恋する街 -夜明け前-




岩井市 英知








 徳村誠一はひどく驚いた。なぜなら彼の預金通帳には横並びにたくさんの「○」が泳いでいたからだ。ラインダンスのように。よくよく考えてみればトクはとてもよく働いた。そして生活を簡素にシステム化することにある程度成功した彼は無駄な出費を抑え浪費をする時間を削ることによりかなりの蓄えを得ることになったのだ。平たく言って細かな雑用に相当するような仕事までを没頭するようにこなしてきたのだ、ひとつひとつはたいした代価を得られずともつもりつもればこのような大きな金額になる、当たり前だった。そうしてある意味でうまくいっていた。もちろんほとんどのことがそうであるようにその反面うまくはいかないこともあった。だからそういう場合にはあるひとつの面からだけ物事を見れば良いのだ。それに則り、言う。トクは成功していた。銀行の通帳を眺めて呟く。「システム」。

 ここらで少し休息する必要があった。体に無理をさせてきたこともある。しかしそれ以上に精神衛生上良くない出来事の連続でそちらに負担をかけすぎていた。トクは首をゆっくりと回し、コキコキと音をさせて、フリップトップハードケースの中の本数の少ない煙草の箱をゆっくりと上下に振ってからフリップを開く。そこから巻きの固い--自分の吸うこのパーラメントという銘柄は他のメジャーなフィルター付き巻き煙草と比べてずっと巻きが固いとトクは思っている--この煙草の先に銀製のライターで火をつけた。昨日封を解いたばかりの箱ももう残り少ない。トクは一本を中ほどまでしか吸わず消してしまうくせに次から次に火をつけてしまう悪い癖があった。ソファに腰掛け、テーブルの上のグラスに注がれたスポーツ飲料を飲み干した。こういった飲み物もがむしゃらに飲んでしまう。部屋の隅に転がった普段から持ち歩く大きな鞄を手元に寄せた。この鞄も買い替えたばかりでくたびれていない。中のノートパソコンも購入したばかりだから、買い替える必要がない。どだいどれだけパソコン市場に高性能のものが出回ろうともトクにはワードプロセッサーの代替しか成さないので「欲しい」という欲求さえないのだった。パソコンは好きじゃない。知らず知らずこの金の使い道を考えていた。
 都内で動くぶんには電車が一番便利が良いので車も要らない。またそういったものをうっかり抱えてしまい、面倒が増え動きも悪くなったついでにローンまでを抱える生き方にも常々疑問を持っていたタイプである。大型のバイクはスタイルとしては好きだがいかんせん免許がない。それをわざわざ取得するには大型のバイクはファッションアイテムに過ぎた。それでは、レザーパンツにシングルのライダースでも着込んで銀細工を身にまとい髑髏の刺青でも入れねばならない。冗長に過ぎる。トクは想像してみた。まったく冗長に過ぎる、ロックンロール。
 引越し、と考えた。だがこの今住む部屋には愛着があり、またこういった先の不安定な生業ゆえに大掛かりな住み替えも時期尚早だった。でなければ、旅行。海外旅行を好まないトクはゆっくりと温泉地にで行くことを考えてみた。そうして思う。--うん、それはいいかもしれない--と。煩わしいパスポートだの何だのも必要ない、温泉地、悪くなかった。トクはゆっくりと浸かれる風呂が好きだった、ゆえに温泉も。
 馬鹿げた企画も頭の悪い奴らもいない、温泉地。そこでたっぷりと貯金が底を尽きるまで過ごす。すっかり気分はそこにあり、それを思いついた翌日にデパートで丁度良いサイズの旅行鞄の購入までを済ませていた。パンフレットを集め、インターネットでめぼしい宿を検索し、替えの新しい下着をいくつか、着てゆく上着も新調した。すっかり底の減った革靴も気にいったものを新しく買った。旅館の料理を食べる順番までを夢想していた。あとは当初逗留する宿の予約だけだった。それについては少々迷っていて、熟慮する必要があったのだ。いったい、どのくらいの宿を転々とすることになるだろうか。それによっても選択の組み合わせは変わってくるのだ。楽しくてたまらない。こういった段取りを考えることはトクの得意とすることだった。


 馬鹿げた電話は馬鹿のように鳴った。
 トクは悶絶するように言葉に詰り、その後で項垂れた。




 徳村誠一の以前について。

 彼は文章について考えることを主とする学部のある大学に在籍していた。そこでは彼はゼミで「セクシャリティーについて」をディスカッションしていた。そのゼミの教授というのはトクが生まれて初めて尊敬することが出来た人間であり、男だった。もっとも「尊敬」とはいっても人格の全肯定などではなく、単純な「頭の良さ」ということに対してだった。理解力や他者の意見を受けた後での提言というものは先天的なもののみならず不断の努力と確固たるライフスタイルによって形成されるのだとそこで伺い知る。何しろその男は映画の見方からして違う。見た映画の制作された年代と監督、主演、助演、ある程度のスタッフ、略歴、そして、あればその受賞した賞。そういうものを全て憶えておき、言うことが出来る。またその見た映画の量というのが膨大すぎた。彼は映画を見る際に暗闇でメモを取る。そしてそれらを丁寧にファイリングするのだ。映画ひとつをとってもその様だ。またそれを特別にアイデンティファイしない。先に「不断の努力」と言ったが、それは本人にすればそれに値しない。ただ緩慢と暮す他者からはそう見えるだけだ。トクはそれによって初めて知る。まさに晴天の霹靂だった。--その男は、ただ、そういう人間なのだ--と。
 それまではトク自身、かなりの自信を持っていた。「頭の良さ」について。だがトクは何も身につけていない。読んだ本が少しばかり多い。しかもそれは大学の中庭で目的もなく地べたに座っている者と比べてだった。難しい言葉を知っている。それは明らかにその言葉を知らない者と比べてだった。トクは何か、急に自分が空虚になった気がした。--天は人の上に?--人の下に?--しゃらくさい、ひとりとしてその両の足だけで地面に立ってはいない。トクの知る限り、たったひとりその男を除いて。

