恋する街 ―星影―




佐藤 由香里







 ( 2 )

 顔を洗ってダイニングに行くと、母がキッチンでサラダを盛り付けながら鼻歌を歌っていた。朝っぱらからこんなに機嫌が良いなんて珍しい。何か良いことでもあったんだろうか。コンロには赤いフライパンが乗っていて、中ではウインナー数本が踊っている。トースターからはパンの香ばしい匂いが漂っていて、寝起きなのにも関わらず、どんどん空腹感が広がっていくのが自分でも解った。
「ほら香織、ワゴンの下にコーンスープとクルトンが入ってるから出して。」
 母は朝はいつも眠そうな顔をして朝食を作るのに、今日はやけに手際がいい。
「今日は何かあるの?随分ご機嫌みたいだけど。」
 私が聞くと母は、解っちゃった? という表情で少し照れくさそうに答えた。
「今夜お客さんが来るのよ。だからあんたも早めに帰ってきなさいね。」
「『も』って何?」
「父さんよ。父さんが今夜お客さんを連れてくるの。」
 私はいかにも興味の無さそうな態度でふうんと答えた。
 父の某自動車会社の営業をしていて、たまに自分のお客さんをうちに連れてくる。仕事で知り合ったはずがいつの間にか仲良くなって、プライベートでも会ったりするようになるんだそうだ。でも、どうして父の知り合いが来るのに私まで早く帰らなきゃいけないんだろう。私には全然関係ないのに。釈然としなかったが、母に追及している時間も無かったので、私は急いで朝食を摂り、制服に着替えて家を出た。

 その日の四時間目の授業は藤村の社会科だった。藤村の授業はユーモアがあって、授業中はいつも生徒全員が興味深く話を聞いている。確かに他の先生がするつまらない授業よりは幾分楽しいけれど、何だか生徒に媚を売っているようで、私はどうしても藤村のことが好きになれない。斜め前の席の早苗は目を輝かせながら藤村の言うことにいちいち頷いている。私は頬杖を付いて窓の外を見た。そこには眩しいほどに青が広がっていて、雲は時間なんてお構いなしに、風に乗ってのんびりと動いている。でもそれは逆に、ゆっくりだけど確実に時間は流れているのだということを示唆しているようだった。
 今日は数学の授業が無いので、職員室に行かないと渡部先生には会えない。雲の動きを目で追いながら、渡部先生がいなくなった学校生活を想像してみようとした。けれど思い浮かぶのは笑顔だけで、とても彼が辞めた後のことを想像できなかった。
「おい相原、何か面白いものでも見えるのか?」
 突然名前を呼ばれて体がビクンとなった。黒板のある方向に目を向けると、藤村が複雑な表情をしながら私を見ている。
「あ・・・はい。」
「外を眺めるのもいいが、俺の顔をしっかり見てくれよ。それとも相原は俺の顔は好みじゃなかったか?」
 まただ。大して面白くも無い藤村の冗談。それなのにみんなはそれに大いに反応し、教室中に歓声が上がった。結局私は罰として、放課後に宿題のプリントを職員室に取りにくるように言われた。面倒だったけど、渡部先生に会えるからいいかなと納得した。

「失礼します。」
 放課後。軽く会釈をして職員室に入ると、私は渡部先生の机を真っ先に見た。けれど机の上には教科書が積み重なっているだけで、そこに彼はいなかった。もう帰ったのかな。臨時教員だから授業がないと帰るのかもしれない。肩を落としていると後ろから藤村の声が聞こえた。
「渡部先生ならもう帰ったぞ。」
「べ、別にそんなんじゃ・・・」
「まあどうでもいいけど、俺も今日は急ぐからもう帰るんだ。机の上にプリント置いてあるから、それ持って上がってみんなに配ってくれ。じゃあな。」
 藤村は急いで鞄を持ち、颯爽と職員室から出て行った。そういえば今日は私も早く帰らなきゃ。今朝母に言われたことを思い出して、急いでプリントを持って教室に向かった。みんなに自分のプリントは自分で取って帰るように告げて教室を出た。

