恋する街 ―月光―



山下 七子










 CDの曲間には本当に静かに感じられる。広い空間の中音をたてるものが少ないから、がらがらな雰囲気になる。生徒たちの声が遠くに聞こえる。人が少ない学校は本当に静かだ。
 すぐに次の曲が始まる。最近の曲のようだ。鯨崎くんが持ってきたCDで、私はこの曲を詳しく知らない。ハードでスピード感があるが、あんまり印象に残らない、と私は思う。
 音楽室は一般の教室に比べるとやや小さいけど、二人でいる分には広い。
 CDのたてる音は壁に吸い込まれてしまって、結局あまりこの部屋にはなじまない。学校で音楽を聞くといつもそういう感じがした。私が生徒の頃から。

 鯨崎くんは3年2組の生徒。私はこの中学の音楽教師。
 この音楽の教師は私一人しかいない。特別教室はそれぞれ担当の教師が管理することになっている。用務員が持つ鍵をのぞけば、音楽室の鍵を持つのは私一人だ。大学出たての新人が部屋を一つ管理できる職なんて教師ぐらいだ。幸運も重なってるにせよ。
 私たちはまず教卓と生徒用の机に別れて座りあう。授業の時の鯨崎くんの席は、ちょうど教室の中心あたり。でも二人きりになると、彼はいちばん端、窓際の机の上に足を組んで座る。たぶん端の席でないと、足を浮かせて座れないからだろう。そのほうが私との距離は少し近くなる――でもいちばん前の端の席に、彼は座ったことがない。真ん中、それかやや後ろ。
 ちょっと声を張る必要がある距離。
「あついね」私は言う。
「うん」鯨崎くんは応える。
 私は教卓で仕事をする。新人教師なので提出する書類も多いのだ。レース一枚引いたカーテンの向こうからは運動部の声が聞こえる。太陽の光も差す――もうだいぶ暖かくなった。私は長袖のシャツの上にカーディガンを羽織っている。夏向けの音楽教師の服は難しくて、なかなか着替えられない。顔を上げて見ると、鯨崎くんも冬服のままだった。
「夏服は着ないの?」私は尋ねる。
「うーん、せめて中途半端な季節の間はね」鯨崎くんは答える。
「どうして?」
「なんか半袖って間抜けじゃない?」
「そんなことないよ。みんなも半袖になるじゃない」
「みんなが半袖になるまではさ」
 彼はジャージ姿にもならない。少なくとも、私の授業では見たことがない。たぶん私の前だけ特別というのでもない。いつ見ても制服、それをいつでも同じように着くずしてる――そういう荒っぽさは中学生には必要なことなのだ。
「私たちの頃はきっちりしてたから、みんないつでも同じ格好だったよ。衣替えも一日だけ、6月1日にみんなで一斉に夏服になるの。違反した男子は殴られたりしてた」
「厳しい学校だった?」
「そうだね、厳しかった。男子のシャツはズボンの中、女子のスカートは膝下10cm。みんな同じだった」
「なんか信じられないね。だれも反抗しなかったの?」
「うん、不思議だよね、考えてみると」
「でもみんながいいなら、かまわないって気になると思うよ」
「うん、私も特に気にならなかった」
「俺そういうのも、それほど悪くはないと思うよ」
 たぶんそうだろう、と私は曖昧に笑った。鯨崎くんはそういうタイプじゃない。なにより目をひくのがイヤだし、そういうことに長けてるのだ。反抗なんかする気にならないに決まっている。
 彼が話を続けなかったので、私はまた書類に目を向ける。