 トクが初めて性体験の中に「セクシャリティー(らしきもの)」の一端を垣間見たのもその時期だった。交接はただの純粋培養された性欲どうしの成す産物だと考えていて、乱暴な話、男女がふたりそこにいさえすれば成り立つものだと思っていた。「交接したい」と望む気持ちが何を指すのか分からなかったし、それはコース料理においてアンティパストの後に必然的にメインが食べたくなる腹の頃合になることと同じだった。もしそこに出てきたアンティパストがとても美味だったとして、それだけを食べ続けることの虚しさはどうにも説明がつかないのである。そうして腹を膨らませるだけのものならば、いくらでもあった。ただ腹が膨れた後、ひどく虚しい。
 トクはあるひとりの年上の女性と同棲をはじめた。家出同然で家族の住む家を飛び出し、そこへ流れついた。雨風を凌ぐ屋根があり、食事が出され、そうして大きな風呂がある。彼はその女性のことをとても好きだったが、彼女と交わることは、それほど、彼女を愛しく思うほどには好まなかった。しかし自身が彼女を喜ばせることは好きだった。トクは思う。--これは、こういうもの。--
 飛躍的な進歩を遂げた。定め思うことで、それは飛躍的に。割り切りが物事を円滑かつ上手に進めることはままあった。彼女の右手に口唇性愛を二時間。彼女の左手に口唇性愛を二時間。おおげさに言って、ゲーム。--ゲーム--トクは口に出してみた。ゲーム。とはいえ、彼女はトクにとってかけがえのない精神的支柱だった。それが抜けると家は崩れる。ふたりの関係は家を支え合う関係だった。穏やかに。

 トクは彼と初めて会う女性にとって、大概「素敵な男性」であれた。何しろその顔の造作は嘘っぽいぐらい整っていたし、低い低音から放たれる理知的な声と意地悪そうな企みを佇ませた瞳に、本当に大概の女性は彼を好いた。だが彼を少しでも知れば彼女らは離れていった。もしくは魔法が解けるのかもしれない。その王子様はとても意地悪で素敵なのだけれど一晩限りしか愛すことはできないのだった。夜が明ければ元の退屈な恋人の下に帰るのが彼女らにとって望ましかった。そしてそれはどうしようもなく正解だった。
 ゲーム。トクはそこそこ優秀なプレイヤーだった。どこか闇の間に「ちょっといいな」あるいは簡潔に「セックスしたい」と思う女を見つければ、そこからがゲームスタート。またも高得点。人生は虚しく楽しい。


 彼女は言った。
 「きっとあなたは誰にも愛されないかもしれない。あなたはとても大事なものを知らず知らず手放した」


 留年に留年を重ねて何となしにしがみつき続けた大学にとうとう放り出された年、トクは職についた。とにかく金が欲しかった。彼は風俗店の店員募集の告知を見つけ、そこに飛び込む。驚くぐらいの賃金を得た。だが驚くぐらいの労働時間でもあった。元来的には社交性に乏しい男であったが、彼には習得した感覚がある。ゲーム。それも同じだった。だいたいが風俗店の店員に流れつくような要領の悪い男たちは彼に追い付く術がない。同僚の中で刺青を入れていないのは彼ひとりだったし、彼を含めて全員に前科があった。もちろんそうでない者もいたにはいた。だがものの数日長くて数ヶ月、ことごとく消えていった。訳も言わずに。  トクの勤めた店の従業員は自堕落な男が多かった。週ごとに手取りで渡される給料などものの数日で煙に消してしまうような男ばかりだったし、そうでなければ借金が山ほどあった。そして怠け癖があった。トクは勤勉を重んじる男であったから当然のように信用も買うし気が付いたら幹部になっていた。彼より早く入った者を彼は使い、本部から伝えられるノルマも当然のようにこなした。女性スタッフはみな彼を好いていた。その中の何人かは本気で彼を好いていた。規則のほうでは赤信号を灯していた。だがトクはこのゲームの中を円滑にそして上手に遊ぶコツを知っていた。信号は青だった。  トクがその店の中で交際していたのは四人だ。そのうちの二人には恋人がいてそれを承知での交際を希望した。残り二人のうちの更にひとりは広く大きなマンションに越し、ひとりは交際中だった恋人とも別れた。みな、売上のある娘ばかりだった。
 トクはそれなりに満足していた。時間はないが、金はある。休暇など一月に一日とて確定としてとることは出来ない、だが金はあった。彼の財布には常に九万円の束に一枚の一万円札で帯がしてあり、その束がいくつも入っていた。彼は靴下を洗わない。彼はシャツをクリーニングに出さない。その都度新しく購入するのだった。
 交際していた女性の全てと別れた後でも彼は性的欲求を滞りなく解消することができた。彼が密かに近づけば最後彼女達誰もが「嫌」とは言いはしない。ある程度納得のいく地点に到達したらあとはそれを繰り返すことが出来なくなるまで繰り返せば良い。狭く浅いところで泳ぎ続けるのだ。適度に洗練された同じ日々の中、浅い水面を叩き続ける。トク曰く、「世界中で一番安いソープランドだぜ、だが尻の穴はもうちょっとばかり高い」。

 彼はそのゲーム中で静かに狂っていった。




(つづく)