 家に帰ると見慣れない車が停まっていた。黒いスポーツカータイプの車だった。きっとまだ新しい。私は父の知り合いが来ているのだとすぐに解かった。
「ただいまー。」
 ダークブラウンのローファーを脱ぎ散らかしたまま部屋に向かおうとした時、後ろから聞いたことのある声がした。
「こら相原。お行儀が悪いぞ。」
 振り向くとそこには藤村が立っていた。
「あ。」
 藤村はいつものようなスーツ姿ではなく、ジーンズとパーカートレーナーというラフな服装で、私は一瞬誰だか判らなかった。藤村は、驚いただろ、とでも言いたそうに、私を見つめてニヤニヤと笑っている。
「父の知り合いって・・・先生だったんですか?」
「まあな。」
「そうですか。私は部屋に行きますから、後はどうぞごゆっくり。」
 その言葉は随分と無機質で、多分棒読みだったのではないかと思う。実際、どうでも良かったし、私には関係ないと思った。でも、藤村が私の家にプライベートで来ていることを早苗が知ったらどう思うんだろうということが、一瞬頭の中をよぎった。

 部屋のドアを開けると、それと同時に階下から父の大きな笑い声が聞こえた。宴が始まったようだ。どうして藤村が私の家で食事なんかしてるんだろう。嫌な気分になってくる。暫くの間ベッドの上に寝転んで本を読んでいたが、ちっとも面白くなくて本を閉じた。今日渡部先生に会えなかったことが原因だと思った。ただでさえ残りの日が少ないのに、会えなかったダメージは大きい。
 いろいろ考えていくうちに段々イライラしてきたので、私はホットミルクでも飲もうと思ってキッチンに向かった。冷蔵庫から牛乳を取り出し電子レンジで温めていると、隣のリビングから聞こえてきていた笑い声はおさまり、父がなにやら真剣な雰囲気で語り始めているのが聞こえた。父のことだから、どうせ人生論とかそんなところだろう。父はそういうものを他人に押し付けるのが大好きな人間なのだ。キッチンから物音が聞こえたからなのか、母がキッチンとリビングを繋ぐドアからひょこっと顔を出した。
「香織も来なさいよ。ご飯食べるでしょ?」
 来なさいよ、と言われても、行けばそこには藤村がいるのだ。私は母に、ご飯はいらないと一言言い残してキッチンを出た。

 私は庭に置いてある木製のベンチに座ってホットミルクを飲んでいた。このベンチは私が子供の頃に父が日曜大工で作ったもので、今でも父の手作りのこのベンチをとても気に入っている。
「ふう」
 ホットミルクを一口飲んで溜息を付くと、吐き出された息は一瞬で白く変わった。空はすっかり暗くなっていて、ちらちらと星が輝いている。冬は闇が訪れるのが早い。時間の流れが余計に早く感じる。そんなに急がないでもいいのに、もっとゆっくり流れて欲しいのに。ぼんやりとそんなことを考えていると、背後から物音が聞こえた。
「ここにいたのか。何してるんだ?」
 振り向くとそこには缶ビールを持った藤村が立っていた。
「せ、先生こそ何してるんですか。父達と飲まないんですか?」
 私は藤村からすぐに目をそらし、再び空を見上げた。
「なあ、相原。ずっと前から思ってたんだけど。」
「・・・・・・」
「お前俺のこと嫌ってるだろ。」
「・・・・・・」
「まあ理由は大体解かるけどな。」
「・・・・・・」
 長い沈黙を、藤村が優しい口調で破った。
「なあ。お前は今、好きな奴はいるのか?」
「な、なんですか! そんなこと先生には関係な・・・」
「俺はいるよ。ずっと想ってる人。」
 私が「えっ」と言って振り向くと、そこには視線を落としたまま上げようとはしない物憂げな表情の藤村がいた。その横顔はまるで別人のように見える。
 藤村は、程良く色落ちしたユーズドブルーのジーンズのポケットからくしゃくしゃになったラッキーストライクのボックスをを取り出し、ジッポライターをシャキンと鳴らして取り出した煙草に火を点けた。静かな暗闇の中、ジュッという煙草の音と、赤く燃える煙草の先端の火が、やけに存在を主張している。