「先生はまじめな子だったの?」鯨崎くんは言った。
「けっこうね」
「もてた?」
 瞬間、私に興味を持ってくれてうれしいと思い、でもはしゃぐわけにもいかない、とも思う。
「ふつうだよ」
「誰か相手はいた?」
「高校生になってからかな」
「へえ」
 反応が気になった。それと同時に、見栄を張りたいとも思った。
「初めてつきあった人はもてる人だったよ。2年後に生徒会長になっちゃったんだ。私もびっくりしちゃった」
「ふーん」
 鯨崎くんは高校の生徒会長を想像した。そうに違いない。なにかにつけて競争したがる年頃なのだ。
 彼にとっては高校の生徒会長はどんな存在なんだろう?――そう考えるのはとても楽しい。
 彼が会長選挙に立候補することはあるのだろうか?――たぶんない。目立つことを軽蔑してるし、きまじめな言葉を喋るようなタイプでもない。
 でもそれでいて、わからないのだ。彼の成績は群を抜いてるし、顔立ちも悪くない。彼を支持する人は多いだろう。彼がそれを望む人間になるか、という一点に限ると、予想がつかない。生徒会長という権力を望むこと、そのような人間であろうと努力することは彼にとって望ましいことではないかとも思う。
 高校3年になるのは、彼にとって3年後なのだ。
 彼がはにかみながら演説をする姿を想像する――どきどきする。そうであってほしいとも思う。
「ねえ、会長とかやってみたいと思わないの?」
「うん――やりたくないね」鯨崎くんは言う。
「落ちるのが怖いから?」
「それもあるよ。でもなっても仕方がないじゃない?」
「そんなことないよ。鯨崎くんみたいな人は一度やってみるべきだと思う」
 鯨崎くんは苦笑いをする。
「半年前にも立候補してほしかったな。当選してたと思うよ」
「友だちに言われたこともあるけどね。でも、やっぱりタイプじゃないよ」
 私は椅子から立ち上がる。
「今みたいな感じでいいよ。リーダーっていうのはなにをするかより、どう思われるかが大事なんだから。引っ張っていくリーダーより、乗せられるリーダーの方がずっといいと思う」
 私は彼の近くまで歩いて、足を止める。
 私と彼の距離は机ひとつ分くらい離れている。私は歩いてきた時にしてたまま、腰に手をあてたままだ。彼はうつむいて窓を眺めている。
「でもまあ、まだ先のことだけどね」私は言う。
 言って、私は俯く。
「そうだね」鯨崎くんは応える。
「ゆっくり考えればいいよ」
 鯨崎くんは返事をせずに髪の毛をかきあげる。それを見て、初めて音楽が止まっていることに気がついた。とても静かな仕草だ。
 近寄ったから彼の顔がよく見える。
 私といろんなとこが違う、と思う。性別も違うし年齢も違う。物事の見え方も、意欲も関わり方も違う。私とは違った可能性がある、と思う。そしてそれと同じ意味で、まだ子供なのだ。
 机の上に座っている彼のほうが頭の位置が低い――と思っていると、彼は立ち上がった。立ち上がると私の背は簡単に抜かされてしまう。
「ねえ、しようよ」
 窓を見たまま、彼は言う。
「うん」
 私も言う。
 彼に背を向けて扉に向かう。廊下に足音はしないし、人の気配もしない。特別棟のこの階は放課後になると人の気配がなくなるのが普通だ。でも確認する。しないわけにはいかない。
 二つの扉を閉めて、教卓に乗ったラジカセを開く。鯨崎くんのCDが中に入っている。
「鯨崎くん」私は言って、CDを見せる。
「そのへんに置いてよ」彼は言う。
 絞っていた音量を上げて、学校にあるカセットテープを再生する。モーツァルトの2重奏。ピアノとバイオリンが流れる。
 鯨崎くんが遮音カーテンを閉めた。厚い、真っ黒なカーテンのせいで暗闇になる。端から漏れる光しか光源がないから、鯨崎くんの輪郭しか私にはとらえれられない。
 教室にも夜がやってくる、私はそう思う。
 モーツァルトはポップスよりも幾分そぐうようにも思えた。夜のモーツァルト。でも私たちはそれをほとんど聞かない。お互いが身につけていない音楽だから。
 鯨崎くんのカーテンの端から、筋状の光が差し込む。その隙間から差す光で一瞬だけ照らされる埃。埃は下から舞い上がり、そしてすぐに光の筋から外れてしまう。その向こうで鯨崎くんが近づいてきている。
 暗闇の中の鯨崎くんは幾分落ち着いて見える。私はちょっと笑う。緊張しても、暗闇だからわからないのだ。
 教室の隅に向かい、私はカーディガンから袖を抜く。お尻をついて座り込み、それからスカートを脱ぐ。暗闇の中上着を抜いだ鯨崎くんが見える。スカートを下ろした私の両足の間に入りながら、ズボンを捨てる。私もシャツを脱ぎ、下着姿になる。
 彼は私に体重をかける。その後で私の頭を抱え、頬をよせる。
 鯨崎くんが私の顔を見ようとしてるように感じられる。でも暗いからわからない。私の妄想で私が彼の顔を見たいと思ってるからかもしれない。
 キスを彼は始めた。彼は舌よりも唇を動かすことを好む。私の唇が挟まれ押しつけられる。彼の唾液のにおいは誰とも似ていなくて、たぶん子供っぽいのだ。
 下着をずらし胸を触り、私の肩から背中に手をまわす。剥き出された彼の性器に、直接指で触れる。彼の身体のこの部分だけ異常に硬い。暗闇をかき分けてこんなに硬いものが出てくることが、私を驚かせた。柔らかさの残る彼の身体の中にいる私を、たまらなくさせる。身体をゆっくりと愛撫する。彼の動きよりも滑らかに、大人ぽく。彼の愛撫は激しく荒く、執拗に私の全身を探っている――でもそれは彼の優しさ――見栄だ。早く私の中に差し込みたい、そのことにまだ彼はとらわれているのだ。私は彼の望むままに指と身体を使って、導く。
 私に導かれるまま、彼は私に入った。
 耳元でため息を聞いてから、彼は動き始めた。彼は直線的な――動きをする。身体全体を動かすより――手際がいい、シャープなのかもしれない。私に振動がこみあがる。快感になってくる。
 一カ所に意識を集中する彼。そんな動きをしている彼の顔を見たい。私の身体をミクロに、執拗に分解しようとする彼。それはおおらかな自信家である彼の様子とはかけ離れた姿だ。彼の顔を、見たい、と思う。暗闇ではなく――ささやかな月の光だけでもいい、彼の真剣な視線を見つめるだけの光があれば、と思う。彼にはタブーなのだろうか?いつか私は彼を見つめることが――できるだろうか?
 そんなことを考える私を知らずに彼は動き続ける。その力に私はだんだん抗えなくなる。私の身体が一緒になって動きはじめた。彼は激しさを増した――。私は彼の動きに集中する――。

 彼は射精する。私の身体の中にたたきつけられる、彼の精液を私を思った。私の粘膜は傷も負わずに吸い込んでしまうだろう。避妊を考えたことはない。
 彼は脱力した。私は短い波を受けただけで、力を使い果たした彼を私は支えた。荒くなった息――彼は聞かせまいとしてる息を聞きながら、彼の体重を受けた。全体で感じる。完全な暗闇ではないから、ぼんやり情景が見える――たてる音を吸い込む壁。校庭から聞こえる音を隣町のように聞こえさせるカーテン。調子外れなモーツァルト。私たちとは関係ないところにあるみたいに思える。でも私たちはここで愛し合い続けてきたのだ。