった。彼の背はかなり高いのだ。
 身体をもぞもぞさせてると、電車は動き出した。
 通勤と同じように、ほとんど喋り声は聞こえない。静かだ。服が擦れ合う音だけ聞こえる。いつも思うのだけど、まるで乗客全員は無言で怒ってるように見える。俺自身もそうだからなのだろう。なにしろ雨は降ってるしがさがさと落ち着かないのだ。靴下だって水を吸ってる。うんざりする。
 窓の外を眺めながら、ようやくひとつめの駅についた。乗車口のそばにいた数人がぱらぱらと降りた。その穴を埋めるように数人がすぐに乗り込み、再び電車が動き出すのを待った。扉が開いている分だけ、みなの息苦しさは増した。降りたいのに降りれないのだ。
「松井くん」
 古崎が言った。俺は顔をあげる。
「次で降りて飯食おうよ」
 古崎はそこで降りるのだ。
「いいね」
 俺は言った。



 俺たちは改札を出た。二駅動いただけではあったが、雨はほとんど気にならないほどになっていた。傘を広げずにすむ程度だ。
「何処に入る?」
 俺は言った。
「とにかくどこかで落ち着きたいな」
「俺の台詞だよ、お前の駅だろ……」
 いつも通過してるだけだったが、降りてみるとそこそこにぎやかな駅だった。マックもあるし、マツキヨもある。ロータリーにはわけのわからない銅像まであった。
 結局俺たちはマクドナルドに入った。俺も古崎もあまり酒は好きじゃないし、金のかかる食事も好きじゃない。紙袋持ったスーツ姿で入るのに気後れするが、もちろん俺も古崎も口にしなかった。気にしたところで、マックなのだ。気にするのは本人だけだ。
 俺はコーヒーだけだったが、古崎はビッグマックのセットを頼んだ。二人で並んで階段を上り、喫煙の席を見つけてそこに座った。荷物を置いてコートを脱ぎ、コーヒーを舐めてからタバコに火をつけると、ようやくひと心地ついた気分になれた。
「良く食うね」
「ポテト食う?」古崎は言った。
「あとでいい」
 ビッグマックのケースを見ただけで、胸が一杯になる。古崎はそれを両手でつかみ、顔を寄せて噛り付いた。披露宴であれだけ食ったはずなのに、えらい食欲だ。そのくせガリガリなのだ。
 俺はコーヒーを傾けながら、なんとなく窓を眺めていた。マクドナルドはどこへ行っても見晴らしは良いのだ。窓の外は駅前が見渡せるようになっている。かなりの人が出入りしていて、眺めるにはうってつけだった。
 この街には俺の通っていた高校がある。でも俺はほとんどこの駅を使った事が無かった。入学の際に使って以来、通学には一度も使わなかったはずだ。最寄の駅からは3駅ほどあったが、自転車で通う方が性にあっていた。昔から電車が嫌いだったのだ。
 とにかく人はむやみに住んでる街だ、と俺は思った。駅前も少し行くと、すぐに宅地が広がる。どっちがどっちだかわからなくなるほど、ひたすら家が並ぶのだ。俺の街はこの街ほど規模はないが、まだメリハリが利くはっきりしたところだと思う。要するにこの街には、人が多すぎるのだ。
 古崎はずっとこの街で生活してるはずだった。高校の後輩にあたるが、知ったのは会社に入ってからになる。俺が大学を浪人したおかげで、同期で入社した。
 俺は大学に入るとすぐアパート暮らしを始めたため、このあたりにはほとんど近寄らなかった。帰ってきてうんざりするのは、まずこの電車だった。このあたりの密集ぐあいは、都心よりも上だ。老いも若きも、男も女も、この街にはみんなそろってる。
 古崎はあっさりビッグマックを食べ終わった。すぐにポテトをつまみ始める。
「いつか腹でるぞ」
「出てから考えるよ」
「なんで太らないんだろな」
「若いからじゃん?」
 古崎は笑った。
 俺は苦笑いしながら、へにゃへにゃになったポテトをつまむ。
「彼女は元気?」
 俺は言った。彼女とは一緒に食事をしたことがあって、見知っていた。
 俺と同じ歳の、古崎にとっては年上の女性で、モデルをやっていたとか聞いた。実際に人目をひく、うらやましい彼女だった。
「まあ、元気だよ」
「お前らは結婚しないの?」
「しないよ」
 古崎は言った。
 古崎のタイミングが少しひっかかった。
「なんで?」
 俺は聞いてみた。
「うーん、多分そのうち別れるような気がする」
「え、なんでだよ」
 俺は言った。
「浮気でもされた?」
「し始めたかもね。最近あんまり会ってないからわかんない」
「喧嘩した?」
「そういうんじゃないんだけどね」
 そう言うと、古崎の手が止まった。なにか考えはじめたようだ。
「ああ悪い。別にいいよ、話さなくて」
「いや――ね、別に隠すとかでもないんだけどさ、どうもいまいちしっくり来ないんだ」
「ふうん」
「まあどうせだから聞いて欲しいんだけどさ。確かに一回切れたんだよね、俺」
「へえ」
「まあ言っちゃうけどさ、あいつフェラチオしても精液飲まないんだ。俺一回、それでむちゃくちゃ怒鳴ったよ」
