恋する街 ―星影―




佐藤 由香里







 ( 6 )

 一番奥のテーブルに向かい合って、けれど目は合わさずに、言葉も交わさずに、私と渡部先生は座っていた。カプチーノの泡が少しずつ消えていく。渡部先生の頼んだモカも徐々に湯気が薄くなっていく。
「おい、冷めるぞ。」
 先生はそれだけ言って溜息をついた。
「そうですね。」
 私も一言返してカプチーノを口へ運んだ。甘いミルクのような恋心は全部飲み干して、きれいさっぱり消化してしまいたかった。白いカップについたピンク色の唇の跡。大人ぶって色付きのリップクリームを買ったことが急に恥ずかしくなってくる。
「この前は悪かった。」
 謝られると逆に辛いのに、この人は全然女の子の気持ちなんて解かってない。
「謝らないでください。謝られると余計に惨めになるから。」
「そうか。」
 外はとても日差しが強くていい天気なのに、店内はまるで夕方みたいだった。薄暗い照明。静かな音楽。渡部先生は黙ってコーヒーを飲んでいる。私も何を言えばいいか解からなくて無言になる。店内ではマスターがカップを片付ける陶器のかち合う音がやけに響いている。
「ねえ、どうして私をここに連れてきたんですか?」
「だって約束しただろ。」
「そうですけど、でも…」
 目を伏せている先生の睫毛の隙間から悲しそうな瞳が覗いていて、私は口を噤んだ。
「本当のことを言うと、このまま二度と会わなければ、俺は一生後悔するような気がしたんだ。なんかさ、上手く言えないけど、お前の気持ちに応えてやれないくせに、お前には嫌われたくない自分がいたんだよ。おかしいだろ?」
「ねえ先生。それって失恋した女の子の傷口に塩を塗るような言葉ですよ。」
「そうなのか? 悪い。俺、その辺のことよく解からなくてな。」
 私は可笑しくなって吹き出した。こんなに鈍い人に気の利いた言葉を期待したって無理なんだよね。
「やっぱりそうなんですね、先生は。どこまでも馬鹿が付くほど真面目。」
「そんな言い方するなよ。俺なりに誠意を見せようと思ったんだ。」
 解かってる。ううん、最初から解かってた。こんな人だったってことを。我慢できなくてくすくす笑っていると、先生はつられて笑った。
「でも良かった。相原が笑ってくれて。お前は笑ってた方がいいよ。」
「そうですね。私も笑ってる自分の方が好きです。」
「だな。」
 そう言って渡部先生は満面の笑みを私に向けた。私が好きになった、渡部先生の少年のような笑顔を見て、何だか胸がすうっと軽くなっていった。この人を好きになったことに後悔はない。私は間違ってなんかいない。

「そういえば相原はS市の高校を受験するんだろ? 実は俺の地元なんだよ。」
「そうなんですか?」
「今年俺は地元に帰って教員採用試験を受ける。そして来年には教員になるんだ。臨時じゃなくてさ。俺も合格するように頑張るから、お前も頑張れよ。だから今度はあっちで会おう。」
 そう言って渡部先生は私に手を差し出した。私も手を差し出す。しっかりと交わされた握手。
「約束ですよ。」
 今日約束を果たした私達が交わしたもう一つの約束。渡部先生を見ると、先生の目には凛とした表情の私が映っていた。お互いの目標に向かって頑張って、来年の今頃にはとびきりの笑顔で会いたい。
 あっちに引っ越したらまずは美味しいコーヒーの店を探すことにしよう。私は心の中でそう呟いた。



 藤村が突然私の自宅に訪ねてきたのはその日の夕方のことだった。
 私は、藤村の新車、黒いスポーツカーの助手席に座っていた。運転席の藤村は缶コーヒーを飲みながらハンドルを握っていた。私も彼の隣でミルクティーを飲んでいた。藤村は少し車を走らせた後、河川敷の土手の端に車を止めて、近くにあったベンチに二人で座った。藤村は顔を伏せたまま上げようとはしない。
「突然ごめんな。驚いただろ。」
「ううん。いいよ。」
 沈黙が続く。藤村が何を伝えたいのか、私には解かっていた。藤村の表情からしてどういう状況なのか判断できる。
「言いたいことは大体判るけどね。」
「あはは、やっぱり?」
 藤村はそう言って照れくさそうに笑った。
「10年間ずっと忘れられなかった、って言ったら、ちょっと困った顔をして言われたよ。今好きなやつがいるんだってさ。参ったよ。あっさり振られた訳だ。」
 無理しているのがよく解かる。笑った表情の裏には哀しく沈む藤村のもう一つの顔が覗いていた。私に何が出来る訳でもないのに、何かしてあげたくて、私は藤村の頭をふんわりと包んで自分の胸元に導いた。
「泣いてもいいよ。」
 私は藤村の耳元で囁いた。私が渡部先生に失恋した時に藤村が癒してくれたように、私も藤村を癒してあげたかった。藤村は何も言わない。
「本当は泣きたいんでしょ。泣けばいいよ。」
 小さな子供達が元気な声を響かせて通り過ぎていく。冬の河川敷。風に揺れる草木。沈んでいくオレンジ色の夕日。重なる二つの影。
「俺、自分の10年にケリをつけたよ。」
 そう言って藤村は肩を震わせながら私の胸に顔を押し当ててきた。私もそんな藤村をぎゅっと抱き締めた。着ていたセーター越しに藤村の息遣いを感じる。熱い。胸の辺りが藤村が呼吸をするたびに熱くなっていき、私の体温も徐々に上がる。
 私は藤村の肩にそっと触れて、体を離した。藤村の頬を伝う涙は顎の先っぽに集まり、雫になって私の膝にぽたぽたと落ちている。私は藤村の涙に、藤村が私にしてくれたように、優しくキスをした。
「藤村。お疲れ様。」
 私はそう呟いて、顎から頬に、頬から目尻に唇を這わせた。開いていた藤村の目はゆっくりと閉じ、まぶたを閉じた瞬間、目に溜まっていた涙がこぼれた。私はそれを軽く吸って、藤村のまぶたにもキスをした。
「なんだか、癒されるな。」
「この前は藤村が私を癒してくれたんだよ。あの時、私は藤村に救われたの。本当に辛かったから、すごく嬉しかったんだ。」
 寒い冬の空の下で、私達は抱き合ってお互いの存在を確かめていた。藤村の体温が温かい。私も藤村も、独りぼっちじゃない。