 藤村は吸い込んだ煙を吐き出しながら静かに語り始めた。
「彼女のことを好きになったのは中学二年生の時。年上の人だったよ。無邪気に笑う人で、とても楽しい人だった。でも、彼女には既に恋人がいて、俺は相手の男にどうしても勝てなかったんだ。全てに於いてそいつの方が俺よりもずっと勝っててさ。悔しかったよ。」
「でも先生だって、その時も今みたいにモテてたんでしょ。じゃあどうにかして奪っちゃえば良かったじゃないですか。」
 私は藤村が「まあな」と言って笑うのを期待してあえてそんなことを言ったのだけど、藤村は全く笑おうとはしなかった。
「奪える訳ないよ。その相手っていうのは俺の兄貴だったんだ。二歳年上の。」
 私は言葉を失った。藤村は続ける。
「兄貴が俺に彼女のことを話した時に、彼女は怒るとすごく怖い目になるんだ、って言ったことがあったよ。でも俺は笑顔の彼女しか知らなくて、兄貴は俺が知らない彼女の顔をたくさん知ってる。俺の知らない彼女をどんどん知りたくなったけど、会えるのは兄貴が彼女を家に連れて来た時だけだ。でも段々うちに来る回数が減っていった。そして俺が高校に入った時、兄貴は生徒会長になっていて、その頃にはもう全く彼女はうちに来なくなっていたんだ。」
「じゃあ先生、今までずっとその人だけを?」
「まさか。それ以降好きな女の子や彼女は何人もいたよ。俺はそこまで純粋じゃない。でもその彼女のことがいつも頭にあった。どんなに好きな女の子がいても、もし彼女が突然現れたら、俺は女の子とは別れて彼女を追ってたんじゃないかと思う。」
 いつも気取っていて軽薄だと思っていた藤村が、こんなに一途に誰かを想っている人だとは思わなかった。
「先生は彼女のどこに惹かれたんですか?」
「そうだな。笑顔かな。」
「笑顔?」
「うん。彼女は美人という訳ではなかったけど、少女がそのまま大人になったような可愛い感じの人で、いつも屈託のない笑顔で周囲の人間を穏やかにさせてくれた。中学生だった俺にとっては高校生ってすごく大人だったはずなのに、俺は彼女の無邪気な笑顔を見て『守ってやりたい』と思ったんだ。おかしいだろ?中学生のガキが年上の女を守りたいだなんて。」

 何だか不思議な気分になった。似てるような気がする。当時中学生だった藤村と、今中学生である私。藤村が彼女に対して抱いた気持ちが、今の私には痛いほど解る。きっと当時彼が彼女に対して持っていた気持ちは、今私が渡部先生に対して持っているそれと同じ。

「で、今はその人とは・・・」
「うん。彼女が兄貴と別れてしまってからはもうずっと会っていなかったんだけど、実は数ヶ月前、本当に偶然に再会したよ。俺も驚いたけど、彼女の方も随分と驚いてたみたいだった。」
「その後、会えたんですか?」
「ああ、昨日も会ったし今日も会った。明日も会うし、明後日もだ。毎日会ってるよ。」
「じゃあ今は付き合ってるんですか?」
「いや、再会しても、彼女にとって俺はやっぱり『昔の男の弟』だったよ。」
 藤村は一気に缶ビールを飲み干して、その中に煙草を入れた。缶の中で煙草がジュウッと鳴り、辺りは再び静かになった。
 どういうことなんだろう。私にはさっぱり訳が解からなかった。付き合ってもいないのに、毎日会うということがあるんだろうか。大人の恋愛ではそういった形でも成り立つのだろうか。でも、いくら考えても、私には解かりそうもなかった。藤村の方を見ると、そういうことだって大人にはあるんだよ、という表情で私を見つめていた。
「ね、ねえ先生。今日は星がきれいですね。」
 単なる教師と生徒という関係とはいえ、私は藤村と見つめ合っていることに恥ずかしくなり、話をそらした。
「ん? ああ、そうだな。」
 二人で夜空を見上げる。何だか不思議な気分になった。あれだけ敵意を持っていた藤村と一緒に、今こうして肩を並べて星を見ていることが、ひどく不思議だった。この人は私が嫌いな類の人ではなく、同士のようなものなのかもしれない。漠然とそんなことを考えていた。

 突然リビングの方から父の大きな笑い声と、母が後片付けをしているような物音が聞こえてきた。食事も一通り終わって雑談に入ったようだ。
「じゃあ相原、そろそろ戻ろうか。」
 私は返事をせずただ頷いて、先に歩いていた藤村の後についていった。
「なあ、俺がこんなことを言うのもなんだけど・・・」
 顔を上げて藤村の方を見ると、さっきまでの真剣な顔は見る影もなくなっていて、その代わりにいつもの悪戯な表情を浮かべた藤村がいた。
「な、なんですか?」
 藤村はニヤッと笑って言った。
「片思い同士、お互い頑張ろうな相原!」
 驚いて立ち止まってしまった私を置き去りにして、藤村は小走りに駆けていった。