「なんだよそれ」
 俺は笑った。笑うしかない。
「なんかすごく不味そうな顔して、ティッシュに吐き出してんの。隠そうともしないんだよな。それ見てたらつい切れちゃった」
「ええと、さ」俺は言った。「それって、最低なんじゃね?」
 古崎は照れるように、だけど心底可笑しいように笑った。
「まあね。確かに最低だと思うよ。でもさ、口の中に入れてるんだから、飲み込んだって良くない?」
「飲んだことないから知らねーよ」俺は言った。「そんなのどうでもいいだろうが」
「まあ、そうなんだよね。そのときちょっと言い争いになったけど、確かに俺が折れるしかなかったんだよね。アホなこと言ってるのも良く分かるんだけど」
「精液飲ませて喜ぶなんて、政治家みてえだな」
俺は少しあきれて言った。
「おっさんだよね」古崎は笑った。屈託がない。「でもさ、そんなもんなんだよね。実際口の中に出して、ふうって一息ついてるとさ、なんか飲むのが普通だって雰囲気がするんだよ。今とかならそんなことまったく思わないんだけどな」
俺は頷いた。ケンカなんてそんなものだ。
古崎は続ける。
「でも、なんかそれ以来なんかぎくしゃくしてきてんだよね。結局それからセックスしてないな」
「おいおい。くだらないぞ、ものすごく」俺は言った。「ほんとどうでもいいことじゃねえか。早く仲直りしろよ」
「喧嘩とかってわけじゃないんだよ、だから」
 古崎は言った。
「なんか――こう、うまく行かなくなって来ちゃったんだよ。それをお互いはっきり意識し始めたって感じなんだ」
「ふうん」
俺は言った。
「もっと、なんていうかね――そうそう。この前風俗行ったんだ、ピンサロなんだけど」
「うん」
「その子は飲んでくれたんだよ。なんかそれ見てたら、すごくうれしくなっちゃった」
「ピンサロで?」
「そうそう。すごいよね」
「お前、いくら払ったんだよ」
 俺は笑う。
「もちろん払ってないよ」古崎も笑う。「軽くお願いしたら、飲んでくれたんだ。その子、言うとものすごく素直に聞いてくれるんだよね。びっくりしちゃったけど、それがものすごくうれしくてさ」
「その子に惚れた?」
「いやあ、惚れないけどさ」古崎は言った。「でも通ってる。風俗いいよマジで」
 俺は笑った。苦笑いだ。
「その子だけだろう。あんま苦手じゃないんだ、きっと」俺は言った。「だけどさ、肝心なのは彼女だろ。こんなことで別れるって、なんかものすごく馬鹿みたいに聞こえる。早いとこ仲直りしたほうがいいと思うよ」
「精液だけの問題じゃないんだよ」古崎は言う。「女の子に、多分言ったことを聞いてくれることを望んでるんだよね、俺。もう綺麗な子がいいとか、そういうことで彼女決めるとか、そういう問題じゃないんだよ、多分。そりゃ、綺麗でかわいい子がいいけどさ――付き合い始めたときは、知ってる中で一番かわいい女だったから浮かれたよ、もちろん。でも、そういうふうに彼女決めるんじゃなくて、もっと、相性とかそういうもので選んだほうがいいんじゃないか、って思うようになったんだ」
 子供じみたこと言ってやがる、と言いかけたが、止めた。
 一度会っただけだったが、古崎の彼女は物事をしっかり見てる女の子だったし、頭もいいそれなりの人生経験も経てるような人だった。古崎自身が、彼女を制御できないのは難しいだろうと思ったし、そういう意味では誰でも彼女を頭ごなしに出来るとは思えなかった。彼女が飲みたくなければ、誰だって飲ませられないのだ。
 彼女が精液を口に含み、それを不味そうに吐き出してる姿が思い浮かんだ。そんな事を考えると、なぜかしら不愉快さで胸がいっぱいになり、顔が歪む。すぐに気を持ち直した。
 これで彼女に会うとき――もうそんなこともないかもしれないが――間違いなくこのことが思い浮かんでしまうだろう。俺はしっかりと忘れて――もしくは忘れたフリをして――会わなければならないわけだ。また顔が歪みかけた。
「まあ、そうならそうで、綺麗に別れるんだな」俺は言った。
「松井くんも別れたほうがいいと思う?」
 古崎は言った。俺が考えてることなんか、気がまわっていないようだ。
「お前にその気がなきゃ、無理だよ」俺は言った。
「うーん」
古崎は言う。
「言っておくとな」俺は続けて言う。「もうお前だって若くないんだし――25だろ?あんまり別れるとかくっつくとか、考えないほうがいいような気がする」
「うん――まだ踏ん切りつかないんだ、いろいろとね」
 古崎が言った。
「良く考えたほうがいい。新しい彼女を見つけるか、今の彼女と関係を変えていくか。メリットデメリットで考えても、答えはでそうなもんだ」
「さすが松井さんだね」
 古崎は言った。
「無駄に歳食ってないだろ?」
 俺は言った。
 なんかものすごくつまらない気分になって、俺は笑った。古崎も笑う。
「ばーか」
俺は言った。