 空がだんだん暗くなってきた。さすがに肌寒い。
「さてと、そろそろ帰ろうか。」
 そう言って車の方に歩いていく藤村の背中を見て、ちょっと安心した。
「ちょっとは元気出た?」
「まあな。」
 車に乗って再び軽くドライブをした後、藤村は私を家まで送ってくれた。車を降りた私に、藤村がウィンドウ越しに声をかけてきた。
「俺さ、実は来週この街を離れるんだ。俺が行ってた大学の教授が紹介状書いてくれてな、考古学の研究するためにもう一度大学に行く。」
「そんなに急に?」
「いや、前から決めてたんだよ。だからこの街を離れるけじめとして、彼女に想いを伝えることにした。」
「そっか。」
「でも、彼女に告白できたのは、最終的に背中を押してくれたお前のお陰だよ。感謝してる。」
 いつもふざけたことばかり言っている藤村が真剣な顔をしている。もしかしたらもう会えないかもしれない。私は表に出てきそうなもう一人の自分を裏に押し込めて微笑んでいた。
「俺はもうお前の教師じゃないけど、またどこかで会えるかな。」
「今度会う時はびっくりするほどいい女になってるよ。きっと。」
「ああ、楽しみにしてるよ。」
 私は、そう言って笑った藤村の頬に両手を当てて、藤村のまぶたに再びキスをした。
「藤村に涙は似合わないよ。」
 すると藤村は思い出したように、
「お前、そう言えば今日ずっと俺のことを呼び捨てで呼んでただろ。」
 と言って私を睨んだ。
「だってもう先生じゃないもん。」
「お前なあ、ガキみたいなこと言うなよ。」
「いいのガキで。私は今を生きるの。」
 私は笑いながらそう言って、背を向けて手を振りながら小走りで家に向かった。多分、藤村に会えるのはこれが最後。私は玄関のドアを開けて振り返った。
「藤村! これからお互いにいい恋をしようね!」
 藤村に見せた笑顔は、きっと私が今まで藤村に見せた最高の笑顔だったに違いない。妙な友情が生まれた、同士である藤村に見せる私の最後の表情。私は泣きそうになるのを我慢して、笑顔で藤村とさよなら出来た自分を誉めてあげたかった。
 玄関のドアを閉めると、外からは遠ざかっていくエンジン音が聞こえた後、短いクラクションが小さく鳴って、その瞬間涙がこぼれた。リビングのドアが開いて母が出てきた。玄関で立ち尽くしている私を見て、母が怪訝な表情をしていた。



* * *




 お風呂上りはやっぱりホットミルク。カーディガンを羽織って窓を開けた。久しぶりに見上げる夜の空。
 今までの私は、夜空を見ながら明日にならないで欲しいと願っていた。朝になり、やがて夜が来て、徐々に渡部先生がいなくなる日が近づいていくから。でも私は気付いた。やっと解かった。ネガティブな気持ちで『明日』を迎えても、結局自分は何一つ変わらず『昨日』に取り残されたまま、流れていく時間の中で成長できずに置いていかれるんだってことを。でも、星を見てネガティブになっていた私はもういない。渡部先生や藤村に教わったのかもしれない。早く大人になりたいと思っていた割には夜が明けるのを嫌がってた矛盾だらけの私だったけど、彼らのお陰でやっと答えを見つけることが出来た。私は彼らと出会って一回りも二回りも成長出来たような気がする。
 今の私は明日がくるのが待ち遠しい。明日がどんな一日になるのか、私にはどんな未来が待っているのか知りたい。子供とみなされる今のこの時期は、私が大人になるために必要な時間だから、毎日を楽しく消化していきたい。
「明日も素敵な一日になりますように。」
 そう呟いて空を見上げると、黒いスクリーンに映った星がちらちらと瞬き、眩しいくらい輝いていた。





(終)